権利と義務と  アホな日本人と。

「義務を果たさないと、権利を認めれない。」という意見が、意外と根深い日本。


まあ、このおかしなのが跋扈するのはなんでだろう・・


ともわれそれについてのを

上記文抜粋・・・・・・

「クリーン・ハンズの原則」

 「権利を主張する者は、自らの手もきれいでなければならない。」これを「クリーン・ハンズ(clean hands)の原則」といいます。具体的にいうならば、自分が借りた金は返さないのに、自分が貸した金の返済だけを求めることはできない、ということです。この原則は、「義務を果たさぬ者に権利は認められない」と言い換えることもできるのですが、この考え方は人権にも当てはまるのでしょうか。例えば、「勤労の義務」(憲法27条)や「納税の義務」(同30条)を果たさない人には、「表現の自由」(同21条)や「職業選択の自由」(同22条)といった人権は認められないのでしょうか。

人権の特殊性

 人権も権利の一種ですが、しかし人権には「クリーン・ハンズの原則」は当てはまりません。つまり、義務を果たさない人であっても、人権を主張することは許されます。例えば、働けるのに仕事をせず、税金も滞納している人であっても、選挙に行って選挙権を行使することはできます。なぜならば、人権は「人間が生まれながらに持っている必要不可欠で基本的な権利」であり、基本的であるがゆえに奪ってはならないと考えられているためです。人権は、もしそれを否定されたならば、人間としての生存ができなくなるという最低限の条件を定めたものです。ですから、たとえ義務を果たさない人であっても、一人の人間として人権を主張することは許されます。ここに、人権という権利の特殊性があります。

人権とわがままの違い

 義務を果たさない人に人権だけを認めれば、わがままや身勝手を認めることになるのではないか。こんな疑問が出てくるかもしれません。でも大丈夫。人権にも一定の制約は伴います。それは、「他の人の人権を侵してはならない」という制約です。このような制約を人権の「内在的制約」といいます。人権はすべての人に認められるべき基本的な権利ですから、誰であっても他人の人権を侵すことは許されません。例えば、いくら表現の自由があるからといって、他人の名誉やプライバシーといった人格権(憲法13条)を侵すことはできないのです。このように、人権は決して独りよがりなわがままを認めるものではありません。


・・・・・・・・・抜粋終わり


まあヒューマンライツといえば、外資の「ソロス」とかの息がかかった「工作員」がうようよ居る怪しい組織でもあるが、


とかいい仕事もしている



人権とわがまま の区別が、指導者がわかってない。

ので、権力を持つと、人を踏みにじる。

てのが、「天皇教」の宗旨なのである。


そもそも

人権にも一定の制約は伴います。それは、「他の人の人権を侵してはならない」という制約です。このような制約を人権の「内在的制約」といいます。人権はすべての人に認められるべき基本的な権利ですから、誰であっても他人の人権を侵すことは許されません。

で、あるから、わがままになるわけがない。


それでも「権利はわがまま」と思うのは、アホだからである。


その証拠をみせよう


一つ目

上記文抜粋・・・・・・・・

権利と義務のこと

権利と義務というものが、しばしばワンセットで議論され、例えば「義務を果たさない者に権利はない」とか「権利を主張するなら義務を果たせ」といった言い回しがなされることは存外に多いのではないだろうか。

結論から言うと、権利と義務は全くの別物である。にもかかわらず、この二つが多くの場面において同日論的に混用されるのは、おそらく「give and take」や「No pains, no gains.」などの取引表現に意味的に引っ張られてのことであろう。

とはいえ、この同日論にも法的にはそれなりの根拠があって、日本の民法は、

1・私権は、公共の福祉に適合しなければならない。
2・権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
3・権利の濫用は、これを許さない。

というように権利の制限と義務の履行を第一条として始まるのである。因みに第二条は「この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない。」と続き、第三条は「私権の享有は、出生に始まる。」となる。

どうにも第一条第二項の「義務の履行」が浮いているような気がしてならないのは自分だけだろうか。仮に「権利の行使」と「義務の履行」を対等とするなら第四項に「義務の履行は濫りにこれを強制してはならない」くらいの条文があってもよさそうなものである。しかし、実際にはそんなものはない。この事実は「権利」と「義務」が対等対義語ではないことを示しているのである。

