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【シラクザーノ考察】イタリアとマフィアの歴史から紐解くシラクーザ(アークナイツ)

【注意】この考察は非公式であり、ネタバレや個人の見解、推測を含んでいます。2023年7月時点の情報を元に執筆しているため、今後の実装次第で公式設定とはかけ離れた考察となる可能性がある点を予めご了承ください。

シラクザーノ実装直前、アークナイツ公式生放送にてHypergryphプロデューサーの海猫絡合物氏がメッセージを寄せた。

海猫絡合物氏

「シラクザーノ」では「塵影に交わる残響」に続き、ゲーム内のコンテンツの中に、お話の舞台となる地に関連する文化的な要素を取り入れる試みを行いました。

アークナイツ公式生放送~2023春の大感謝祭スペシャル~

ヴィクトリアはイギリス、炎国は中国、カジミエーシュはポーランド…と、テラ世界の各国は、現実世界の国家をモデルとしており、アークナイツの設定には元となる国の史実や文化的要素が数多く取り入れられている。

それらを意識せずとも十分にゲームとして楽しめる作りにはなっているが、プロデューサー自ら、多くのファンたちが視聴している生放送にてこのようなメッセージを届けてくれると、やはりそれを知りたいと願ってしまう。

膨大な歴史や芸術作品、文化的な背景を読み解くのは決して容易なことではなく、そもそも調べた事柄を本当に元にしているかどうかは開発者のみぞ知り得る情報であるため、あくまで個人の見解や憶測の域を超えることはできない。

しかし断片的な情報であっても、頭の片隅に知識が残っているとふとした閃きに繋がり、散逸した点と点の情報が一本の線で結ばれたときの快感は、何にも代えがたい魅力である。

筆者はイタリア史の専門家でなければ、マフィア映画に精通しているわけでもないため、浅い理解に留まっている箇所もあるかと思うが、記事を読んでくださる方にとって何らかの参考になるならば幸いだ。

シラクーザのモデル

シラクーザ(EN:Siracusa)は現実世界にも存在する都市であり、イタリアのシチリア南東部の都市の名前と一致する。

イタリア地図(Adobe Stockより作成)

現実世界のシラクーザ(シラクサ)は、古代ギリシアの知識人アルキメデスの出生地として知られる他、太宰治『走れメロス』の舞台にもなっている都市である。

アークナイツにおいてはより広範に、イタリアの歴史や文化的な要素を取り入れながら、Hepergryphはテラ世界のシラクーザという国家を創り上げている。

その拘りは随所に見られる。一例として、シラクザーノ実装に伴い、シラクーザ出身の一部オペレーターにはイタリア語ボイスが用意された。

ソート画面にはいないが、血掟テキサスにもイタリア語実装有り

また、大陸の周年生放送時に数量限定で配布されたシラクーザ新聞には、シラクーザの情勢を知るための情報がイタリア語で記されている。

全4ページに渡るシラクーザ新聞※本文はモザイク処理

シラクーザ新聞に記載されている記事の一例は、以下の通り。

クルビアで認められつつあるシラクーザの法学位

"ケース51"の功績により、シラクーザの教育期間で取得した法学位は現在、より広範に認知されつつある。先日のクルビア法律研究フォーラムにおいて、クルビアの複数の機関が法律サービス市場に関する研究テキストを承認した。シラクーザの法科大学院で取得した法学位はクルビアにて、より大きな雇用機会を生み出すこととなる。

『GAZZETTA DEL MEZZOGIORNO』より翻訳

この"ケース51"について、シラクーザ新聞2面でより詳細に掘り下げられており、シラクーザを拠点とする7人の著名な法律家が40人の専門チームを率いて、3年に渡る審理を経て結審されたこと、白熱した議論によって、シラクーザ法科大学院生の専門性の高さが証明されたことが書かれている。

この情報はシラクザーノシナリオともリンクしており、

シラクザーノ IS-3 戦闘前 衆矢の的

ボルトロッティ裁判官によるスピーチが行われた三年前の法律討論会であると捉えることができる他、

……シラクーザには、正規のロースクールがあります。教材にはクルビアで出版されたものを使っているので、卒業後はシラクーザの法務機関で働くことができるだけでなく――クルビアでも認められるくらいの力をつけることができるんです。

シラクザーノ IS-3 戦闘後 衆矢の的

シラクーザのロースクール卒業後はクルビアでも認められる旨が、ラヴィニアによって語られている。

近代以降のイタリアではフランス法やドイツ法、最近では英米法の影響が大きいが、元々イタリアの地域に存在した古代ローマの「ローマ法」は、地域へ大きな影響を及ぼしていた。

