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渡りくる人々2021シリーズ M

「源氏物語」と海外文化②


源氏物語に登場する外国は、
中国ばかりではない。
中国の呼び名は、
当時は「宗」です。

ちょいと
Wikipediaから
学習を致したく。

960年 - 976年 太祖
1022年 - 1063年 仁宗
1278年 - 1279年 祥興帝

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、
中国の王朝。
趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。

国号は宋であるが、
春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、
帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。

国号の宋は趙匡胤が
宋州(現在の河南省商丘市)の帰徳軍節度使
であったことによる。
通常は、金に華北を奪われ南遷した
1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。

北宋・南宋もともに、宋・宋朝である。
首都は開封、
南遷後の実質上の首都は臨安であった。


よって当時生きていた、紫式部が
海の向こうの海外として触れた宗国は、
北宗であったことが、解る。

源氏物語の章。
「桐壺」では、
高麗人、、こまびと。と読む。
または、こまうど。
これには有能な人相見がいたと。

宗の人相見とは、人相を見て
運命や吉凶などを判断する人です。
観相家や人相家とも呼ばれます。

🔷参考
安倍 晴明
(あべ の せいめい / はるあき / はるあきら 、
921年2月21日(延喜21年1月11日)
~1005年10月31日(寛弘2年9月26日))

は平安時代の陰陽師。彼は、
各種史書では『竹取物語』にも
その名が登場する右大臣阿倍御主人の子孫とある。
同時代に生きていた。


古くは相工(そうこう)、
相人(そうにん)、相者(そうしや)など
とも呼ばれ、奈良時代から
職業的な相人がいたようです。

「源氏物語」にも、

桐壺帝の第2皇子として生まれた光源氏。
最初の予言は
源氏がまだ皇子だったころ(第1帖「桐壺」)。

来日していた高麗の人相見に
父の桐壺帝が源氏を見せると
「この子は帝位に就く相だが、
帝になると世が乱れる。かといって
補佐役という相でもない」といわれる。

悩んだ父帝は、
源氏に源性を与えて臣下としたのである。


のちに光源氏は、
冷泉帝より「准太上天皇」の待遇を受ける。
これによって、
「帝位には就かないが補佐役ではない存在」
となる。

🔷しかしながら、平安時代の人々にとって
占いは非常に重要で、
「予言は当たるもの」と信じられていた
ことが、『源氏物語』からは伝わる。
🔷現代とは少し異なると。云う人もいよう。


「梅枝」には、
高麗人が献上した、
綿や綾が見えます。

光源氏39歳の春の話。

「梅枝」(うめがえ)は、第32帖。
『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。

紫式部が生き、活動していた時代は、
朝鮮半島の高麗を指すが、
ドラマ物語でも描かれたように、
漂流、漂着も含めて
我が国との接触はあったのでした。

紫式部が、
海外文化に興味を抱き、
海外知識を得たいとの
元になったのでしょう。


また、

「宇津保物語」。
うつほ、と読みます。
うつぼ、、濁点はありません。

『うつほ物語』
(うつほものがたり、宇津保物語)は、
平安時代中期の10世紀後半に成立した
日本最古の長編物語。

全20巻、著者は不明だが源順説などがあり、
架空の話である『竹取物語』と
現実的な『源氏物語』の双方の特徴
を持つ作品で、
当時の貴族社会における求婚や争いを描いている。

『源氏物語』や『枕草子』の中で
『うつほ物語』の一部が記されており、
この2作品以前に存在していたことがわかる。

『源氏物語』の第17帖「絵合」には
「『うつほ』の俊蔭の物語絵」が見え、
『枕草子』には源涼と藤原仲忠の優劣論争
が記されている。

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