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わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ

□景色
孤児であること、両親の顔さえ知らないこと、誰からも愛されたことがないこと、誰にも望まれたことがないこと、邪魔もの扱いされたこと、学校にもいけなかったこと、貧しかったこと、そういった他人から憐みを受けそうな、あるいは蔑まれそうなことを、すべてぎゅうぎゅうと赤毛に詰め込んでアンは孤児院を出発した。

「これから小父さんといっしょに暮らして、小父さんの家の人になるなんて、まあ、なんてすばらしいんでしょう。あたし、いままでどこの家のものでもなかったんですもの」。

老兄妹マシュウとマリラは、自分たちの役に立つように、男の子を引き取ろうとした。ところが、孤児院からやって来たのは赤毛の女の子だった。二人は孤児院に送り返さなければと話をする。

「マシュウ、まさか、あんたは、あの子を引き取らなくちゃならないと言うんじゃ、ないでしょうね」
たとえマシュウが、さか立ちしたいと言い出したとしても、マリラはこんなに驚きはしなかったであろう。
「そうさな、いや、そんなわけでもないが——」問いつめられて困ってしまったマシュウは口ごもった。「わしは思うに——わしらには、あの子を、置いとけまいな」
「置いとけませんね。あの子がわたしらに、何の役にたつというんです?」
「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」突然マシュウは思いがけないことを言いだした。

マシュウの発想が転換する。自分たちがアンの役に立つことができるのではないか、と思う。人間は想定外のことを受け入れて、自分の意図を超えた流れに身を投じることで、成長をとげていく。

□本

『100分de名著 モンゴメリ 赤毛のアン』
茂木健一郎 NHK出版 2018年

人には長所も短所もあって、それぞれが補い合って生きていると同時に、見方を変えることで長所は短所にも見えるし、短所は長所にもなりうる。短所と長所が表裏一体になったものが、人間の「個性」。個性に「正解」はない。むしろ、全ての個性がそれぞれ「正解」。

人間が生きるということは、自分の身体を含む個性を受け入れて、周囲の人たちと関係性を結ぶということ。人生の一期一会の経験から、さまざまなことを学んでいくということ。そのなかで、ほかの人は経験できないような、自分だけの人生をたどっていくということ。

「もし、あたしが男の子だったら、いま、とても役にたって、いろいろなことでマシュウ小父さんに楽させてあげられたのにね」とアンは悲しそうに言った。
「そうさな、わしには十二人の男の子よりもお前一人のほうがいいよ」とマシュウはアンの手をさすった。「いいかい?——十二人の男の子よりいいんだからね。そうさな、エイヴリーの奨学金をとったのは男の子じゃなくて、女の子ではなかったかな?女の子だったじゃないか——わしの娘じゃないか——わしのじまんの娘じゃないか」
アンはこの夜の銀のような平和な美しさをいつまでも覚えていた。それがアンに悲しみがおとずれる前の最後の夜だった。そしてその悲しみの冷たい、神聖な手にさわられると、人生は二度ともととおなじにはならないのである。
「あたしがクイーンを出てくるときには、自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。ところがいま曲り角にきたのよ。曲り角をまがったさきになにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。それにはまた、それのすてきによいところがあると思うわ。その道がどんなふうにのびているかわからないけれど、どんな光と影があるのか——どんな景色がひろがっているか——どんな新しい美しさや曲り角や、丘や谷が、そのさきにあるのか、それはわからないの」

『赤毛のアン』は、「普通」の日々のなかにある、底光りする幸福を描く。

アンの地平線はクイーンから帰って来た夜を境としてせばめられた。しかし道がせばめられたとはいえ、アンは静かな幸福の花が、その道にずっと咲きみだれていることを知っていた。真剣な仕事と、立派な抱負と、厚い友情はアンのものだった。

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