刑法の観点では、イタリアの啓蒙思想家として知られるチェーザレ・ベッカリーアが有名である。彼は『犯罪と刑罰』にて「最大多数の最大幸福」の観点から法律を批判的に理解すべきであると説き、罪刑法定主義や推定無罪、取り調べにおける拷問の禁止といった内容を18世紀時点で主張している。

チェーザレの数ある主張の中でもとりわけ注目を浴びるのが、死刑制度の廃止を提唱したことにある。社会に害を与えると決めた人間が、極刑を恐れてその侵害行為を思い留まることはない、という彼の思想は全ヨーロッパへと大きな影響を与えた。

やや話が逸れたが、シラクーザ新聞には他に、詐欺事件の裁判、シラクーザのピアノ市場に炎国が参入して同族経営を脅かしていること、スポーツリーグ「セリエA」の開幕、ウォルシーニ裁判所の改修工事が始まること、パスタの全面広告等が載っており、イタリアの文化要素を下地にしながらシラクーザに纏わる様々なネタを仕込んでいる。


黎明期のイタリア

今日のイタリア共和国は、イタリア半島とシチリア島、サルデーニャ島から構成されているが、現在イタリアとして定められている地域が一つの国家として成立したのは19世紀以降の150年あまりのことであり、別の国によって支配される複数国家であった歴史の方が遥かに長い。

このあたりの事情は、テラ世界のシラクーザにも反映されているだろうか。

――百年以上前、シラクーザが一つの地域から国家になった時……当時の十二家が管理していた合計二十二の都市が、この国の領土となった。

シラクザーノ IS-1 戦闘前 静かなる雨

テラ歴が1000年以上の歴史を誇るのに対し、シラクーザが国家として成立したのが直近100年あまりという短さである点が目を引く。

他方、イタリアの地域という観点で見るならば、少なくとも1万年近く前の旧石器時代より人間が居住していたことが判明しており、紀元前5000年頃に農業と牧畜が開始され、紀元前2000年半ばには青銅器を持ったインド・ヨーロッパ語族と考えられる集団が居住し、テッラマーレ文化圏を成立させた。

更に、紀元前9世紀前後には鉄器を持ったインド・ヨーロッパ語族によりヴィッラノーヴァ文化が築かれ、彼らは次第に「イタリキ」と総称されるようになる。

他方、同時期のイタリアには非インド・ヨーロッパ語族も居住しており、その中でもとりわけ有力な集団がイタリア半島中部を中心に居住した「エトルスキ(エトルリア)」である。エトルスキは紀元前8世紀に台頭し、紀元前7世紀~5世紀にかけて現在のトスカーナ州を中心に、広範な地域を支配下においた。

エトルスキは統一国家を形成しなかったものの、12の都市国家を築いたとされている。勢力を拡大すると共に周辺地域とも交戦する機会が増え、紀元前3世紀はじめにはローマに従属するようになった。

また、南イタリアでは紀元前8世紀よりギリシア人が移住しており、植民都市を形成している。彼らが都市を築いた地域は「大きなギリシア(マグナ・グラエキア)」と呼ばれており、スパルタが建設したタラス(ターラント)やコリントスが建設したシュラクサイ(シラクーザ)などは、今日でも繁栄している都市である。

古代イタリアはローマの歴史として理解される傾向にあるが、エトルスキやギリシャの文化が残した影響は大きく、ローマ支配に先立つ諸集団が刻んだ歴史はイタリアの地域アイデンティティ形成に不可欠な要素となっている。

ローマと狼

古代の都市国家ローマは、紀元前753年にロムルスによって建国されたと伝承されている。

シラクーザは多くのループスたちの出身地となっているが、イタリアの首都ローマでは様々な場所で、狼がロムルスとその弟レムスへ授乳する姿がイメージされたブロンズ像を見ることができる。

この彫刻はカピトリーノのオオカミ(伊:Lupa Capitolina)として知られる。関連して数あるローマ神話の1つを紹介すると、トロイア末裔の半神アイネアスと、ラテン王女ラヴィニアの子シルヴィウスによってイタリア半島西部ラティウムは治められていた。

シルヴィウスから11代後のアルバ王が亡くなると長男ヌミトルと次男アムリウスの間で王位継承権を巡った争いが勃発する。王位を奪われた兄ヌミトルの娘レア・シルウィアは、神に身を捧げる聖職者であったが軍神マルスに見初められ、やがて双子の兄弟ロムルスとレムスを授かる。

兄の血筋を絶やそうと意図してシルウィアを巫女にしたにも関わらず、彼女が子を授かった事実を知ったアムリウスは激怒し、双子の子を殺すよう兵士に命じる。しかし兵士は幼子を憐れみ、籠に入れてティヴェリス川へと流す。

