正義など、天皇制には無い。


より


上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・・・
なるほど「そうだった。」と納得


・・・・・・・中略・・・・・・

中嶋 哲史 @J_J_Kant ·2021年12月31日

政治を行うには権力(英語では単にpower)は必要なものだけれど、権力を集中させない、一つの権力に対しては常に対抗権力を用意するということが政治を腐敗させないために絶対に必要なことなのに、残念ながら日本人の大半はこの常識を理解しない。

反権力=悪という認識が染み着いている。
(★注、この指摘は全く同感で、車にアクセルとブレーキの両方があるから安全に走れる。アクセルだけの車は必ず暴走して大事故になる程度は誰にでも予測できるが、残念ながら「絆社会」の我がガラパゴス日本国では挙国一致で仲良く空気を読む「事実上ブレーキ役が無い」状態なので暴走する危険性が常にある。なんと、最近「維新が政権に入ったら、共産党は非合法化されるだろう」との不気味な予言を中嶋哲史が行っていたが「共産党非合法化」以前に間違いなく山本太郎の投獄か暗殺が先だった)

2021年7月12日

正義justice(ぴったり)、権利right(正しい)、権力power(力)等々、英語ならこれらの語は特別な意味を持たない普通の日常語だ。残念ながら日本語では日常を離れた翻訳語を使うしかないからいつまでも「お仕着せ」のままになる。仕方がない、逆にこれらの語を日常語にしていくしかないだろう。

正義justice(ぴったり)、権利right(正しい)、権力power(力)は特別な意味を持たない普通の日常語

漢字の本場の中国の現在の正式な国名「中華人民共和国」では中国製は「中華」だけで、それ以外の「人民」や「共和国」は全部が日本製の新しい言葉だったとの愉快な話があるが、150年前の「王政復古」(明治維新)後に当時の知識階級(多くは旧幕臣で明治政府の官僚として雇われた士族たち)が外国語を日本語に翻訳した「造語」が現在まで続いているが、これ等の新造語には元々の英語などになかった「特別な付加価値」が付いていた。
英語のjustice(ぴったり)の訳語である「正義」が、現在のように暴走すれば必ず不幸な結末を迎えるのは当然である。
元々個人の確立も権利意識も低かった我が日本国では、right(正しい)の訳語として当時のインテリ官僚が「権利」の言葉を作ったのは大失敗だった。「権利」を元々の「正しい」(right)とすればイメージが180度コペルニクス的に逆転するのである。

特に問題なのは「権力」power(力)で、150年後の現在では「正義」や「正しさ」をも併せ持つ不思議な言葉(スーパー・パワー)に進化していたのですから、それなら「反権力」とは自動的に「悪」や「不正」との負のイメージは避けられないのである。
その意味では「権力」べったりの維新の会代表の松井一郎お馬鹿Twitterは素晴らしい。そもそも正義justice(ぴったり)、権利right(正しい)、権力power(力)等々英語なら特別の意味を持たない日常語だったとの中嶋哲史の指摘がピッタリ(★注、確かに維新の会代表の松井一郎には権力はある。ところが正義も正しさも無いばかりか、知性や教養も一切ないとはアッパレ。あきれ果てる)

中嶋 哲史 @J_J_Kant

日本はまず普通の自由主義、民主主義、資本主義の近代国家にすることが先だから、実は本当の左翼の出番はまだない。(★注、松下政経塾出身の極右ファシストもどきの高市早苗と政界最左翼の共産党委員長志位和夫が同じ北京冬季オリンピックボイコットを叫ぶデストピア)

人が生きていくためにはもちろん金は必要だし、貧乏よりは金持ちの方がいいに決まっているけれど、ここまで金の亡者である俗物が権力を握り、その俗物性を恥じることも隠すこともせず、金以上の価値を否定するような政治はもう終わりにしなければならない。

オリンピックは所詮「見世物」で、まさに「パンとサーカス」の「サーカス」でしかないということが今回ほどはっきりした大会はないのではなかろうか。アスリートなどともてはやされるけれど、シルクハットを被ったバッハの振るう鞭で火の輪をくぐるライオンのようにしか見えない。

