最良証拠主義で、無辜の日本人を殺しつくす。のが天皇支配の要の一つ。

より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・・

「袴田事件」の経過を改めてたどって判明した、刑事司法のずさんな実態(前編) 疑惑の証拠で、なぜ袴田巌さんは「真犯人」に仕立て上げられたのか

 1966年6月に静岡県清水市(現静岡市)のみそ製造会社専務宅で起きた一家4人殺害事件「袴田事件」。袴田巌さん(86)は死刑が確定している。それでも無実を訴え続けた結果、2014年になって静岡地方裁判所が「犯人と認定できない」と判断。死刑執行を停止し、裁判のやり直し(再審)を開始する決定を受けた。逮捕から48年たってやっと釈放もされた。しかし、まだ裁判は終わらない。再審開始決定は、東京高等裁判所で覆された。弁護団の不服申し立てを受けた最高裁判所は2020年、東京高裁に審理を差し戻している。注目される東京高裁の判断は3月13日に示される。
 この事件を巡る経過を、弁護団や支援者、事件関係者、そして袴田さんを献身的に半世紀以上、支えてきた姉のひで子さん(90)を通してたどると、多くの謎が浮かぶ。真犯人を袴田さんとした捜査や裁判のずさんさには、首をかしげたくなる点ばかりだ。「証拠」とされたものを挙げると、凶器や犯行時の着衣、そして犯行を「自白した」とする調書などだが、いずれも有罪の根拠とはとても言えない。どういうことか、一つ一つ詳述していきたい。(共同通信=藤原聡)

 ▽あり得ない凶器、刃物店も「実は顔を見ていない」
 「凶器と認定されたくり小刀は、うちの店では扱っていなかった」。静岡県沼津市にあった「菊光刃物店」の高橋国明さん(73)は断言する。
 くり小刀は木工用の小さな刃物だ。事件現場の被害者の足元に、柄もさやもない状態で落ちていたのを静岡県警の捜査員が見つけ、殺害に使われたと認定した。袴田巌さんが1966年3月末か4月初め、菊光刃物店で購入したとされ、死刑判決の根拠の一つになっている。
 事件当時、学生で店を手伝っていた高橋さんは、刃渡り135ミリの種類のくり小刀だけを店で売っていたと記憶している。だが、県警が押収したくり小刀は、刃渡り120ミリだった。
 「2年前、雑誌記事の写真を見て、びっくりした」と高橋さん。記事には、県警撮影のくり小刀の写真が掲載されていた。大きさが分かるよう小刀の下に物差しを置いた構図だ。「物差しの目盛りを何度も数えたが、刃の長さは120ミリしかなかった」

 店は事件の2年前、全焼。仮店舗営業だったため、仕入れ品を絞り、売れ筋の135ミリしか置いていなかったのだ。父親で店主の福太郎さんも証人尋問で「くり小刀というのは、長さが135ミリ」と証言している。
 高橋さんは、母親みどりさん(96)のこんな言葉も覚えている。1967年7月、検察側証人として静岡地裁に出廷したみどりさんは、帰宅すると、「証言の仕方って教えてくれるのね」と話したのだ。
 みどりさんは法廷で、捜査員から見せられた20枚以上の顔写真の中に見覚えのある顔があり、裏を見ると「袴田」と書いてあった、と証言した。
 しかし、当初は店に来た捜査員に「見覚えのある顔はない」と答えていたのを高橋さんは聞いている。つまり、証人尋問の前、検察側から応答の指導があったとみられる。死刑判決が出た後、「本当は見ていない」とみどりさんは話し、自分の証言で有罪になったのではないかと思い悩んでいたという。
 みどりさんはその後、脳梗塞の後遺症で寝たきりとなり、現在は意思疎通も難しい。介護する高橋さんは「母が存命のうちに、『袴田さんが無罪になったよ』と言ってあげたい」と話している。
 くり小刀以外にも、この事件は捜査、裁判ともに闇の深さを感じる。事件の少し前まで時間を巻き戻し、袴田さんを追ってみる。