やがて川の精霊ティベリーヌスが双子を拾い上げ、一匹の雌狼へと預ける。そして、羊飼いによって引き取られた双子は成長し、宿敵であるアムリウス王を討つ。その後、王位を巡って双子間で争いが発生し、その勝者となった兄ロムルスによって築かれた都市が、ローマと名付けられた。

ローマは周辺地からの移住者が続出し、急速に発展していった。急激な人口増加に対応するため、ロムルスは新しい居住区を7つの丘に築いた。これは「ローマの七丘(伊:Sette colli di Roma)」として知られ、都市ローマの基礎となっている。

上記のエピソードは、アークナイツにも取り入れられていると言えるだろうか。

統合戦略2 演目集『七丘の母狼』

集落を「七つの丘の都市」という意味のセッテコッリシティと名付け、評議会も設立された。

在りし日の風を求めて 天空の物語

まさしくこのセッテコッリとは、ローマの「七丘」のイタリア語読みであり、母狼の設定はカピトリーノの雌狼に由来するものと推測できる。

上記の説明では、セッテコッリシティと共に評議会が設立されたとあるが、古代ローマにも合議制を採用した執行機関が存在したとされている。

ローマには、執政官(consul)と呼ばれる役職があった。建国当初のローマは王政であったが、紀元前6世紀末には共和制となり、王に代わって軍事と政治を指導する一年任期の執政官が、ローマ市民の総会によって選出されたのである。

政治と権力は往々にして結びつきやすい性質を持つが、ローマにおいても執政官をはじめとする公職や神官職が「パトリキ」と呼ばれる貴族層に独占され、中小の自営農民や新規移住者から構成される「プレプス(平民)」と対立していく。

紀元前5世紀になるとプレプスはパトリキに平民会の設置を認めさせた後、それまでの慣習法を成文化した十ニ表法を制定。パトリキによる恣意的な法の運用に歯止めをかけた。次第に平民会の決議は法と同等の効力を持つようになり、市民による主要な立法機関として成立することとなる。

シラクザーノが包括するテーマの一つとして、法と市民の権利を巡る人間模様が描かれていた。

シラクザーノ IS-5 戦闘後 変わらざる掟 茨の法典の元ネタは「The Bramble Bush」か。

それは、後述するマフィアの抗争と市民の声という点に色濃く表れているが、より広範にイタリアの歴史を眺めるならば、その源流の一つをローマにも見出すことができると言えるだろうか。

近代のイタリア

西ローマ帝国、イタリア王国、シチリア王国、ルネサンス期、宗教改革、バロック、啓蒙主義…と、イタリアの歴史を丁寧に紐解いていくと、とても1つの記事には収まりきらないほど膨大なテキスト量となってしまう。そこで、シラクザーノに関連してくる、近代のイタリアへフォーカスを当てたい。

近代ヨーロッパの歴史を語る際、世界へ与えたその影響の大きさから、決して避けては通れないマイルストーンがフランス革命だ。イタリアもフランス革命より大きな影響を受けており、とりわけ革命家ナポレオン・ボナパルトは1796年にイタリア方面軍司令官に任命されている。

ナポレオンの祖先は元々イタリアのトスカーナ出身であり、彼はイタリア遠征中に自らの署名をブオナパルテ(Buonaparte)からフランス語風のボナパルト(Bonaparte)へと変更している。このエピソードは、ナポレオンにとってイタリア諸国との縁は断ち切るべき桎梏であったと解釈する向きもある。

1805年、ナポレオンはイタリア共和国をイタリア王国と改め、自らが国王の座に就いた。ナポレオンはわずか数年のうちに、ピエモンテ、リグーリア、旧ヴェネツィア共和国、トスカーナ大公国、パルマ公国、教皇国家の領土をイタリア王国へ併合した。翌年、フランス軍はナポリ王国を占領し、サルデーニャ島とシチリア島を除く全てをフランスの支配下に置いた。

フランスによるイタリア支配は長く続かず、1813年になるとライプツィヒ会戦でロシア・プロイセン・オーストリアの連合国にナポレオンは敗北し、イタリア王国は瓦解する。しかし、ナポレオンによるイタリア支配の影響は大きく、地方行政制度や法律、通貨、度量衡、徴兵制などが確立されることになり、こうした中央集権的な国家機構が整備はのちのイタリア国家統一に向けた伏線となった。

1814年9月開催のウィーン会議によって、イタリア諸国はフランス革命以前の体制が復活することになるものの、ヴェネツィア共和国やミラノ公国はオーストリア支配のもとでロンバルド・ヴェーネト王国となった他、ハプスブルク家による支配が復活したトスカーナ大公国、そして教皇国家には北部にオーストリア軍が常駐することになる。