少なくとも論理的には、

・~する権利がある
・~しない権利がある
・~する権利はない
・~しない権利はない

の4パターンのうち、最後の「~しない権利はない」場合だけが義務となる。逆に言えば、「~しない権利」を完全に否定できない限りは義務が発生する余地はないことになる。

ここに権利と義務の表見的なアンバランスが生まれるのである。権利は出生とともに全ての人に平等に与えられる。一方、義務はその平等性を担保しようとすれば寧ろ頭数で等分する訳にはいかないから、結果として不平等になる。この現状に腹が立てばこそ、前述の「義務を果たさない者に権利はない」的発言なども起こるのであろう。

しかし、全ての人が平等であっても、全ての人生が平等ではない。これは権利と義務の関係に少し似ている。そう考える時、相手の権利、特に社会的に弱い立場にある人の権利を「果たしている義務に釣り合わない贅沢」と否定したり、あるいは制限したりしようとすることが如何に冷酷な行為かが分かる。

権利は義務のご褒美ではない。権利への感謝が義務という形をとって社会へとつながって行くのである。ここを間違えてはいけないのである。


・・・・・・・抜粋終わり

私は、どうもこの国の為政者・天皇が、「権利と義務は、バーター{取引}」と、意図的に「思わせたい」と思っている。

英訳や他国語に訳すると、その辺が実は変わってくるかもしれない。

なんせ、日本国憲法も、日本語で英語版原文では、かなり違う。

そうしたのは「天皇専制」{戦後はステルス専制}を維持するためでもあったのだ。


あと「社会学的・政治的知見の低さ」


特に「指導層のアホさ」が巨大な問題。


上記文抜粋・・・・・・

「義務」が生み出す弊害


不自由な環境には「選択肢」がありません。
「選択肢」がないということは、一方的に決められる環境に置かれるということになります。
そこに自分の意思が反映されることはありません。

自分の意思ではなく、他者の意思が反映された状態を、「義務化された状態」といいます。

「義務」は、強制力の元に「従うべきもの」として一方的に押し付けられるものです。大きなところでは国から始まり、会社や家族に至るまで、自分が属する組織やシステム内に存在するルールが「義務」であり、それは絶対の存在となります。

当然ながら、「義務」に反した場合、制裁が待っています。最悪の場合、属する組織からの追放や死が待っています。会社ではクビ、国なら死刑です。

義務に強い強制力を持たせる手段として、恐怖によるコントロールを行われることがあります。人は不自由であることは嫌ですが、制裁を受けることはさらに嫌がります。しかし、それが義務である以上、逃げ道はありません。よって、人は義務化された状態を本能的に嫌厭しようとします。

ここで厄介なのは、この義務化された状態に「なぜ?」を感じてしまう時です。この「なぜ?」という疑問が心の中に芽生えると、一見すると、どうにもならないような大きな力を敵に回すことになり、結果としてどうしようもない葛藤に心がさいなまれていきます。まさに冒頭の尾崎豊さん状態です。もし、この「なぜ?」が会社全体を支配すれば、社員からの抵抗や反発を招くことになるでしょう。

一方で、何ら抵抗することもない、おとなしい人たちばかりの組織もあります。
このような組織は一見すると良好なように見えますが、その実状は諦めに支配されている状態です。

いずれにせよ、不満や諦めに支配されている組織が、「どうしたら?」を考えることはありません。
つまり、「どうしたらより良くなるのか?」という自発的に改善していく力が欠落しているのです。ここが失われている状態は、人間の体でいえば、免疫機能を失って病気になりやすい体質になっているようなものです。

では、自立した組織をつくり、より良くしていくためにはどうすればいいのか?
それには、外側の環境に向ける「なぜ?」ではなく、自分の内側に問いかける「どうしたら?」の文化を醸成するマインドが必要となります。

人間が「自由」を感じるためには、「義務」がより少ない状態であることにこしたことはありません。ルールやマニュアル、仕組みづくりに忙しい会社がありますが、そうした会社は、同時に不自由な環境づくりに忙しく精を出していることに気づいていません。良かれと思ってしていることが、自ら病気に対する免疫力を下げていることには盲目となってしまうのです。

【まとめ その2】:過度な義務化が「自由」と「自立」を奪う

「権利」とは何か?

「義務」に対して常に浮上するのが、対義語の「権利」です。
あなたが経営者やリーダーならば、「権利を主張するなら、義務を果たせ!」というような気持ちになったり、実際にお説教をしたことはないでしょうか?