 ▽ボクサー、ボーイ、バー経営、その後に入ったみそ会社で事件は起きた
 袴田さんは中学卒業後、浜松市の自動車整備工場に就職した。通勤途上にジムがあり、窓越しにボクシングの練習風景をのぞくうちに興味を覚え、19歳から通うように。働きながらジムで練習を続けた。やがてアマチュアボクサーとして頭角を現し、1957年9月、国民体育大会のボクシング競技にバンタム級の代表選手として出場。59年11月にはプロデビューした。
 翌1960年はテレビのボクシング番組のフェザー級トーナメント戦を勝ち上がり、7月のA級決勝戦にも勝利して優勝カップを手にする。この年の試合数は19。これは年間最多試合の日本記録だ。だが、多すぎる試合数や過酷な減量が原因で、目や脚に故障を抱える。61年半ば、引退に追い込まれた。
 袴田さんはジムの会長を頼り、キャバレーのボーイとして働いた。すると、酒類を納入していた酒店の店主が袴田さんの人柄を気に入った。店主が資金を出してバーを経営させたが、失敗。そこで、店主は取引先のみそ製造会社「こがね味噌」に頼み、袴田さんを従業員にしてもらった。事件の約1年半前のことだ。
 1966年6月30日未明、静岡県清水市(現静岡市清水区)の「こがね味噌」専務、橋本藤雄さん=当時(41)=宅から出火、焼け跡から橋本さんと妻、次女、長男の親子4人の遺体が見つかった。遺体には刃物で刺された傷が多数あり、集金袋が奪われた疑いがあるため、静岡県警は強盗殺人放火事件として捜査本部を設置した。
 袴田さんは、みそ工場内にある寮に住み込みで働いていたが、週末は両親がいる浜北市(当時)の実家に帰っていた。事件後の土曜日、姉のひで子さんが実家を訪れると、袴田さんは隣家の住民と話し込んでいた。「巌が、にこやかに話していたのを見て安心した。事件とは関わりがないなと思ってね」
 ひで子さんはまた、弟と橋本さんが良好な関係にあったと聞いていた。「巌は、橋本さんにかわいがってもらい、背広をもらったこともある」
 ところが、捜査員が、袴田さんをぴったりと尾行するようになった。マスメディアの取材も過熱。袴田さんが逮捕されるのを前提にしたインタビューも試みられた。袴田さんは記者から県警に事情聴取された時のことを聞かれ、「『おまえがやらなくて誰がやるんだ』と言われた」「色めきたって犯人扱いするんだからたまらない」と答えている。
 捜査本部は8月18日、袴田さんを逮捕した。パジャマを切り取った布片を鑑定した結果、被害者の血液型と一致する血液の付着が確認されたことなどを理由に挙げた。

 ▽取り調べは16時間超、意識朦朧の中で取られた「自白調書」
 捜査本部は本格的な取り調べを始めた。清水警察署1階にある取調室は6畳間ほどの狭い部屋で、車の往来が激しい国道に面しており、冷房設備はない。残暑が厳しい季節。うるさくて蒸し風呂のような密室で、取調官が交代で長時間、ひたすら自白を強要した。
 袴田さんが留置場を出入りした時刻の記録「留置人出入簿」によると、取り調べがいかに長時間だったかが分かる。逮捕当日の1966年8月18日は、午前6時40分の事情聴取開始から逮捕状執行を挟み午後10時5分まで、食事時間を除き取り調べは13時間8分に及んだ。翌日以降も午前8時半ごろから午後11時過ぎまで連日12時間を超えた。
 深夜に留置場に戻ってからも、疲れを癒やすことができなかった。
袴田さんは後に静岡地裁の被告人質問で、当時の状況をこう述べている。「留置場に戻されまして、床につくんですが、かわるがわる酔っぱらいを連れてきまして、それが一晩中騒いでいるんです」。寝不足から中耳炎になり、体がむくんだ。
 対照的に、斎藤準之助弁護士らが接見した時間はわずかだった。8月22日に7分、29日に10分、9月3日に15分、3回で計32分だけである。
 袴田さんが否認を続けたことから8月29日、刑事部長、捜査一課長らが静岡市の県警寮・芙蓉荘に集まり、検討会が開かれた。「捜査記録」によると、今後の対策として〈取調官は確固たる信念を持って、犯人は袴田以外にはない、犯人は袴田に絶対間違いないということを強く袴田に印象づけること〉と確認した。
 この検討会議の後、天竜署次長の羽切平一警部ら2人が取り調べに加わった。羽切警部は、県警が発足する前の「国家地方警察静岡県本部」時代から捜査幹部だったベテランだ。