結果的に、イタリア北中部におけるオーストリア支配が進んだ。


アークナイツの設定へ話を戻すと、リターニアのモデルの1つはオーストリア=ハンガリー帝国と解釈する向きがある。
オーストリア帝冠領を示すツィスライタニエン(Cisleithanien)が、リターニア(LEITHANIEN)という綴りと一致する。

大陸版シラクザーノが開催された際、シラクーザがリターニアから独立した旨が語られた。

黑桥氏

这样的传统呢来源于叙拉古自莱塔尼亚独立之后数个领袖家族组建起的城邦联盟
これらの伝統は、シラクーザがリターニアから独立した後、ファミリーのドンたちによって築かれた都市同盟に由来します。

《明日方舟》2022「感谢庆典」前瞻特别节目(附字幕)

このあたりは、かつてイタリアがオーストリアによって支配されていた歴史に基づいて設定されたものだろうか。


1840年代のヨーロッパは寒冷な気候が続き、凶作による食料危機が度々発生していた。それは食糧暴動へと発展し、ウィーン体制に対する不満と連動して政治的な危機へと繋がっていく。

1848年2月にはパリ、3月はウィーンとベルリンで革命騒擾が起き、イタリアもその渦へと飲み込まれていく。1859年になるとサルデーニャ王国の首相カヴールがフランスのナポレオン3世と軍事同盟を結び、オーストリア帝国に対してイタリア統一戦争を仕掛けた。

この戦争における「ソルフェリーノの戦い」はかなりの激戦であり、この戦いに出向いたスイス人アンリ・デュナンが国際赤十字の設立を思い立ったことで知られる。(ちなみにシラクーザ出身のオペレーター、ススーロには赤十字のマークが用いられていたが、ジュネーブ条約に基づきデザインが改められている。)

イタリア統一戦争の結果、サルデーニャ王国はオーストリアからロンバルディア(旧ミラノ公国)を獲得した他、トスカーナ、エミリア=ローマニャ、ウンブリアといった中部イタリアが住民投票によってサルデーニャ王国へと併合されていく。また、同時期の南イタリアでは、英雄として名高いジュゼッペ・ガリバルディが使節軍隊を率いて両シチリア王国を征服する。

カヴールは、サルデーニャ王国の後ろ盾となっていたフランス軍とガリバルディ軍の衝突を危惧し、シチリアとイタリア半島南部で住民投票を実施した他、次いで当時の国王とガリバルディの会談を設定することで、ガリバルディが軍事行動で獲得した領土をサルデーニャ王国へと献上させることで統一国家を成立させた。

マフィアの概念

命尽きたダンブラウンと、俯き眺めるベン

――親愛なる友よ、あなたは大切なことに気が付きました。
文明の名のもとに振るわれる暴力……
これこそが、マフィアの本質なのです。

シラクザーノ IS-9 戦闘前 偽りの文明

シラクザーノにおいて、マフィアの本質とは文明の名のもとに振るわれる暴力であると、ベンの口から語られた。

マフィアという言葉は漠然と、シチリア島に由来する組織犯罪集団を指す言葉であると理解されるが、その概念について歴史を交えて紹介したい。

パレルモの民族学者ジュゼッペ・ピトレによると、マフィアという言葉は1860年以前の民衆地区にて「秀麗」や「秀逸」の同義語として普通に用いられており、「マフィウース」が勇気ある男性を、「マフィウセッダ」は美しく自尊心の強い女性を意味していたと主張する。

1860年以降、肯定的なニュアンスを失って匪賊、カモッラ、ならず者などに近い、別の否定的な意味を帯びるようになったという。結果、マフィアは定義することが不可能な言葉となってしまった、とピトレは語っている。

マフィアであると告発対象となった人々は、大別して二つの観点からマフィアの概念を口にする。1つ目は、シチリアに存在するのは他地域と同じような「通常犯罪」でありマフィアは存在しないという論、もう一つはシチリアが「全近代的」であることを認めた上でマフィアとはシチリアの民衆文化に根ざした概念で、他国における騎士道精神などと変わりないという論である。


19世紀のイタリア統一前後、ナポレオン支配期に行われた封建的諸特権の撤廃によって共有地を奪われた南イタリアの農民たちは度々反乱を起こしていた。統一後にサルデーニャ王国式の租税制度と徴兵制度がもたらされると、農民たちの不満は爆発し、南イタリアでは大規模な反乱が発生する。

イタリアの新政府は武力によってこの反乱を制圧するも、そのやり方に南イタリアの人々は強い不信感を覚え、「南部問題」と呼ばれる社会問題が台頭する。

この南部問題について調査を行ったシドニー・ソンニーノは、レオポルド・フランケッティと共に『シチリア調査』と呼ばれる調査書を作り、出版からわずか4年後の1880年に政界入りを果たしている。彼らは、不在地主によって支配される大土地所有(ラティフォンド)が農民を隷属状態においていること、そしてそうした少数の支配層がナポリではカモッラ、シチリアではマフィアと呼ばれる犯罪組織と繋がりを持ち、権力を独占していると批判した。