「権利ばかりを主張して義務を果たそうとしない、勝手で自己中心的な奴だ!」
そうやって経営者やリーダーたちは、日々頭を抱えたりしています。そして、その結果として出た答えのひとつが、義務化を加速させることなのです。言うこときかないから、言い訳ができない様にさらにがんじがらめにする。さらなる不自由化の始まりです。

こうなると、完全に対立の構図ができ上がってしまいます。「義務」の押し付け」と「権利の主張」の対立です。
経営者たちは次々とルール化を行い、従業員たちは、そのルールや仕組みを逆手にとって抵抗を始めます。働く時間や休暇、給料のことなどばかりに目が向き、なるべく少ない労働時間と少ない労力で多くの報酬や待遇を得ることに全力を注ぐようになります。

会社や全体の利益や成果のことなど考えず、自分の利益を最大化することにエネルギーを注ぐことになるのです。このような会社が大きな成果を得ることはないでしょう。

では、そもそも「権利」とは何でしょうか?
一般的には、ある行為をする、あるいはしないことを自由にできる地位や資格や能力のことです。また、一定の利益を主張することや、享受することを認められた地位や資格を有することでもあります。

報酬や休暇などは、法律やルール上では、努力することなく、はじめから与えられている権利であり、「権利を主張するなら、義務を果たせ!」は、実際の働き方と、「努力することなく」というところに生じるギャップに不満が生まれた結果です。しかも、権利を特権のように扱われることで、さらに関係性に亀裂が入るのかもしれません。

働き方に不満を持つ経営者と待遇に不満を持つ従業員・・・。

「義務」は「不自由」の象徴のような言葉ですが、ならば、「権利」は「自由」の象徴となるのでしょうか?
両者の関係性は、平行線で交わることのない「自由」を巡る戦いなのでしょうか?
お互いが歩み寄る道はないのでしょうか?

【まとめ その3】:「権利」を主張すれば「義務」が加速する

「義務」と「責任」の違い

「義務」に似た言葉に、「責任」があります。日本では、「責任」というと、取るものという印象が強くあるように思います。義務に反すると制裁が待っているわけですが、世間一般では、この制裁のことを「責任」と同義としてとらえているようなきらいがあります。つまり、罰やペナルティを受けるということでです。ここでの解釈としては、「責任」は「罰」と同じ意味となります。

「義務」に反すると「責任」が待っている。
辞書を引いてみると、全くそのような意味合いの文章が並んでいます。

1・立場上、当然負わなければならない任務や義務。
2・自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。
3・法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。

大体このようなことが書いてあり、どの辞書を引いても書かれている意味合いは同じです。ところが、日本以外では「責任」の意味が大きく異なります。少なくとも英語圏では、全くと言うほど、とらえ方が違います。


・・大体このようなことが書いてあり、どの辞書を引いても書かれている意味合いは同じです。ところが、日本以外では「責任」の意味が大きく異なります。少なくとも英語圏では、全くと言うほど、とらえ方が違います。

英語で責任は「responsibility」です。この言葉を分解すると「response」と「ability」になり、それらを直訳すれば「反応する力」となります。それは、「義務」の様に受動的ではなく、能動的に自ら動く力や能力を意味しています。同じ「責任」という言葉も、国や文化が違えば、その意味合いが全く異なるのです。

「義務」のように「不自由」な概念ではなく、「責任」には「意思」や「自由」が含まれています。つまり、日本での「責任」の認識とは真逆なのです。

「義務」と「責任」が対義であるということは、「義務」は「反応しない力」ということになります。実は、「義務」と「責任」の捉え方の中に、「自由」を考える上での大きな可能性が潜んでいるのです。このことは、経営者にとって大きな可能性であり、リーダーとしてフォロワーを導いていく際に礎となる大事な考え方で指針となります。

次章からは、この点について記述して行きたいと思います。

【まとめ その4】:「責任」と「義務」は違う。「責任」とは「反応する力」。「義務」は「反応しない力」・・・・・・抜粋終わり


自立した組織にならない理由

「義務」と「権利」は対義語ですが、捉え方によっては、同じ要素を含んだものとなります。つまり、二つの言葉は同義語だということです。

現代社会では、「義務」と「権利」は自分の意思と関係なく最初から与えられています。一見「権利」と「自由」が同じようなものに考えがちですが、本来の「権利」は有限です。「権限」ともいわれますが、言葉のとおり限りのあるものです。例えるならば、与えられた土地の中で放牧された家畜のようなものです。「不自由」な世界を「自由」であるかのように勘違いした、大海を知らない井の中の蛙と同じです。

