李白『将進酒』を読み解く(アークナイツ雑学)

【注意】筆者は中国文学の専門家ではないため、情報や解釈の正確性に欠ける可能性がある点、ご留意ください。

詩仙の李白。詩聖の杜甫と並んで中国唐代を代表するこの詩人は、国語の教科書にも取り上げられていることから、中国文学を専門としない人であっても記憶に残っている名前ではないだろうか。

筆者も中学国語で、李白の『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』を履修し、テスト勉強目的で暗記した記憶がある。

この度、アークナイツイベント【将進酒】実装にあたって、考察の要素となり得るであろう李白『将進酒』を読み解こうと試みたが基礎知識が欠如していたために、ただ「酒を飲もう」という意味合いしか汲み取ることができなかった。

この記事は、詩仙と名高い李白がどのような時代・社会を生きたのか、どのような人物だったのかを紐解いていくことで、イベントに対する解像度を少しでも引き上げようと試みた筆者の悪戦苦闘っぷりが記されたものである。


唐の成立

李白は唐の詩人であるが、そもそも唐とはどのような時代であったのかをまず簡単に紹介したい。

中国年表
中国年表 ※拡大表示推奨。オレンジ色が唐

唐は約300年に渡る王朝であり、中国史の中でも比較的長い区分に位置づけられる。その前の時代(隋)より、律令(法律)や租庸調(税制)といった制度を踏襲して中央集権体制を強化し、科挙(官僚登用試験)を引継ぐことで能力ある政府の役職へ登用するといった仕組みによって、国を発展させている。


隋朝、暴君と名高い第2代皇帝煬帝(ようだい)は、大運河を完成させるために大規模な土木工事を行った弊害で民衆への過重な負担を強いたことに加え、近隣国であった高句麗遠征の失敗により国を荒廃させたことで、各地の反乱を招く。

度重なる反乱鎮圧に疲弊した煬帝が50年の人生を幕を閉じた618年、煬帝の孫にあたる恭帝から禅譲(帝王が子孫ではなく有徳者へ位を譲ること)を受けた隋の官僚李淵は、を建国した。

第二代皇帝の太宗(李世民)は、唐の建国は李世民の存在なくしては語れない。李世民は李淵の次男にあたり、挙兵に及び腰だった父を焚き付けたエピソードが残っている。

李世民は、漢の高祖である劉邦に倣って略奪を禁じたことに加え、配下へ十分な恩賞を与えたことで侵攻地である長安の民と部下たちの支持を一挙に集めた。初代皇帝の李淵が率いる軍では統一中々進まない場面もあったが、李世民が指揮を始めた途端に一気に勝敗が決し、後顧の憂いなく統一の礎を築くことになる。

中国史きっての名君として数えられることの多い李世民は、隋の制度を受け継いだ律令体制、三省六部の中央官制、均田制、租庸調制、府兵制など、中央集権的な人民支配を果たすための数多くの制度を整えるた他、卓越した武力により、突厥・高句麗・西域諸国、南海の征服に成功したことで領土拡大を実現するなど、文武の徳を備えていた。

これらの史上、類を見ないほど安定した一代として評価されており、「貞観(じょうがん)の治」として知られている。

こうして勢力を伸ばした唐の国は、「大唐帝国」と呼ばれる巨大な世界帝国へと発展し、以後およそ300年に渡り中央アジアを統治することとなる。


唐の都、長安について

唐の都長安は最盛期で人口100万人を有し、各地の商人や旅人で賑わう国際都市的な大都市であり、仏教や道教、イスラム教など様々な宗教の寺院が建てられ、様々な文化の交流地点ともなっていた。「唐代三夷教」という名で知られる通り、キリスト教ネストリウス派(景教)やゾロアスター教(祆教)、マニ教(明教)など西方を起源とする宗教の布教が認可されていたこともある。

唐は周辺諸国にも多大な影響を及ぼし、当時の最先端文化を発信する役割を担っていた。この国際色豊かな様子を、李白は次のように表現している。

五稜の年少金市の東、銀鞍白馬春風を度る。落花踏み盡くして何れの處にか遊ぶ、笑って入る胡姫の酒肆の中。

五陵の若者たちは、金市の東の繁華街、銀鞍の白馬にまたがって、春風のなかをさっそうと行く。いちめんの落花を踏みつくして、どこへ楽しみに出かけるのか。にぎやかに笑いながら繰りこんだのは、碧眼の胡姫の酒場のなか。