「マフィア」という言葉は、1862-1853年にかけて大成功を収めた大衆喜劇『ヴィカーリア監獄のマフィウーソ(mafiuso)』の中でも用いられたのが最初とされている。これは、1854年にパレルモの監獄に収監されていた「カモッリスタ(カモッラ構成員)」を題材にしたもので、「カモッラ」とは市場や競売、入札、選挙などを不正にコントロールするシステムを意味するが、カモッラとマフィアの使い分けについて曖昧であった。

19世紀当時の政治的右派の官僚たちは、匪賊、徴兵忌避者、市町村行政内部の派閥、軽微な犯罪者、硫黄鉱山の経営者や労働者、土地所有者、農民などに対して「マフィオーソ」という概念を用いており、広い意味で暴力的で野蛮で粗野な社会という状況を示す言葉でもあった。北イタリアの政治家たちの目には、シチリア人はあまりに抗争好きで、派閥的で、公共の事柄を指摘に運営しているように映った。

19世紀末になると、マフィアという言葉はアメリカにも登場する。

アメリカでは、マフィアは古代にまで遡る謎組織であるとされ、その指導部はシチリア島にいるものの、配下の者たちはどこにでも出現すると考えられた。また、社会主義者なナショナリストといった人々の「外国人の陰謀」を弾劾するために用いられることもあり、イタリア政府が共謀しているという疑念すら抱かせることがあった。これらは1880年代~第一次世界対戦にかけてアメリカへ大量のイタリア系移民が発生したことと関連し、そうした状況を非難する概念として用いられている。

イタリアのマフィア研究者であるサルヴァトーレ・ルーポ氏によると、十九世紀におけるマフィアとは国家が認めた諸価値に屈服しない者たちへの隠喩であり、近代性に敵対する文化的規範を代表しているというわけである。この構図はその後の100年間、形を変えながらも常に再生産され、公的権力の態度へ奇妙な矛盾をもたらす。

ルーポ氏はその矛盾について、公的権力を行使できないシチリアの伝統文化を論難しながら、同時にその病理的な現象を支配するための手段として広く利用していることにあると解説する。イタリア王国成立以降、政治家や企業家たちはシチリアを統治するために犯罪者たちを利用することがあった。

上記のような背景を踏まえると、ベンの語った「文明の名のもとに振るわれる暴力」という表現はある意味で的を得ており、文明によって成立した国家という機枠組みがなければマフィアの概念は存在し得ず、ときに近代的な公的権力と結びつきながらその暴力は振るわれるのだ。

アメリカにおけるマフィア

クルビアの歴史には、至るところにシラクーザ人の影があるが……サルヴァトーレも時代の波の中で自らのファミリーを強くしていったのさ。

シラクザーノ IS-1 戦闘前 静かなる雨

クルビアはEN版で「Columbia」と表記されており、これはアメリカの古名にあたる。ここでは、アークナイツにおけるクルビアがアメリカをモデルにしているという前提で、考察を進めていく。

1924年5月、かの有名なファシスト党の独裁者ムッソリーニはシチリアを訪れ、マフィアに対する闘いこそが国家再生の試金石であると捉えた。そして、その翌年10月にパレルモ県知事へ任命されたチェーザレ・モーリには強大な権力が与えられ、「鉄の知事」と呼ばれるようになる熾烈な取り締まりを開始する。

検挙の対象は女性や子供にも及んでおり、ときには妻子たちを人質に取ったり、見せしめに暴力へ訴えかけるなどの苛烈な逮捕によって、1926〜1928年までに1万人を超える人々が監獄へと収容された。そうした状況を受け、多くのマフィアたちはアメリカへと移住する。

19世紀のシチリアではマフィアの基本的な組織単位はコスカ、ナッサ(網)、パルティート(党)、ソチエタ(教会)、フラテッランツァ(兄弟団)と多様な呼び方があったが、アメリカ合衆国では基本的な組織単位はファミリーと呼ばれた。

ファミリーを直訳すると「家族」であるが、実際に血縁によって結ばれた家族とはあまり一致せず、寧ろ両親や子供、兄弟たちが敵対する党派に属するケースも多い。

1930年代初頭のアメリカは禁酒法時代にあり、カステランマレーゼ戦争と呼ばれるイタリア系マフィアの抗争事件が勃発。この抗争を勝ち抜いたサルヴァトーレ・マランツァーノは、ニューヨーク・マフィアの「五大ファミリー」による指導体制が確立し、自らを「ボスの中のボス(capo di tutti capi)」と称した。

