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「かなしみ」の光に導かれて

□要約
苦しみや悲しみを生きる人は、人目につかないところで静かに己の経験を深化させる。真の幸福を知る人は、世間が注目しがちな場所とは、まったく別なところで生きている。

結局、人間の心のほんとうの幸福を知っているひとは、世にときめいているひとや、いわゆる幸福な人種ではない。かえって不幸なひと、悩んでいるひと、貧しいひとのほうが、人間らしい、そぼくな心を持ち、人間の持ちうる、朽ちぬよろこびを知っていることが多いのだ——。

□本

『100分de名著 神谷美恵子 生きがいについて』
若松英輔 NHK出版 2018年

目次
はじめに
第1回 生きがいとは何か
第2回 無名なものたちに照らされて
第3回 生きがいを奪い去るもの
第4回 人間の根底を支えるもの
*第3回から構成
ガラガラガラ。突然おそろしい音を立てて大地は足もとからくずれ落ち、重い空がその中にめりこんだ。私は思わず両手で顔を覆い、道のまん中にへたへたとしゃがみ込んだ。底知れぬ闇の中に無限に転落して行く。彼は逝き、それとともに私も今まで生きて来たこの生命を失った。もう決して、決して、人生は私にとって再びもとのとおりにはかえらないであろう。ああ、これから私はどういう風に、何のために生きて行ったら良いのであろうか。
「青年に死なれた娘の手記」
しかしやき場で骨を拾うとき、骨壺をかかえて帰るとき、墓の前にたたずむとき、愛する者の存在がただそこにあるものだけになってしまったとはどうしても思えない。のこされた者の心は故人の姿を求めて、理性とは無関係にあてどもなく、宇宙のはてばてまで探しまわる。今にも姿がつかまえられそうな、声がききとれそうな、そのぎりぎりのところまで行って空しく戻ってくるくやしさ。そのかなしみはひとの心をさまざまな迷路に追いやって来た。

私たちの社会はさまざまな形で弱い人を「疎外」してしまう。疎外され「生きがい」を失う人、「生きがい」を見失う生活をするなかで疎外されて行く人。

周囲のひとが死病にかかったり、死んだりしても、よほど身近かなひとでもないかぎり、軽くやりすごしてしまう。そうでなければ、人間の精神は一々ゆさぶられて耐えられないからでもあろう。葬式のあとまたは通夜の席上、ひとびとが思いのほか愉快そうに飲み食いし、歓談する光景はそうめずらしいものではない。あれも精神の平衡をとり戻そうとする自然現象であろう。そのなかで、個人の存在にすべてを賭けていたものは、心の一ばん深いところに死の痛手を負い、ひとりひそかにうめきつづける。

こうした人たちに求められているのは「自分の存在はだれかのために、何かのために必要なのだ、ということを強く感じさせるもの」にほかならない。

君は決して無用者ではないのだ。君にはどうしても生きていてもらわなければ困る。君でなくてはできないことがあるのだ。ほら、ここに君の手を、君の存在を、待っているものがある。——もしこういうよびかけが何らかの「出会い」を通して、彼の心にまっすぐ響いてくるならば、彼はハッとめざめて、全身でその声をうけとめるであろう。

本当の意味で何かを「してもらう」ことこそ、「生きがい」の発見へとつながっていく。無用者だと思い込んでいる人の存在を心底必要だと思うこと、そのおもいがその人の固く閉まっていた心の扉を開く。

周囲の人にできるのは、与えることではなく、求めること。

苦しみが人をしばしば自分のなかに閉じ込めるのに対し、悲しみはいつしか他者に開かれていく。

ひとたび生きがいをうしなうほどの悲しみを経たひとの心には、消えがたい刻印がきざみつけられている。それはふだんは意識にのぼらないかもしれないが、他人の悲しみや苦しみにもすぐ共鳴して鳴り出す弦のような作用を持つのではなかろうか。・・・しかしもしそこにあたたかさがあれば、ここから他人への思いやりが生まれる

悲しみは「思いやり」の源泉。苦しみのなかに悲しみの光が射してきたとき、他者を招き入れる余白が私たちの心に生まれ、悲しみを通じて他者とつながるという道が、そこに開かれる。

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