オリンピックの理想は様々に語られてきましたが、初めからこうなることは仕込まれていたのだろうと思います。さすがに現代は人が本当に死ぬシーンは見せられませんが、死のギリギリまで自己を追い詰める姿に人々は身勝手な感動を覚えるのです。それを切り売りしているのがIOCです。

(★注、デルタ株蔓延で入国禁止「国境封鎖」を発表した)11月28日この時点でこの判断を正しいとすれば、この夏のオリンピック開催がいかにデタラメで危険な事をやったのかということになる。 全世界から外国人の入国停止へ

スーパーコンピューターに忖度させてどうするんだ。

民主主義democracyとは「民衆による統治」を意味する。国民自身が国家を統治するということである。しかし、多くの日本人は統治するより統治される側に回りたい。政治は政府に任せるもの。自分が政治に参加する煩わしさより、たとえどんな悪政でもそれに耐える方が楽なのだ。

戦後、民主主義の憲法を持ち、民主主義の制度は作ったけれど、民主主義を支える主体は育てなかった。民主主義は制度が重要なのではなく、国民の心の中になければならないものだ。民主主義が国民の心の中になければ制度は容易に専制主義に転落する。今我々はその岐路に立っている。

太平洋戦争って、「敵基地先制攻撃」で負けたんじゃなかったっけ。

憲法9条は外国の侵略から日本を守るための規定ではなく、軍国主義化する政府から日本国民の平和と自由を守るための規定だ。外国の侵略に備えるためには別途整備すればよいし、それは既に存在している。

共産党とキリスト教のメンタリティは似ている。「次の時代」への確信があるから、迫害を受ければ受けるほど結束し強くなる。共産党を弱体化したいなら、容共に転じるのが一番効果的だろう。

資本主義社会では専門家も自己の専門知識を切り売りして生活の糧を稼ぐ「商人」だから、その専門知識は自ずから顧客の好むものに限定されてくる。ある専門家の提供する知識が信用できるかどうかを見極める一つの指標としては、その専門家が資本主義に対してどれだけ距離を取っているかが有効になる。

本来リベラルに右も左もない。ただ、リベラルである以上はあらゆる立場の自由を尊重するべきで、自分と異なる立場を否定したり排除することはリベラルに反する。自己の立場は旗幟鮮明にしつつ、反対の立場も認めた上で、個々の問題について自己に固執せず議論を尽くすのが本当のリベラルである。
ただ、議論の文化に慣れない人は批判を否定や排除と受け取ることが多いし、またあくまで批判を装いながら実際には否定や排除の意思で議論が行われる場合もある。後者はエセリベラルと言うべきだろう。リベラルへの疑問や批判はこういうところから生じているのだと思う。

現行憲法は、それを裁くのは国民であるということを前提にしている。つまり、国家機関としての国民の職務怠慢ということ。
引用ツイート
現日本国憲法の唯一の欠点は、為政者が憲法違反をしても裁けないところだと思う。


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抜粋終わり

>現日本国憲法の唯一の欠点は、為政者が憲法違反をしても裁けないところだと思う。

だよね。


ていうか、前の敗戦で裕仁を処刑してないのだ。

天皇廃絶か、天皇家虐殺をしないのは、日本人の怠慢。


て、考えようによると、イスラエルが反NWOに寝返る可能性も出てきたわけで

日本は天皇家が断固NWOだからね。



天皇制は奴隷制・日本人家畜化である。


正義など、天皇制には無い。

そもそも天皇制とは、「天皇と家畜」の奴隷制・日本人の家畜化だからな。


米軍が日本に居るのは、米国の利益と、天皇家を日本人から守るためである。日本人を守るために、米軍が居るわけでない。

米国と天皇言う寄生虫の為だけである。

天皇家を殺しつくして 日本泰平


天皇の無い 蒼い空を取り戻す



追記


日本は、ある意味での「人文学」「哲学」のレベルが、極めて低い。

それが「天皇崇拝」「西欧信仰」の最大の要因だし、それを維持するために、日本人を「家畜」にする必要があるのですよな。

















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