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脱成長化に始まる教育課題

日本がいよいよ脱成長化を深めていくとするならば、その中での教育は、成長社会の残したものを引き継ぎながらも、核となる部分すらも新たにつくり替えていく必要が出てくるでしょう。

そもそも成長社会の教育とはどんなであったか、以下を見てみます。

明治のはじめには、手ばやくつよい国家をつくるために、集団として型にはめこむ教育が、小学校だけでなく、中学校、高等学校、大学に必要となった。この場合、教師は集団として養成され、教師用の教科書(マニュアル)をもって、おなじ教科書(これは生徒用)を使って集団としての生徒に対する。授業は規格化され、採点もおなじ基準によってなされる。生徒は、おちこぼれるものを別として均質化される。近代都市に鉄筋コンクリートの高層の建物がたちならぶように、その都市の形と相似た均質化が教育においても進行する。集団としての生徒の数学における、あるいは英語における達成度は、規格によってはかることができるようになり、ここにひとりの生徒がいると、その生徒の位置は達成度によって同年齢のものの中のこのくらいのものと確定することができる。

『教育再定義への試み』 鶴見俊輔

資本主義、帝国主義の上に建った教育は、集団化、均質化、規格化を進めていきました。


戦後の教育改革によって帝国主義的性格は薄まったものの、資本主義的性格は薄まらず、教育改革中の1947年にすらこう発言されました。

資本主義の高度化にともない社会的分業が押し進められていく。分業が徹底的に進められると人間のタイプが部分人になり、機械の歯車としてのみ発展する。人間的な全体性や綜合性が破壊されてくる。人間的な全体性の回復は、資本主義的分業とこれに奉仕する職業教育のもとにおいては全く不可能

「教育の反省」 宮原誠一

人間性の回復は全く不可能ですよ、と。


その後、経済の発展とともに、高校進学率は上がり、大学進学率も上がりつづけ、偏差値の浸透や受験戦争の激化が起こり、社会の学校化と呼べる現象が見られました。今その延長線上で、子どもの自殺が増え、生徒の不登校が増え、教員の精神疾患による離職が増えつづけています。


もし日本社会が脱成長化しつづけ、資本主義的性格を薄めていくのであれば、その時こそ、人間性の回復を教育課題として取り上げて、真に取り組んでいくべきなのではないでしょうか。


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