ダメな経営者、リーダーや上司やマネージャーは、しばしば、この権限を振りかざし威張り散らします。しかし、権限を行使された人間からすれば、地位や立場を利用して「権利を主張するなら、義務を果たせ!」と言われているようにしか思えません。

このような上司のいる組織は不幸です。上司は一定の小さな自由を謳歌していますが、その逆に部下たちは不自由を押し付けられることになります。つまり、権利と自由をはき違えることで、不自由や不幸が生まれるのです。

有限な世界の小さな「自由」の奪い合いと、「不自由」の押し付け合いの構図です。権利や権限を個人の「自由」であるがごとく主張すれば誰かに不幸が訪れるというわけです。

与えられるものには、「依存」がつきまといます。甘やかされて育った子供をみれば一目瞭然です。「依存」の対義語は「自立」です。「依存」が進めば「自立」ができなくなります。とどのつまり、「義務」や「権利」にまみれているような組織には「自立」は訪れないということです。

「どうして、うちの社員たちは自分で考えないし、動きもしないんだ!」
「まったく、もっと自立して行動してもらいたいもんだよ・・・」

こんな風にいつも思っていたり、実際に口に出して愚痴っている社長さんによくお会いしますが、率直に言えば、このような方は自分の経営する会社で実は何が起こっているのかを把握できていません。

まずは、依存状態に陥るメカニズムを知ることが必要です。「依存」が進むと、もはやそれ無しではいられなくなります。わかりやすいのが、タバコやアルコール、薬物などの中毒者の姿です。極度の依存状態に陥れば、自分の意思だけで自分をコントロールできなくなります。
依存は自分以外の人や物や環境などからの影響にコントロールされている状態であり、「自由」を失っていることとイコールなのです。

【まとめ その5】:「依存」が「不自由」な環境を生み出し、それが「自立」の邪魔をする

フォーカスすべきは「責任」

「権利」と「義務」の議論を繰り返している間は、「自立」は生まれません。
もしも、自らの会社を「自立」した組織として運営をしたいのならば、「自由」と「責任」の関係性を理解し、組織内で共有しなければ実現はできません。

言葉の意味を頭で理解するということではなく、そのような風土や文化をつくるということです。前述のとおり、「責任」を英語で意味するところの「反応する能力」であると解釈したいところです。


与えられるままではなく、自ら反応し、適応し、対応していく力。そこには、明らかな「意志の力」が存在しています。この態度を「主体性」といいます。言い換えるならば「選択する力」です。

私達は、自分の意思で自らの道を決められることで「自由」を感じることができます。元来、人は「自由」を望む存在ですから、決めることができる環境があれば、主体性が自然と生まれます。結果、「責任感」や「責任能力」と呼ばれるものが育まれるようになります。「義務を果たせ!」などと口酸っぱく指示命令などしなくても、自然な形で自立が促されていきます。他の影響力に頼らず、自らの主体性や自主性によって行動することで「自由」を感じることができるようになります。

逆に、「自由」を感じることができれば、「責任(主体性)」が生まれます。ということは、「自由」と「責任」の関係は表裏一体であるということです。

「権利」と「義務」も表裏一体です。しかし、それはあくまで「不自由」を押し付け合う関係です。「自由を主張するならば責任を果たさなければならない」というように、経営者が「責任」を押し付けて「自由」を見返りとするようなスタンスではなく、組織内の個々のメンバーが「主体性を発揮すれば自由を感じることができる」という事実を知ることが、「自立」した組織に向かって成長し始める一歩になります。

「自由」は、何かを犠牲にして手に入れるものではなく、「自分の意思」次第で感じることができるものなのです。選択する力がなく、決められない人ばかりの組織は、主体性がなく、「自立」できていない依存型の組織です。依存型組織からの脱却方法は、義務感に縛られた「不自由」な環境にしないことです。自立型組織への転換方法は、責任感(主体性)を発揮できる自由な環境をつくることです。

「責任」の元では、「義務」は他人から与えられるものではありません。自ら生み出し、課すものであり、ルールさえも自分たちでつくるものです。これは「自律」です。「自立」した組織は、「自律」を生み出します。

私は、しばしば、わが社の社員たちに言われます。「自由」な環境は一見楽なようで厳しいと。それは、自分で考え行動していかねばならない状況に追い込まれるからだと。

参考:「自立」と「自律」の関係性 http://hadakanoshacho.com/self-reliance_self-controlled


【まとめ その6】:「自立」を生み出す原動力は「反応する力」である

社長の仕事をもっと楽にするには?

