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ワクチン真理教。昔日のオウムを笑ってた人が、いま入信している。

上記文抜粋・・・・・・・・・

ツイートまとめ テーマ:「科学系カルト」とは何か。及び「知」「知識」を絶対視せず軽視もしない東洋的知識観について。

〇カルトは宗教系カルトと科学系カルトがいる。「カルト」と言うと、一般的には前者のイメージであるが、後者も前者と何ら変わらない性質を持っている。特定の見解をドグマとして絶対視し盛んに宣伝活動を行うという点で宗教系も科学系も変わらない。近年では科学系カルトの動きが目立ってきたと感じる。

〇カルトの特徴は「懐疑」を嫌う事。懐疑とは物事の探求に於いて不可欠の態度だと考える。狂信的カルトは「懐疑」を即「否定」と捉えるのが特徴である。彼らにとって絶対的なドグマを疑う事は許されない訳である。肯定も否定もせず判断を保留する態度すら「否定」と捉える。カルトはまるで話が通じない。

〇科学的真理とは大半の人間にとって伝聞である。廣松渉氏の哲学入門書で「原子や分子なる概念は事実と信じて疑われないが、伝聞の知識に過ぎない」という趣旨の事が書かれていてハッとさせられた記憶がある。科学系カルトは伝聞知識を自分で見てきように語るが、これは科学的態度とは言えないだろう。

〇科学では観測・観察の結果を記述し理論として確立する。だが、大半の人間は極小・極大の世界を実際に観測・観察する事は出来ず、高等数学に関する知識もない。故にある科学理論が正しいのか否かを断定的に判断する事は出来ない。だからこそ断定的判断は保留し、教科書的な知識として認識するしかない。

〇科学カルト系工作員は「判断するだけの専門知識がないので正否を判断できない」という態度を「バカだから分かりません」だと改釈するが、これこそが馬〇の証明であろう。自分の知の限界を弁えている者より己の知の限界を弁えず自らが絶対的真実を認識していると思い込んでいる者こそが真の愚者である。

〇科学系カルトと話がかみ合わない様はまさに宗教系カルトと同様である。彼らはとにかく自分の言いたい事を言いまくるのみ。こちらが「非専門家にとっての科学的認識とは何か」という本質的な問いからすり合わせをしようと試みても、「どうでもいい事」だと言って逃げる。彼我の認識の差は非常に大きい。

〇「主流派」とか「多数派」とされる学者の説を引用してあたかも自分が断定的に認識したと勘違いする事こそが馬〇の証拠である。そんな事なら誰でも出来る。「非専門家にとっての科学的認識とは何か」「専門家や権威者とされる者に対して市民が懐疑を持つ事の重要性」を問いかけても詮無き事ではあった。

〇以前も書いたが、専門分野の知識に関して科学者と一般人では非対称な構造があるので、科学者はその知識を使って人々を支配する事も出来る。西洋中世の教会が知識を独占して民衆を支配したのと全く同じ構造である。専門知識が無くとも懐疑する事の重要性がここにある。科学カルトはこれが困るのである。

〇現代人には科学信仰が根強いので、単純に宗教やオカルト(秘教)だけでは支配出来ないと思われる。だから、「科学的」な体裁を取る場合が多いのである。スピ業界の怪しい商品に科学的なラベルが施してあるのは分かり易い例。神智学は19世紀の最先端科学理論だったダーウィン進化論の影響を受けている。

〇科学時代の唯物論的風潮の中で神秘主義を広めるには、どうしても「科学的」体裁を取る必要があった。そこで、ダーウィン進化論を取り入れて作られた19世紀の新しい西洋神秘主義が神智学の霊性進化論だった。オウムもこれの影響を受けた。オウムは科学専攻の信者も多かった。ある意味科学カルトの一種。

〇現代は科学の体裁を取るカルトが広まり易い。目下最も流行しているカルト宗教が「惑沈教」である。「世界を救う惑沈様」に「懐疑」を差し挟む者は異端者と見なして排除する。「惑沈様」を信じる者は「惑沈パス」という刻印を与えられて「アフターコロナ」という“地上天国”に入れる。まさにカルト教義。

〇自分が知っている事と知らない事、あるいは判断出来る事と判断出来ない事の限界を明確に認識している事が真に知的な態度であると考える。論語に「これを知るを知ると為し、知らざるを知らざると為す。是れ知るなり。」とあり。自分の知の限界を弁えず何でも知っているかのように言う態度は愚かである。

〇さらによくよく考えると、果たして自分が何かを「知っている」と言えるのかどうか怪しく思えてくる。知識のレベルには限界が無いので、「知る」にも様々な段階があろうし、知れば知る程分からなくなる、という事もあり得る。一応知っているという前提に立たないと生活が成り立たないとは言え、自分が

