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続 くらしのてざわりについて

休みの日は朝起きると、妻と娘はまだ寝ていて、ひとりでリビングに行って部屋の明かりを点け、湯を沸かし、お茶を淹れます。そしてパソコンを点けて、お茶ができたらパソコンのところに持っていき、お茶を飲みながら記事を書きます。やがて妻や娘が起きてきて、娘がチャレンジをし始めるころには、僕は記事をたいてい書き終えていて、本を読み始めています・・

こんなことにもくらしのてざわりがあると思っています。なにげない日常、ルーティンワーク、平穏なひととき。なんでもないそれらは、くらしの重要な部分を占めています。もちろんそれらは、世界(ここで言う僕の世界は人間社会や日本社会のこと)から見れば、ささいな、取るに足らないことでしょう。でも、僕や僕たちにとってはなにより大切なことなのかもしれません。



くらしのてざわりは、家の中にもありますが、家の外にもあるかもしれません。毎朝の散歩で出会う生き物すべて、僕にとってはちょっとしたセレンディピティ。


雨上がりに出会った亀。


晴れた日に出会った蛇。


姿は見えないけれども、聴こえてくるうぐいすたちの声。


煙→きっと発酵で熱が上がっているのだろう→たぶんいっぱいいる微生物たち。


僕たちのくらしはこういった生き物たちや微生物たちや、魚たち、木々、花、草、虫たち、鳥たちとともにあって、主には支えられています(本当はこちらからも支えていけたらいいんだけど)。

こうしたちょっとしたセレンディピティもくらしのてざわりの一部をつくっているように感じます。


僕の行動や習慣からできるルーティンワークも、ルーティンワーク(今回は散歩)から生じてくるちょっとしたセレンディピティも、いずれもくらしのてざわりで、それらが僕のいのちの一部を作っているようにも思えるのです。

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