サルヴァトーレ・マランツァーノはシチリア人であることに誇りを持ち、シチリア人以外が自らの縄張りへ参加することを認めなかったことで知られる。

アークナイツにおけるサルヴァトーレ・テキサスが誰をモデルとしているのかはHypergryphのみが知る事実だが、

サルヴァトーレは一生自分をシラクーザ人だと思っていたし――

シラクザーノ IS-1 戦闘前 静かなる雨

シチリア人であることにこだわる姿勢は、サルヴァトーレ・マランツァーノと一致している。


ゴッドファーザーとルチアーノ

マフィアという言葉が示す意味は時代によって異なるが、組織犯罪という枠組みを超えて表現する際、「恩顧=庇護主義(クライアンテリズム)」という言葉が用いられることがある。

恩顧=庇護主義(クライアンテリズム)[社会的、経済的地位の異なる二社(パトロン=保護社とクライアント=被保護者)の間で結ばれた、双務的かつ不平等な人間関係を指す。パトロンはクライアントに保護や恩寵を提供し、クライアントはパトロンに忠誠や奉仕を提供する]

サルヴァトーレ・ルーポ『マフィアの歴史』北村暁夫訳

この在り方の一例に、恩顧やサービスといった様々な特典を交換する代父(ゴッドファーザー)と顧客とで成立するシステムが存在する。

代父(godfather)或いは代母(godmother)とは、キリスト教の洗礼式において、神と結ぶ契約の証人となる人を指す言葉であるが、マフィア抗争を描いた映画『ゴッドファーザー』の影響で、裏社会全域へ大きな影響力を持つドン(首領)を示す言葉としてイメージする人も多いだろうか。

アークナイツの統合戦略には「教母の印」という秘宝が登場し、EN版では「Godmother's Token」と訳されている。

「シチリア夫人」と訳されているが、これはミズ・シチリア(西西里夫人)の表記揺れ。

シラクーザの統治者、或いは旧時代の番人と評されるミズ・シチリアは、各ファミリーのトップに君臨する。

シラクザーノには、映画『ゴッドファーザー』のオマージュと思われる表現が複数登場する。

一例として、ジョヴァンナの語った「薬物ビジネスには干渉しないが成功を祈っている」表現は、ヴィトー・コルレオーネが薬ビジネスを相手から持ち掛けた時に断った際のセリフと類似している。

シラクザーノ 個別行動 ジョヴァンナ

また、シラクザーノではアルベルトがオレンジを手にしている。

アルベルト・サルッツォ立ち絵

19世紀、パレルモ平野(アグロ・パレルミターノ)と呼ばれて市域内の新開地や後背地の町村では、マフィア集団は農場管理のネットワークを築き、柑橘類をはじめとする豊かな農業地帯の生産物の仲買いと併せて、盗まれた家畜や密売品の運搬などの非合法な交易を行っていた。

柑橘類のような長距離輸送する商品の取り扱いに慣れたことで、タバコや麻薬の密売を行うためのメンタリティや能力が培われていったという。

『ゴッドファーザー』においても、重要な場面転換となるシーンでオレンジが登場した。

他にも『ゴッドファーザー』としての要素は挙げられるが、とりわけ印象的なのが、シラクザーノシナリオにて常に暗躍を続けたベルナルド・ベッローネだ。その見た目は、そのままヴィトー・コルオーネを意識したデザインとなっている。

以下、おーちゃんさんのツイートより。

『ゴッドファーザー』においても、物語の主人公が所属するコルレオーネ・ファミリーは劇中にて他のファミリーたちを殲滅している。シラクザーノにおいても、ベルナルドはマフィアによって統治されるシラクーザの現状を憂い、ファミリーを無くすことでその状況を打破しようと考えた。

ベッローネファミリーはカラチを暗殺した他、ロッサティファミリーの反乱を幇助するなど、物語の大きく動かす暗躍を果たした。

シラクザーノ相関図

ベルナルドはデッラルバ劇団の芸術監督という一面を持っている。史実において、自伝映画を制作をしようとしたマフィアであり、『ゴッドファーザー』に登場する主人公たちのモデルの一人として考えられるのが、ラッキー・ルチアーノという人物だ。

サルヴァトーレ・ルカーニア…通称ラッキー・ルチアーノは、9歳で生まれ故郷であるイタリアの村レルカラを旅立ち、アメリカへと渡っている。ルチアーノは先述のサルヴァトーレ・マランツァーノがシチリア人にこだわる点を時代遅れとし、1931年にマランツァーノを暗殺する。その後ルチアーノはアメリカのマフィア組織を整備し、禁酒法がもたらした酒の闇市を活用しながら強大なネットワークを築いていく。

