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“何か”が”誰か”があなたを待っている

□景色
どんな時も、人生には、意味がある。
なすべきこと、満たすべき意味が与えられている。

この人生のどこかに、あなたを必要とする「何か」がある。
あなたを必要とする「誰か」がいる。
その「何か」や「誰か」は、あなたに発見され実現されるのを「待って」いる。

「何か」があなたを待っている。
「誰か」があなたを待っている。

たとえあなたが人生に「イエス」と言えなくても、人生のほうからあなたに「イエス」と光を差し込んでくる日が、いつか、必ずやってくる。

□本

『100分de名著 フランクル 夜と霧 絶望の果てに光がある』
諸富祥彦 NHK出版 2013年

目次
はじめに
第1回 絶望の中で見つけた希望
第2回 どんな人生にも意味がある
第3回 運命と向き合って生きる
第4回 苦悩の先にこそ光がある
*第2回から構成

□要約
「人生の意味」をそもそもこちらから問うことはできない。人生のさまざまな状況に直面しながら、その都度「人生から問われていること」に全力で応えていく。

ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。

『夜と霧』 霜山徳爾訳  みすず書房

人間にできること、しなくてはいけないことは、人生のさまざまな状況に直面しながら、その都度その都度、状況から発せられてくる「問い」に全力で応えていくこと、状況にひそむ真の「意味」を発見し、全力で応えていくことである。そうして自分の人生に与えられている「使命(ミッション)」をまっとうする。

「人生」を「人間の欲求や願望」を実現する舞台のようにとらえてしまうと「欲望や願望中心の生き方」をするようになり、その結果として「絶えざる欲求不満の状態」に追い込まれてしまう。そうではなく、「人間は常に人生から問いかけられている」。ここに人間本来のあるべきあり方がある。

人間が人生の意味は何かと問うに先立って、人生のほうが人間に問いを発してきている。だから人間は、ほんとうは、生きる意味を問い求める必要なんかないのだ。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて人生に問いを発するのでなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない。

『医師による魂の癒し』 諸富祥彦訳

人間という存在の本質は、自分ではない誰か、自分ではない何かとのつながりによって生きる力を得ているところにある。

各個人がもっている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがえないということは、——意識されれば——人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。もっている仕事、あるいはもっている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである。

『夜と霧』 霜山徳爾訳 みすず書房

「自分の欲望や願望中心の生き方」から、「人生からの呼びかけに応えていく生き方」「意味と使命中心の生き方」へ。

幸福は、求めることができないもの。求めようとすればするほど、手に入れようと思って追えば追うほど、逃げていく。仕事にただ夢中になって没頭したり、愛する人を心を込めて愛し続けていれば、おのずと幸福は手に入ってくる。

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