『李白詩選』松浦友久訳

胡姫とは、異民族の女性のことであり、唐詩においてはペルシア(イラン系)の紅毛・碧眼・白晳の娘を示す言葉。長安の繁華街は、イラン系の商店や胡姫のいる酒楼で溢れかえっていることが窺える。


日本の歴史の教科書でも扱われている通り、先進的な中国の技術や政治制度、文化、仏典の収集を目的として「遣唐使」が派遣されており、唐文化の輸入は200年以上に渡っている。

「遣唐使」の中にはそのまま唐の役人となった人物もおり、例えば日本からの留学生として717年に入唐した阿倍仲麻呂は外国人としては異例の出世を果たし、政府の高官となった。文化人として李白や王維とも交流があったという。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 井でし月かも
阿倍仲麻呂

嵐に遭い帰国が叶わず、故郷へ思いを馳せて詠んだこの和歌は、百人一首にも収録され広く知られる。


李白の出自と「詩仙」

李白が生きた701-762年は盛唐と呼ばれる唐詩の黄金期であり、王維・王昌齢・元結・杜甫・孟浩然と、中国文学史において多くのすぐれた詩人を輩出した時期として知られている。

李白の臨終にあたってその生涯が書き記された李陽冰「草堂集序」(762年)によると、李太白(長庚星=金星)の夢を見て懐妊したと記載があり、名前と字である「太白」はそのエピソードに因んでつけられたとされている。

李白の出自や出身地には諸説ある。「草堂集序」や范伝正の「唐左拾遺翰林学士 李公新墓碑」によると、隋代末期に西域逃れた一族が姓名を変えて蜀(現在の四川省)へ移り住んだ漢民族で、本来の李性に復したというのが通説されてきた。

しかし、蜀に戻ってくる必然性が無いことや、李白誕生時点で復姓したタイミングが恣意的であること、そして李白の父には漢民族としての本名が存在せず、よそ者を意味する「客」という通称を使用していたことなどから、西域生まれの少数民族とする新説も存在する。

李白が漢民族か少数民族かという説の違いは、杜甫や王維を始めとする同時代の著名な詩人が科挙の受験者だったのに対して、なぜ李白は科挙を受けなかったのかという疑問を解き明かす理由付けに大きく影響している。

通説では李白の豪胆で放逸な性格が科挙を無視するに至ったと解釈されるのに対し、少数民族という家柄故に受験者としての資格自体が無かったと判断されるのが新説だ。

新説に沿って解釈するならば、異民族の移住者「李客」(よそ者の李)の子として生まれ育ち、科挙の試験も受けられずに疎外感を抱き続けた中で、詩壇の長老賀知章から「謫仙人(たくせんにん、天上世界から人間世界へ流謫されてきた仙人)」という評価が与えられたことは、ネガティブに作用していた李白のよそ者意識を、非日常的な天才性や免責性をポジティブに際立たせるよう昇華させたとも捉えることができる。

かくして、
①非日常性
②天上的な才能
③物事に囚われない自由闊達さ
を有する仙人的な…所謂「詩仙」としてのイメージが定着していった。


杜甫から見る、李白の詩と性格

李白の詩がどのような特徴であるかを表すには、同時代を生き「詩聖」と呼ばれた杜甫との比較が分かりやすい。

「聖」とは、
①知徳に優れた人
②賢い、聡い
③天子の尊称
という意味を含んでいる

儒教において、「聖人」とは「人間が辿り着くことのできる最高の境地」という意味があり、天性の才能を持つ李白に対して、努力を重ねて才能を開花させたのが杜甫である…と解説している向きもある。

実際には、杜甫が「詩聖」という敬称を獲得したのは南宋~明代初期とされており、晩唐期に記述され始めた杜甫をめぐる終焉説話「牛肉白酒」では「杜甫=詩史」という”現実直視”の杜甫像が描かれており、詩の違いという意味ではこちらの方が意味を掴みやすい。

