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アークナイツのアニメ黎明前奏1話感想を、ただただ語る

濃厚な世界観と重厚なシナリオ、ときには目を背けたくなるほどの展開を遠慮なく描写し、ユーザーの情緒をかき乱してくるアークナイツ。

放映されるまでは、尺・納期や資金繰りといったアニメ特有の制限から、必ずしも納得のいく質で仕上がらないのではと一抹の不安がよぎりはしたものの、少なくとも1話から感じ取れる作品のクオリティは求める期待感を大幅に上回るものであった。

ソシャゲという特質上、キャラクターたちのセリフが大部分を占め、静的な立ち絵で表現されるシナリオは、アニメ化によって声色・仕草・表情などの脳内で補完していたキャラクター像がより鮮明に映し出されることになる。

現実世界の映像を撮影するのとは異なり、空想上の世界観を矛盾なく表現するために細部に至るまで緻密に描き込まなければならず、作品の質は予算規模や人員、スケジュール、各スタッフの経験値に大きく影響されるものだろう。

掴みとなる回だからこそ力を入れたというのは勿論あるだろうが、様々な制約が存在するなかで細かな点までこだわり抜かれて制作されたというのが、1話に対する率直な印象だった。

手始めに驚いたのが、音響に対するこだわりだ。ドクターが石棺から目覚めるシーンをヘッドフォンで聴くと、正体不明の女性の声が前後左右へ駆け抜け、ぞわぞわとような、得も言われぬ音声が、こちらの集中力を作品へと急激に引きつけた。

アークナイツを開発するHypergryphは、ゲーム音楽のために会社を設立するほどのこだわりから、実質音楽会社ではないかとよくネタにされるが、日本での展開を担うYostarもまたそれに負けじと音へのこだわりを貫いているように見え、フェイスガードやガスマスクをつけて収録するような徹底ぶりからもそれは垣間見える。

この漫画によるとドーベルマン役の種崎敦美氏は自らリテイクを打診し、他声優もその姿に影響され、より高みを目指すような制作現場になっているという。

実際、その演技力に息を飲んだのが、「何も思い出せない」と告白するドクターに各キャラクターが言葉を失った後のシーンだ。

1カットずつアップで、表情に影を落としたキャラクターたちが絶句するそのシーンの構図もさることながら、作戦の要である指揮官が機能しないという絶望的な状況に焦りを隠せないドーベルマンに対して、まるで自らに言い聞かせるようにただひたすらにドクターを信じると「大丈夫です」と繰り返すアーミヤは非常に印象的だ。

この場面における二人からは心底からの不安や焦り、意見の食い違いによる苛立ちが声色から特に感じられ、非常に鬼気迫るシーンに仕立てられていた。

元軍人という出自から、現在の状況がどれほど緊迫したものであるのかリアルに把握できてしまうドーベルマンと、過去のドクターがどんな人物であったかを知っているからこそ巨大な信頼を寄せるアーミヤの応酬は、まさしくゲームでは表現しきれない行間を埋めるのに最適な演出であると言えるだろう。

上記やり取りの中でドーベルマンは自らの意見を一旦引っ込めているが、敵兵がひしめく場所へ逃げ込む民間人を目撃し救出しようとするアーミヤに対して、再び反駁した。

この場面は原作以上にドーベルマンとアーミヤの意見対立が強調されたものとなっていたが、軍人時代のドーベルマンが、上層部の立てた作戦に従ったことで部下を全滅させる悲惨な過去があったと、ゲームのオムニバスストーリーにて仄めかされていることを踏まえると、彼女の人となりにより深みを与えているようなアレンジに感じる。


指揮を任せられたドクターについても、原作ゲームでは「任せてくれ。」「このくらい、すぐに終わらせてやるさ。」という選択肢が表示されるような安定感のある(あるいはチート感のある)キャラクター性であったが、起きた直後の嗄声で囁くように意思決定をする様は、より人間みのある姿であった。


また、救出された民間人の親子二人についてもアークナイツ世界観の解像度が上がるアレンジがされていた。

手を振る無垢な子供とは対象的に、感染者であるアーミヤに対して母親は辛辣な態度を取る。母親の耳にはイヤリングがつけられていることから、装飾品をつけるほどの生活的余裕がある貴族階級の市民であることが窺え、救出されたことに感謝の言葉は伝えこそすれども、舞台となった国における感染者への差別意識が明瞭に顕れる場面となった。


ゲームを原作とするアニメは、新規を取り込みながらもシナリオを熟知している既存プレイヤーの期待感にも応えなければならない。

新規層への分かりやすさや引きの良さを重視し原作シナリオからかけ離れてしまった場合は、「求めていたもの違う」という既存プレイヤーの失望感を招き、逆に既存層がゲームプレイをしているからこそ理解できるようなネタや前提知識を多く必要とするような重厚な設定を全面に出してしまえば、アニメしか知らない視聴者は置いてけぼりとなる。

一般論ではあるが、新規と既存の天秤のバランス感は、外部に情報を漏らせないクローズドな制作会議において、自らの負うべき責任が無い状態で口を出せる人間が多くなるほど、どちらか片側に傾きやすい。しかし、それを防ぐ仕組みづくりが後述する出資方式にあるのだろうか。

アークナイツは中国発のゲームということもあり、ゲームリリース初期は中国語を直訳したような言い回しが多かったが、アニメ化にあたりYostarは4章までのシナリオを大幅に書き換えている。

アニメ化に際して、必要に応じてシナリオそのものをリメイクするほどの翻訳書き換えは、ときに元の言い回しに慣れていたユーザーの不満を招く結果に繋がる(実際、とあるキャラクターの小悪魔的な言い回しがなくなり残念がるような意見も見かけた)。

他方で、既に粗方できあがっていた作品をより面白いものに仕立てるべく、制作後半に事前計画を敢えて崩し大幅に改変したことで大ヒットした映画やゲーム作品は枚挙にいとまがなく、アークナイツのアニメ化にまつわる動きも多かれ少なかれ、制作の不確実性を飲みながら前へと進んでいるように見える。


アークナイツのアニメは、複数企業出資の製作委員会方式でなく、YostarとHypergryphのみにしたことで横槍入れられず存分に表現する土壌を制作環境を形成していると言えるだろう。

Yostarがアニメ制作会社を設立した理由についてはインタビュー記事が存在しているが、その中で「クオリティの低いものを無理して作る必要はない」という発言が出ている。

過密スケジュールにて同時並行でアニメ制作するために、どこかで作品に対して妥協せざるを得ない…といった環境ではなく、自前の制作会社で納得のいくクオリティに仕上がってからアニメを出すという放映戦略は、質の高い作品を生み出すための強固な仕組みと言えるのではないだろうか。


複数企業が出資しているわけではないため、今回のアニメに伴って販売される円盤の売上は、そのままYostarやHypergryphへ入ることになる。

気は早いがアークナイツのアニメ二期放映やサイドストーリーの映画化を夢見て、その売上に少しでも貢献できるようBlu-rayを予約した。


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