指摘があれば消しますけど。 ~ 法華経密号~


上記文抜粋
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法華経密号 その壱

観音信仰をされる方は『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』こと『観音経』をよくお唱えされるかと存じます。
その内容と説明は色々な本が出ていますので、そちらをお読みください。
羽田先生の『あなたを幸せにみちびく観音さま―その教えと信仰の秘訣』は、手に入り易くわかりやすい本ですのでお勧め致します。

これから、弘法大師様が「法華経」をどのように捉えられていたか、その現代口語訳を何回かに分けて紹介致します。
読み終わる頃には『観音経』をいつもよりもう一つ有難いお気持ちでお唱えできるでしょう。

頼富本宏 訳註(昭和59年3月15日)『弘法大師 空海全集 第三巻(初版)』、筑摩書房、427頁〜428頁

「妙法」とは、もろもろの如来の正しい洞察である。如来の正しい認識の対象は、生きとし生けるものの心の本性である。生きとし生けるものの心の本性は、非常に深遠、かつ微細であって、言語の対象外であり、認識作用を離れている。すでに、迷いを断じた金剛のような境地は、見たり聞いたりすることができない。だから、「妙」と名づけるのである。『金剛頂経』に依拠して説明すると、また、中心人物の名をあげている。(『法華経』にいう)「妙法蓮華」は、これは実に観自在王如来の秘密の名号である。この仏を、別に無量寿如来と名づけるのである。
 この仏は、もし、清らかで、妙なる仏陀の世界においては、すでにさとった仏陀の姿をとり、一方、この五種類に汚れた現実世界に住むならば、観自在菩薩となって、すべての存在を平等であると観察することが自在であるという境界を得るのである。
 もし、この教えを聞いて、よく遵守(じゅんしゅ)し、読み唱え、心にこらし、熟考するならば、たとえ多くの欲望のうずまく世界にいても、あたかも清らかな蓮華の花が、外来的なもろもろの汚れによって染められないように、すみやかに最高のさとりを得るのである。もろもろの修行者が、この『法華経』の曼荼羅道場に入ることができるならば、最高のさとりを得ることができるまで、すべてのもろもろの惑いによって汚染されることはない。
 このような境地において修行するならば、悪しき心から生じるところの汚れた心も、また、たちまちのうちになくなり、すみやかに本来的に清らかな教えを体得することができる。このようなわけで、観自在菩薩は、手に蓮華の花を持ち、すべての生きとし生けるものの身体の中に、如来となる可能性と、生まれつき清らかな光明を観察されたもうのである。八葉の花弁を持った蓮華は、すべての汚れによって汚染されることはない。この観音菩薩の威神力によって、汚れを離れて清らかであることを得て、まさに聖者仏陀と同じとなるのである。

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抜粋終わり


上記文抜粋
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 その(観音の)真言は紇里(きりく)という。この種字(しゅじ)真言は、四つの部分からなっている。(まず、第一の)ह(カ)字要素は、すべての存在の原因は認識できないという意味である。(第二の)र(ラ)字要素は、すべての存在は塵(ちり)や垢(あか)を離れているという意味である。塵とは、すなわち五種の感官の対象である。また、主観・客観の二種類のとらわれのことをも意味する。
(第三の)इ(イ)字要素は、自由自在であることを知り尽くせないという意味である。(第四の、涅槃点である)二点は、अः(アク)字という意味である。अः(アク)字のことを涅槃(さとり)というのはそのためである。すべての存在が、本来的には生起しないということを正しく認識するから、二種類(煩悩と所知の二つの執着)の誤ったとらわれがすべてなくなり、この実在的存在が清らかであることをさとるのである。
 ह्रीः(キリク)という字は、また、単語としては、「恥」という意味を持っている。人が、もし、恥かしいという気持を持てば、すべての悪しきことをしないで、その結果、すべての汚れなき善の根本を備えるのである。このような理由で、蓮華部を、別名、法部と呼ぶのである。このह्रीः(キリク)字の神秘的威力によって、極楽国土において、水鳥や樹木はいずれも真理の調べをかなでている。もし、ある人が(ह्रीः キリク という)一字の真言を身に保てば、すべての災いや、病いを除くことができ、生命が尽き終わって、後は、まさに極楽浄土に生まれて、阿弥陀如来の最高の位を得るであろう。
『妙法蓮華経』の、広・略(観世音菩薩普門品のことか)両本の限りなき意味内容は、ことごとくह्रीः(キリク)の一字の中に包含されている。ところで、この経典は、観自在菩薩の究極の境地である。もし、この一字真言を唱えれば、実に『法華経』一部全体を誦持(じゅじ)する果報とまったく異なることはない。この『法華経』は、種字として見れば、ह्रीः(キリク)字一字に尽きる。象徴として捉(とら)えれば、『法華経』は、八つの花弁を持った蓮華の花である。特定の尊格としていえば、『法華経』は、観自在菩薩によって表現される。以上の、尊格と種字と蓮華は、いずれも『妙法蓮華経』を表しているのである。あるいは、『法華経』を諸仏の正しい智慧と呼び、あるいは諸仏の正しい見解と呼ぶこともできる。


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抜粋終わり


上記文抜粋
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 ひそかに思うのに、観自在菩薩は、はるか昔に仏となった。蘇達磨尾知耶(そたらまびじや)と音写し、十種の別称を備え持っていた。古い翻訳※では、正法明如来という。喩(たと)えていうならば、『妙法蓮華経』を、法護竺(じくほうご)の古い訳では、『正法華(経)』といい、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の新しい訳では、『妙法蓮華(経)』というようなものである。『法華経』の梵語の名称は、「薩達磨芬陀利迦(そたらまふんだりきゃ)」である。
語義解釈していえば、「薩(そ)」とは、妙という意味、正という意味である〈薩(さ)という字の発音は蘇(そ)と同じ〉。「達磨(たらま)」とは、存在物という意味である〈完全な音写としては、達羅磨という〉。
「芬陀利迦(ふんだりきゃ)」とは、白色の蓮華という意味である。新・旧両訳の表現が異なっているけれども、その意味内容は同一である。以上より明らかであるが、「蘇達磨尾知耶(そたらまびじや)」とは、正法明(如来)の梵語の音写である。
「蘇(そ)」とは「正」の意味、「妙」の意味である。「達磨(たらま)」とは「法」の意味である。「尾知耶(びじや)」とは「明」の意味である。
 要するに、つぎのことが知られる。『法華経』自体には、正法と妙法の旧・新二種の名称がある。観自在(菩薩)にも、また旧・新両訳に説く二種類の名前が存在している。このような理由で、『法華経』の中心は、実にこの観自在(菩薩)である。したがって、また「普門品」の中に、ただ観音の名前を唱えることだけを勧めて、『法華経』そのものの意図するところを表わしていない。なぜならば、観音の功徳を示すことは、そのままが『法華経』の教えであるからである。

※ 伽梵達磨訳『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』に正法明如来の名前をあげる(大正二〇・一一〇上)。

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抜粋終わり


参考になりそうです。


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