杜甫は政治や社会に関心を寄せることが多く、民衆の日常や政治にまつわる詩を多く残している。

対して李白は、月夜に舟を浮かべて酒を飲み、水に映る月を掬おうとして溺死したという逸話からも分かるように、「酒」「月」といったテーマで、自由奔放な旅の中で目にした情景を詩にすることが多い。


李白は40代の頃に長安で朝廷に使えている。宮廷歌人として玄宗皇帝に仕えた李白は、楊貴妃を牡丹にたとえた「清平調詞」を詠ったことで玄宗皇帝から重用されるようになる。

しかし、側近であった高力士はかつて宴席で李白の靴を脱がせられたことを恨みに思い、「清平調詞」の第二首で前漢の成帝(身分が低く漢帝国を傾国へと導いた)皇后趙飛燕が詠われていることを理由に貴妃へ讒言し、玄宗も遂には李白の登用を諦めることに。
※皮肉にも、趙飛燕同様に楊貴妃も「傾国の美女」という異称を獲得することになる。

長安を追い出された李白は44歳の頃、長安の東に位置する洛陽(もしくは更に東の梁宋)で当時33歳であった杜甫と出会う。二人は、酒を酌み交わしたり、各地を放浪し、およそ1年半ほど交流をしている。

李白は一斗詩百篇
長安市上酒家に眠る
天子呼び来きたれども船に上らず
自ら称す臣は是れ酒中の仙と

『飲中八仙歌』杜甫

この詩は杜甫が李白を詠ったものであるが、李白は酒を一斗(約18ℓ)飲むごとに百編の詩を作る、自分のことを「酒中の仙人だ」というのだ…と酒飲みである李白を描写した。

礼教を無視した酔態と天才的な詩作能力は、朝廷という”天上”世界に収まるものではなく、追い出されるのはある種必然だったとも捉えることができる。


将進酒に込められた思想

さて、唐の時代、李白の人柄と詩の特徴を見てきた後で、ようやく件の将進酒について確認していきたい。

将進酒

君見ずや黄河の水 天上より來たり
奔流して海に到りて 復た回らず
君見ずや高堂の明鏡 白髮を悲しみ
朝には青絲の如きも 暮には雪と成る
人生 得意 須らく歡を盡くすべし
金尊をして空しく月に対せ使むる莫れ
天 我が材を生ず 必ず用有り
千金は散じ盡くすも 還た復た來たらん
羊を烹 牛を宰して 且く樂しみを爲さん
会ず須く 一飮三百杯なるべし

岑夫子 丹丘生
酒を進む 君 停むること莫れ
君が与に一曲を歌わん
請う君 我が為に耳を傾けて聴け
鐘鼓 饌玉は 貴ぶに足らず
但だ長醉を願いて 醒むるを用いず
古來 聖賢 皆 寂寞
惟だ飮者のみ其の名を留むる有り

陳王 昔時 平楽に宴し
斗酒 十千 歓謔を恣にす
主人 何為れぞ 銭少なしと言わん
径ちに須く沽い取り 君に対して酌ぐべし
五花の馬 千金の裘
児を呼び将き出して 美酒に換えしめ
爾と同に銷さん 万古の愁いを

『将進酒』李白

さあ酒を飲もう。

君よ見たまえ。黄河の水は大空から流れくだり、激しく海に流れ入って、決して戻ることはない。
君よ見たまえ。立派な広間に住む高貴の人々も、澄んだ鏡の中に白髪の老いを悲しんでいる。
朝にはつややかな黒い糸のようだったのに、日暮れには雪のように白くなってしまうその老いを。
人として世に生まれ、心にかなうことが有ったなら、歓びを味わい尽くすことが肝腎だ。金樽に満ちた美酒を、空しく月光のもとに放置してはならない。
天が私という人材を生み出したのは、必ず役に立つところがあるからだ。
羊を煮、牛を料理して、ひとまずは楽しもう。
飲むからには、かならず一度に三百杯を重ねよう。

