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「沢山の物差し」を持ちつつ・・
モノサシって、俗の世界を生きるのに不可欠。
でもその「モノサシ」がいつも有効とは限らないし、間違いを呼ぶのも暫し。
「多様性」って昨今連呼されるが、多様性を受け入れるのには、
「多くの「モノさし」」をもって使いこなす必要もある。
けど「画一的で、みんな一緒」って「金太郎あめの万歳突撃」の日本の今の指導しかたでは、無理だよね。
まあ、「多様なモノさし」を使うのには、考えないとできない。
でも、「考えたらダメ」な日本畜に可能かね。
あとね、自分で「勝手にきめつける・ものさしで勝手に裁断する」ってのは、
ちょっと「ひとごと」みたく、引いていないとハーモニーを楽しめないんですよね。自分の音を出すことに必死でいると、綺麗なハーモニーが生まれないし、結局その人の頭の中は自分の音階だけでいっぱいいっぱいで、せっかくのハーモニーが頭に入ってこない。勿体ないことです。
てことだし。
これで荘子の一節を思い出した。
しかし彼の手に成立するメロディーの背後には、彼の手に成立しない無限のメロディーが存在し、彼のメロディーはその無限なるメロディーの一つにすぎないのである。
・・・中略・・・・・・・・
彼の手は一つのメロディーを「成す」ことによって無限のメロディーを「虧(うしな)」っているのであり、この意味において、彼の「成」は同時に「虧」であるともいえる。
だから、すべてのメロディーをすべてのメロディーとして成り立たしめるためには、メロディーなきメロディー(無声の声)を聴くほかはない。
メロディーなきメロディーとは、琴をかきならさぬということである。
・・・・・・・・・・抜粋終わり
「ものさし」で決めつけてしまうと、それ以外の「真実・メロディー」は消えてしまう。
それは「本当の事」では、無くなってしまう・こともあるのだ。
マウントをとるっていうことも、この「モノサシ」をあて、他者に勝つことで自分の「強さ」を証明しようとするもので、これは本当の強さではないですね。弱い相手がいないと自分の「力」を存在させられないというのは非常に情けないことです。
こういう情けない、力のない人が世の中を仕切っていて、嫌になりますね…
本当の力が無いので「ものさし」を使って、証明しようとする。
そういう社会なので、ある意味で当然「多様性」も無い。
「多様性」が無いと、変化に対応する能力は低く、当然に、必然に衰亡する。
まあ、今日は風邪気味なので、このくらいに。
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