取り調べは過酷さを増す。9月4日、袴田さんが「小便に行きたいです」と訴えても、取調官は「返事をしなさい」と取り合わない。しばらくして便器を部屋に持ち込み、袴田さんは用を足した。この日の取り調べは16時間20分に及んだ。
 そして勾留期限3日前の9月6日、袴田さんは犯行を「自白」したことになっている。袴田さんはこの日、疲れ切って頭痛がひどく、めまいもしたという。公判ではこう語った。「頭がズキズキしてたので、名前だけ書いて、突っ伏していたら、わたしの手を持って指印を押して、そのまま(取調官が)出ていった」。意識がもうろうとした中、「自白」の供述調書が作成された。
 袴田さんは、後になって取り調べがどういうものだったかを書き残している。1983年2月8日の日記にはこう記されていた。「殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ、といっておどし罵声をあびせ棍棒(こんぼう)で殴った。(略)午前2時頃まで交替で蹴ったり殴った。それが取り調べであった」
 【後編はこちら】https://www.47news.jp/47reporters/9049501.html

・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・

「袴田事件」の経過を改めてたどって判明した、刑事司法のずさんな実態(後編) 取り調べは「拷問」、裁判長は勘違い、エリート調査官も「誤り」

1966年に静岡県で起きた「こがね味噌」専務家族4人殺害事件。逮捕された袴田巌さんは、長時間に及ぶ警察の取り調べで意識朦朧とする中、「自白」させられた。静岡県では、これ以前にも似たような過酷な取り調べを経て自白調書が作成され、死刑判決後に再審で無罪となった事件がある。「島田事件」だ。捜査主任は、袴田さんの取り調べにも駆り出された天竜署次長の羽切平一警部。国家地方警察(国警)静岡県本部の職員録を見ると、羽切氏は島田事件当時、捜査課で強盗や殺人事件を担当する強力係長だったことが分かる。取り調べの実態を知れば、犯行を告白した「自白調書」がいかに信用できないかが見えてくる。(共同通信=藤原聡)

 【前編はこちら】 https://www.47news.jp/47reporters/9049392.html

 ▽名刑事から一転、「拷問王」と呼ばれた警部補

 「スワッタママデ私ハ小便ヲモラシタノデアリマス」。島田事件で死刑確定となった赤堀政夫さん(93)が1974年12月、第4次再審請求で静岡地裁に提出した上申書の一節だ。赤堀さんは、たどたどしい文章で「16時間の取り調べの間、便所へ行かせてくれなかった」と訴えた。袴田さんの取り調べとの酷似に驚かされる。

 赤堀さんは、静岡県島田市で1954年3月、幼稚園の女児が行方不明となり絞殺体で見つかった事件で殺人罪などに問われ、死刑判決を受けた。その後、再審が開かれて1989年に無罪となる。

 島田事件のほかにも静岡県では、死刑判決後に無罪となった強盗殺人事件が2件ある。幸浦事件と二俣事件だ。冤罪事件が相次いだ背景には、国警の紅林麻雄警部補の存在があった。

 二俣事件を振り返ってみる。静岡県二俣町(現浜松市天竜区)で1950年1月、親子4人が刺殺され、現金が奪われた。紅林警部補は、近所に住む18歳の少年に目を付け、別件の窃盗容疑で逮捕、4人殺害を厳しく追及した。