岑先生よ、丹丘君よ。
酒を進めよう。君よ、杯の手を停めないで。
君らのために、一曲を歌おう。
どうか私のため、耳を傾けて聴いてくれ。
鐘や鼓の立派な音楽も、美玉のようなご馳走も、貴ぶほどのことはない。
ただこの酔心地がつづいてほしい、醒めてほしくない。
昔から聖人も賢人も、みんな寂莫と消え果てたなかで、ただ大酒飲みの男だけが、その名を今に伝えている。
たとえば陳思王曹植は、その昔、洛陽の平楽観で宴会を開き、一斗一万銭の美酒を飲んで、存分に歓楽をつくしたのだ。主人たる私が、どうして銭が足りないなどと言おう。
構わず買いたして、君らを酌ごう。
五花の名馬も、千金の皮衣も惜しくない。
給仕の少年を呼んで持たせてやり、美酒に換えて来させよう。
胸に積る万古の愁いを、君らと共に飲んで消そうではないか。

『李白詩選』松浦友久訳

この「将進酒」が詠われた年代については、定説がない。漢文学史、唐詩・日中比較詩学を専門としていた松浦氏によると、近年になって李白が30代半ばに作った作品とする説が有力とされているが、古くからの研究では40-50代の作品とする説もある。

この詩が作られた時期によって、李白が朝廷での生活を経ているかどうかが変わってくるが、朝廷での挫折経験にせよ、科挙の受験資格がなく出世のチャンスが無いことにせよ、何かしら憂いを抱えていたことは、特筆に値する。

原文の最後には「万古愁」という表現が使用されており、これは「永遠に消え難い憂愁」を意味する。

一見すると、気心の知れた仲間たちと共に楽しく酒を飲む詩であるように捉えることができるが、その根底には理想が実現できず、挫折した李白のやり切れない思いと悲しみが渦巻いていると捉えることができるだろうか。

李白は青少年期に道士(道教の信仰者)としての修行を積んでおり、酒と月で知られる李白の詠う詩の根底には、道教の考えや無常観が根強く表れている。

酒は「客中策」では旅愁を慰めるものとして扱われる反面、「将進酒」では死に収斂される万古の愁いを消すものとして詠われる。月は「月下独酌四首」で李白にとって極めて親しいものとして扱われる反面、「把酒問月」では人間の儚さと月の永続性が対比され、親近感ではなく憧れの対象として表現される。

李白の仙人への憧れ…即ち、永遠の生への欲求は道教への傾斜に表現され、罪を赦されて天上の仙界へと帰っていくという含意のある「謫仙」というあだ名を好んだのだろうか。
※「謫仙」自体に天へ戻るという意味は無いが、天へ戻る「謫仙」の物語が存在する。

「黄河」はそのまま、長江に次いで長い中国の北部を流れる川を指す言葉だろうが、これを道教思想と結びつける論文もある。

道教において、仙人の住む世界は黄庭と呼ばれ、その仙界の王者は黄帝という名で知られている。黄色は夢幻の世界に引き入れる不可思議な魔力を伴い、悠久の生命を持つ河を「黄河」と呼ぶが如く、黄色は人の手を加えないあるがままを意味する「無為自然」の処世を理想とする人々が選んだ民族生活のシンボルとも言える。

将進酒でも冒頭で「黄河」という単語が使われており、他の詩でも「黄」という文字を詩で李白は多用している。このことからも李白が不死を追求する神秘的かつ実践的な道教の信望者であることを窺い知ることができるだろうか。



さて、何故李白についてここまで掘り下げたかというと、『将進酒』イベントで実装されるリィンのモデルとなっていると聞いたからだ。

他、アークナイツの『将進酒』でも道教としての思想が多分に含まれているという噂を聞いたので、本日(7/29)より始まるイベントを全力で味わい尽くし、これを期に様々な中国文化を探求したい。


参考文献

山本英史『中国の歴史』河出書房新社
松浦友久編訳『李白詩選』岩波文庫
高島俊男『李白と杜甫』講談社学術文庫

参考論文

松浦友久『李白「将進酒」は楽府詩か歌行詩か ―「様式と表現機能」の視点から―』
砂山稔『李白と唐代の道教―レトロとモダンの間―』

参考サイト

※年表デザインの参考にしました。


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