アメリカの大統領候補だったトーマス・デューイ検事により「公共の敵」と見做されたルチアーノは、1936年に逮捕され、その後10年近く刑務所で過ごすことになる。やがて第二次世界大戦が終結すると、イタリアへ強制送還されたルチアーノは、麻薬取引を積極的に開始する。

アメリアから招かれざる客を送り込まれたイタリアだが、ルチアーノはイタリアで麻薬を生産することも消費することもしなかったため、イタリア内ではそれほど注目されなかった。フランスで麻薬が精製され、シチリアを経由し、アメリカへと輸出される…マフィアたちはそのようなネットワークを築き、グローバル化を推し進める。

ファルコーネの功績

1970年代末、ヨーロッパと南北アメリカ間の麻薬取引は空前のブームを迎えていた。パレルモ検察庁はアメリカから流れる大量の資金流入を調査すべく、金融犯罪に精通したジョヴァンニ・ファルコーネを新たな調査官として任命する。

この頃のシチリアはマフィア戦争の渦中にあり、社会的地位の高い人々が次々に葬られた時期であった。1971年に上級検察官ピエトロ・スカリオーネの暗殺に始まり、1980年ガエターノ・コスタ、1983年ロッコ・キンニチと、相次いで裁判官が殺害されている。捜査担当者の殺害が裁判官たちの心理に与えた影響は絶大であり、ファルコーネはコスタ判事の殺害を受けて「まじめにマフィアの捜査をすればするほど、命の危険が高まることを知った」と述べている。

ファシズム期の弾圧から戦後に復活を遂げたマフィア組織は、ベルリンの壁崩壊前後の時期、非合法活動や抗争を激化させていた。イタリア政府は「反マフィア委員会」を立ち上げた他、1992年には反マフィア法が成立させる。そしてマフィア撲滅を目指したファルコーネたち反マフィアの裁判官グループによって、700人を超えるマフィアたちへ有罪判決を下された。

「マフィア大裁判」と呼ばれるこの裁判法廷は映画にもなっており、最近では2019年公開の映画『シチリアーノ 裏切りの美学』にて、史実を元に裁判の様子が描かれている。この頃、マフィア組織は「コーザ・ノストラ」という名称で呼ばれており、映画の主人公であるブシャッタはその一員。彼はドン・マシーノという異名で呼ばれるマフィアの重要人物であった。

1984年のブシェッタを皮切りに、その後多くの改心者たちが裁判の法定で自白を行うようになる。ファルコーネはマフィアの取り締まりを精力的に行うが、1992年5月23日に空港へ向かう途中の高速道路へ仕掛けられたTNT爆薬により、ファルコーネは護衛車両ごと吹き飛ばされた。

▼イタリアの公共放送局(RAI)による動画(2分程度)


シラクザーノにおいても、車の爆発によりカラチが亡くなっている他、ラヴィニア・ファルコーネは同僚の裁判官を目の前で殺されており、自らの命の危険をまざまざと見せつけられた。

シラクザーノ IS-3 戦闘後 衆矢の的

ラヴィニアは、法律に則りながら一般市民の権利を守ろうとするが、自らがマフィアの後ろ盾を活用しながら公正な判決をくだすという矛盾に苦悩する。

一方、そんな彼女の行動を間近で見てきたルビオは、一般市民主導のもとでシラクーザという国家を築いていくという理想を受け継ぐ後継者としてラヴィニアへ日記を託す。

当初、カラチの後釜としての地位を狙うかのようなセリフを口にしていたルビオであるが、大衆に向けた演説の場面にてファミリーの陰謀を告発し、自らの命を絶つという行動を彼は取った。

ルビオはカラチの死を憂い、怒り、その思いの丈を演説へぶつけた。その怒りはウォルシーニの住民たちへと届き、その波紋は民衆へと広がる。

10月19日ウォルシーニにて

ウォルシーニの住民たちはこの日を決して忘れはしない。

シラクザーノ IS-ST-3 幕間 摘出

史実においても、ファルコーネの死、そしてその2ヶ月後に起きた裁判官ボルセッリーノの暗殺によって、イタリア国民のマフィアに対する怒りは頂点に達する。

暗殺翌年の1993年には、パレルモ市内で約1万人のデモ行進が行われた。このデモは、マフィアに対するものとしてイタリア史上最大規模のものとして知られる。

オメルタの精神

シナリオ最後、ジョヴァンナが新たな作品に着手すること旨が語られており、そのタイトルは『シラクザーノ』であるという。

私の生き方はいつも変わらない。だが、人はそれを見て言うんだ。

アークナイツ「シラクザーノ」スペシャルPV
「シラクザーノ」とは、そのままシラクーザ人という意味か

ウォルシーニでは様々な人々が己の在り方や葛藤の狭間で揺れ動き、シラクーザという国に対してそれぞれがどのように働きかけるかという行動と信念が随所に見られた。

最後に、シラクザーノにおける主人公の一人とも言えるテキサス(以下、チェリーニア)にフォーカスを当てて考察したい。

シラクザーノと共に実装された異格テキサスには、「血掟」という名前がつけられている。血掟は血の掟、沈黙の掟といった訳され方をすることがあるが、これはシチリアにおける特有の言葉オメルタ(Omertà)を指すものか。