 少年は二俣署裏の土蔵に押し込められ、殴る蹴る、引きずり回すなどの拷問を受けた。4日後、少年は「4人を殺害した」と「自白」し、虚偽の供述調書が作成された。

 その後、少年が死刑を求刑されたのを知った捜査員の山崎兵八巡査が良心の呵責に耐えかね、拷問の事実を法廷で証言。警察は山崎巡査を偽証罪で逮捕し、免職にした。少年は一、二審で死刑判決を受けたが、最高裁が破棄し、無罪となった。

 難事件を次々と解決する「名刑事」ともてはやされた紅林氏は、二俣、幸浦両事件で無罪判決が出ると、「拷問王」と呼ばれるようになり、派出所勤務に左遷。島田事件の捜査からも離れ、部下の羽切氏が捜査を主導することになった。

 島田事件の赤堀さんは仙台刑務所から鈴木信雄弁護士に出した手紙に、「ひどい拷問をした人」として「紅林、羽切」らの名前を挙げている。

 ▽犯行着衣は?パジャマを否定された検察側、“新証拠”を突然発見

 袴田巌さんの初公判は1966年11月15日、静岡地裁で開かれた。強盗殺人、放火などの起訴内容を全面否認。「私は、やっておりません」と無実を訴えた。

 検察側は冒頭陳述で、袴田さんがパジャマ姿で「こがね味噌」専務の橋本藤雄さん方に侵入したが、橋本さんや妻子に見つかったため、くり小刀で4人を刺して売上金を奪い、みそ工場の混合油をまいて放火した、と述べた。

 犯行着衣はパジャマ、凶器はくり小刀という主張だ。しかし、静岡県警の「捜査記録」にはパジャマから「血痕らしきものの付着は認めることができなかった」と書かれている。くり小刀を凶器とすることも前編で記述した通り、誤りだった。

検察側が提出した証拠の中には「パジャマに血液と混合油の付着があった」とする県警の鑑定結果もあったが、弁護側は1967年9月5日の公判で再鑑定を求めた。その後、パジャマは再鑑定の末「油分は検出されなかった」という結果になった。しかし、この時点でパジャマは既に「用なし」になっていた。弁護側が再鑑定を求めた日の数日前に驚くべき事が起きていたためだ。

 67年8月31日、みそ工場のタンクから麻袋に入った血染めの衣類5点が発見されたのだ。事件発生から1年2カ月も後になって突然出てきたのは、鉄紺色ズボン、ステテコ、緑色ブリーフ、灰色スポーツシャツ、白色半袖シャツだ。

 静岡県警は9月12日、袴田さんの実家を家宅捜索し、たんすからズボンの裾上げで切った端切れを押収。翌13日、臨時の公判で検察側は「5点の衣類」を証拠として提出し、犯行着衣はパジャマではなく「5点の衣類」だと、主張を変更した。

 袴田さんは、自分の着衣ではないと否認。手紙に「タンクは、刑事たちが目の色を変えて捜索して何もなかった所」と書いた。

 姉のひで子さんは5点の衣類の一つについて、こんな話をしてくれた。「緑色のパンツ(ブリーフ)は次兄の家にあった」。逮捕後にこがね味噌から実家に送り返された袴田さんの所持品の中にこのブリーフがあり、次兄の実さんが実家に寄った際、持ち帰ったまま自宅に置いていたという。逮捕後の時点で兄の家にあったブリーフが、なぜ犯行着衣としてみそのタンクから見つかるのか。ほかにも不審点はある。ブリーフにB型の血液が付着しているとされたが、上にはくステテコやズボンにはB型の血痕がないのだ。
 

 ▽捜査を厳しく批判したが、結論は死刑。判決の裏側で起きていたこと

 1968年9月11日、袴田巌さんの判決公判が静岡地裁で開かれた。石見勝四裁判長は、結論を後回しにして理由の朗読を始めた。通常は極刑が予想される展開だが、意外なことに判決文は捜査を厳しく批判している。