では、具体的に、「自立」した組織にするためには、何から、誰から、手を付けたら良いのだろうか?という疑問が頭をよぎります。

さらには、
「責任を果たさないおまえたちが悪いから自由がないのだ!」
「おまえたちが悪いのだから、先に行動しろよ!」
などの言葉が頭から離れず、悶々とした気分に包み込まれそうになります。

経営者は、ついついこのような思考回路にはまって出られなくなってしまいます。今度は、経営者自身が「なぜ?」「どうして?」に苛まれて不自由さを感じてしまうのです。

ところが、従業員たちが、なぜ主体性を発揮できないのかということを考えれば、そこにはきちんと理由が存在しています。従業員は、行動しないのではなく、できない理由があるのです。その理由は、そもそも「責任(主体性)=自由」として認められる環境が組織内に存在していないからです。要するに「責任(主体性)=不自由」になってしまっているわけです。

失敗すれば、大きな制裁が待っている、出る杭が打たれるというような風土が存在していたりするのです。正直者や最初に手を挙げた人がバカを見る、損をする、というような風土では主体性は育ちません。また、ペナルティやお説教など、失敗に対して柔軟ではない組織にも主体性は育ちません。行動するための「勇気」が出花で挫かれてしまうのです。

決めることができる環境は自由度を高くしますが、失敗の恐怖がつきまとえば、反対に「依存」の状態が加速してしまいます。それを回避するためには、従業員たちが「勇気」を出して行動できる環境に、経営者自身が「勇気」と「覚悟」を持って実現していく他にありません。

では、経営者にとっての「勇気」と「覚悟」とは何でしょうか?
それは、「自由」な環境をつくるために、「任せること」、そして、すぐに成果を求めずに「待つこと」です。

人の成長は一朝一夕には成り立ちません。私も経験上、よくわかりますが、任せることも、待つこともしんどいことです。実践する上でつきまとう恐れや不安に立ち向かうことは「勇気」が要ることです。従業員の悪いところばかりが目につき、疑心暗鬼になって、ついついイライラしてしまうこともあります。しかし、目先のことだけ見ていては、「自立」した組織は育ちません。

「あなたが良かれと思うことをしてください」
これが、私の経営における基本スタンスです。
社員の「良心」に任せる経営です。
だから、ルールは基本的には存在しません。
マニュアルもノルマもありません。

作業マニュアルなど、やり方や方法を示すものはもちろんありますが、強制力をもったルールなど、義務化されたものはありません。ほとんど社員たちの自主性や主体性に任せています。もちろん行動しなかったからといって罰則もありません。極端に聞こえるでしょうが、私の経験上、過度なルール化は、主体性(責任)を削ぐことになると思っているからです。

信じて任せるというスタンスは「勇気」と「覚悟」が要ることです。これが私の考えるところの私(社長)の責任(主体性)です。その結果として、組織は「自立」しました。

「自立」した組織では、経営者の仕事が減ります。単刀直入にいえば、社長の仕事が楽になるということです。

私はおかげで、大きな「自由」を手に入れることができました。結果、この数年で複数の事業の多角化にも成功しています。空いた時間を、未来について考える時間に充てることでそれが実現できたわけです。「自立」した組織をつくることは我々経営者のミッションであると私は思います。

是非、トライしてみてください。 (^ ^)

【まとめ その7】:「自立」した組織をつくるのは、社長の「勇気」と「覚悟」。任せて待つべし

・・・・・・・・抜粋終わり


ようするに「指導者自身が、権利と自由をはき違えている」

のが、最大の過ちなのである。


そのようなはき違えた指導者ばかりが、日本を指導している。


てなると、国家は当然に衰亡する。


まあ「天皇」とか無責任で「無制限の権力」をもった「恥知らず」を、元首だの象徴だのいっているアホで下種ばかりだからね~。


天皇を斬るか、亡国か 日本人の死滅か・・・


早く天皇を斬って、日本を救う。


天皇の無い 蒼い空を取り戻す




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