この「沈黙の掟」はシラクザーノの扱うテーマの一つとなっており、前日譚である「喧騒の掟」と対になっているとも捉えることができる。

オメルタはシチリアの民衆へ浸透する特性であり、その言葉にピタリと当てはまる日本語は存在しない。

官憲に捕縛されたマフィアたちにとってオメルタとは多くを話しすぎることで自らが粛清されることを防ぐための沈黙であり、シチリア市民にとってオメルタとは暴力に対する自己防衛としての行動形態だ。

シラクザーノにおいてもウォルシーニの市民たちは、マフィアたちファミリーが街を裏から動かす状況に沈黙し、ルビオが声を挙げるまで沈黙していた。

近年ではマフィアたちが沈黙の掟を破り、マフィアの秘密を暴露することで改心者となるという流れで捉えられることもあるが、シチリアの民俗学者ピトゥレによると、オメルタは誠実、信頼、強さを意味する言葉であり、その表現形態が沈黙であるという。

イタリア近現代史を専門とする藤澤氏は、国家や法の権威に対するシチリア人の不信あるいは反抗の表明としてオメルタを理解すべきだと指摘する。

シチリアは、フェニキア人・ギリシア人・ローマ人・アラブ人・フランス人・スペイン人そして、イタリア人から支配されてきた歴史を持つ。絶えずよそ者に支配されたシチリア人にとっての武器こそがオメルタの精神であり、連帯意識をもって沈黙を守り、支配者に対する抵抗の姿勢を示す。この行為はシチリア人にとっての名誉であり、圧制者の横暴へ抵抗する者、強者から弱者から守る者としての価値観の表れであるのだ。


その観点から血掟テキサスを見てみる。

ファミリー崩壊を経験したチェリーニアは当初疲弊し、離れる決意に至った。シラクザーノにおいても、狼主ザーロからの招集がなければウォルシーニへ足を運ぶこともなかった。

しかし、いつかはシラクーザと向き合わねばならない自らの宿命に感づいていたチェリーニアにとって、シラクーザの実情の大半は事前に予想していたものと相違なかったが、ウォルシーニでの予期せぬ出会いは彼女へ大きな影響を与えた。

今回の帰郷には、この土地を良くしたいと願う人々との出会いがあった。そして、そうした人々は次々と傷ついていったのだ。

それなのに、また逃げるのか?

シラクザーノ IS-9 戦闘前 偽りの文明

異格化は、各オペレーターたちの成長した姿が反映されたもの。一見、血掟や沈黙の掟というとこれまで通り沈黙を貫く姿勢であるように捉えられる。

しかしオメルタから「支配者に対する抵抗の姿勢」という精神性を見出すならば、チェリーニアはこれまで通り寡黙でありながらも、自分なりのやり方でシラクーザを変えることを決意したことを示す言葉が「血掟」であると言えるだろうか。

グレイホールにて

四人がシラクーザを変えたいと望む理由はそれぞれだが、それでも導き出した結論は同じだった。

シラクザーノ IS-10 戦闘後 「狼の主」

若き変革者たちを前に、シラクーザの統治者であるミズ・シチリアはただ微笑み、その挑戦を受け入れることを示す。



ここまでイタリアやマフィアの歴史に触れながらシラクーザの設定を紐解いてきたが、シナリオの終わり方を見るにシラクーザにおける波乱はまだまだ描かれるだろう。

狼主ザーロを従えたラップランドや、レッドとリュドミラたちを巡る狼主たちのゲーム、新都市におけるレオントゥッツォたちの挑戦など、今後も明かされるであろうシラクーザの展開に期待しながら、この記事を締めたい。

参考文献

北村暁夫『イタリア史10講』岩波新書
サルヴァトーレ・ルーポ『マフィアの歴史』北村暁夫訳
遠藤誠『イタリアの法制度の概要』BLJ法律事務所
ヴォルフガング・ナウケ『ベッカリーア―刑法を批判し、強化する者』本田稔訳 立命館大学法学会
小田原琳『自由主義期イタリアの知識人における倫理的実践 : 「社会問題」論の展開を通して』東京外国語大学
藤澤房俊著『シチリア・マフィアの世界』講談社


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