〇「何かを知っている」のが絶対的な事実なのかは心許ない限りである。「知」「知識」「知る」とは実に不安定で相対的なものと言える。それを自覚し己の知を絶対視しない態度が重要なのであろう。難しい哲学を展開した挙句に「無住」が根本と言ってのける三論玄義の如き東洋の哲学書の態度は好きである。

〇以前も引用したが、三論玄義は「経論」のエッセンスとは何らかの知識や理論ではなく「無住無著(住無く著無き=とどまる事が無く執著が無い)」とも述べている。書を読む目的はより多くの知識を得て何らかの力や能力を身に着ける事だという価値観とは全く異なる東洋的な学問観の一例をここに見た次第。

〇科学主義者は知識を得ようという意欲はあるが、「知識とは何ぞや」という知識論への関心が希薄である。実際科学系カルトは知識論の考察を「どうでもいい話」と決めつける。だが、自らの知の限界を弁えない傲慢な連中の愚行に彩られる歴史を鑑みるに知識をメタに考察する知識論こそが重要だと考える。

〇知や知識を絶対視せず、かと言って軽視したり捨てたりせず、淡々と執着せずに活用する所に東洋的な知識観があるように思う。例えば「荘子」は明らかに該博な知識を持つ一流の知識人であるが、物事を二つに切り分ける「知」を懐疑した。ちなみに先程の三論玄義は中国より日本で広く読まれたそうである。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1426655404780494849


(了)

・・・・・・・・・・抜粋終わり

>科学的真理とは大半の人間にとって伝聞である。廣松渉氏の哲学入門書で「原子や分子なる概念は事実と信じて疑われないが、伝聞の知識に過ぎない」という趣旨の事が書かれていてハッとさせられた記憶がある。科学系カルトは伝聞知識を自分で見てきように語るが、これは科学的態度とは言えないだろう。

同感。

>「主流派」とか「多数派」とされる学者の説を引用してあたかも自分が断定的に認識したと勘違いする事こそが馬〇の証拠である。そんな事なら誰でも出来る。「非専門家にとっての科学的認識とは何か」「専門家や権威者とされる者に対して市民が懐疑を持つ事の重要性」を問いかけても詮無き事ではあった。

これについては、タリバンも面白いことを言っている。


>◼︎ 多数決は少数者の意向を無視する
◼︎ 多数派が法を制定すると、物事の善悪まで多数派の意思になる
◼︎ 善悪、正邪の基準は神が決める絶対的基準

正しいか、間違いか、は、人間が決めつけきれない。誤認を「追従」して、広まって、「多数」になれば、それは正しいかどうか?

少数者が間違いで、多数が正しいとは、決まっている訳が無い。





>現代は科学の体裁を取るカルトが広まり易い。目下最も流行しているカルト宗教が「惑沈教」である。「世界を救う惑沈様」に「懐疑」を差し挟む者は異端者と見なして排除する。「惑沈様」を信じる者は「惑沈パス」という刻印を与えられて「アフターコロナ」という“地上天国”に入れる。まさにカルト教義。


同感。

ナチスが「優生学」で、障害者やユダヤ人を殺しまくったのと同じ論理。


>自分が知っている事と知らない事、あるいは判断出来る事と判断出来ない事の限界を明確に認識している事が真に知的な態度であると考える。論語に「これを知るを知ると為し、知らざるを知らざると為す。是れ知るなり。」とあり。自分の知の限界を弁えず何でも知っているかのように言う態度は愚かである。

>さらによくよく考えると、果たして自分が何かを「知っている」と言えるのかどうか怪しく思えてくる。知識のレベルには限界が無いので、「知る」にも様々な段階があろうし、知れば知る程分からなくなる、という事もあり得る。一応知っているという前提に立たないと生活が成り立たないとは言え、自分が

>「何かを知っている」のが絶対的な事実なのかは心許ない限りである。「知」「知識」「知る」とは実に不安定で相対的なものと言える。それを自覚し己の知を絶対視しない態度が重要なのであろう。難しい哲学を展開した挙句に「無住」が根本と言ってのける三論玄義の如き東洋の哲学書の態度は好きである。


特に

「何かを知っている」のが絶対的な事実なのかは心許ない限りである。「知」「知識」「知る」とは実に不安定で相対的なものと言える。

てことまで、了解しているとは思えないのが、今の科学や科学信者。


そういう意味で、「科学教」って宗教カルトが、世界を日本を覆っているよね。

まあ、天皇でも信じれる「偽ニホンザル」の天皇信者なら、当然入信しているよな。



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