 まず、検察側が提出した袴田さんの供述調書45通のうち44通は「証拠能力がない」として排除。理由は、1日平均12時間にもなる長時間の取り調べが続いたためだ。初めて「自白」した取り調べも「任意にされたものではない疑いのある自白」と指摘。ただし、吉村英三検事による調書1通だけは採用された。判決にはこんな「付言」もある。「捜査のあり方は(中略)厳しく批判され、反省されなければならない」

さらに、「5点の衣類」をタンクに入れた状況や日時については「全く証拠がない」。被害者宅に侵入して格闘するまでの経緯などについても「自白」を裏付ける証拠はないとした。まるで無罪判決のような内容だ。ところが、朗読を終えた石見裁判長は、袴田さんに言い渡した。「死刑に処する」

 実はこの判決文を書いたのは、左陪席の熊本典道裁判官だった。熊本裁判官は、袴田さんが無罪との心証を持ち、350枚の無罪判決を書いて裁判官3人による合議に臨んだ。だが、石見裁判長と高井吉夫裁判官は有罪との意見を曲げず、2対1で死刑に決まった。熊本氏は心にもない死刑判決を書くことになった。

 判決から39年たった2007年、熊本氏は「無罪の心証で死刑判決を書いた」と告白し、袴田さんの再審開始を求めるこんな上申書を最高裁に提出する。「有罪判決を書かねばならなくなったため、妥協の産物として(調書1通を)採用した」「当時の東京高裁はそれなりに見識を持った裁判官がいたので、私の無罪心証に気づいてくれると信じて期待していました」。だが、熊本氏の切なる思いは、届かなかった。

 ▽ズボンの「B」は肥満体用、と勘違いした東京高裁

 静岡地裁の死刑判決後、審理が始まった東京高裁では「5点の衣類」を実際に袴田さんに装着させる実験をした。袴田さんが要望したためだ。装着実験は1971年11月20日、東京高裁で実施された。

 法廷の隣室で、袴田さんは鉄紺色のズボンをはこうとしたが、太ももでつかえた。ファスナーは全開だが、いくら引っ張っても上がらず、はくことはできない。74年9月、75年12月にも実験が繰り返されたが、結果は同じ。一方で事件当時に袴田さんが着ていた別のズボンははくことができた。5点の衣類のズボンが小さ過ぎることは明らかだった。

 

 ところが、76年5月18日、東京高裁は控訴を棄却。死刑判決を支持したのだ。犯行時の衣服を着られなかったのに、なぜ犯人なのか。横川敏雄裁判長は、ズボンのタグにあった文字「B」に着目し、要約するとこんな判断を示している。

 「BはB体(肥満体)用で、ズボンの元のウエストサイズは83センチから85センチあった。1年以上も水分・みそ成分を吸い込んだあと長期間証拠物として保管されている間に自然乾燥して収縮した。勾留中の運動不足によると思われる体重の増加も無視することができない。だから犯行時はズボンをはけた」

しかし、横川裁判長の見立ては誤りだった。2010年に開示されたズボン製造会社の男性の供述調書によると、「Bは仕入れた生地を整理するためのもので、色を意味する」。この男性は、5点の衣類が発見された当初から捜査員にそう説明していたのだ。

 横川氏は、著書「刑事控訴審の実際」に、「裁判の理想像」として次のように記した。「裁くものと裁かれるものとが共に生きた人間としてその間に心の触れ合いを経験するようにすること」。この言葉が実践されたと言えるだろうか。
 

 ▽人権派のエリート裁判官による「とんでもない誤り」

 東京高裁でも死刑とされた袴田さんは、最後の望みを最高裁に託し、上告趣意書を提出した。最高裁では上告趣意書などの裁判記録が最初、「調査官」に届けられる。最高裁調査官は、地裁や高裁で判事を経験した現職の裁判官だ。

 事件を担当したのは、刑事部門の渡部保夫上席調査官。東京地裁、札幌地裁・高裁などで判事を務め、多くの無罪判決を出したことで知られていた。裁判記録を読んでいた渡部氏はある日、同僚の木谷明調査官に話しかけた。

「木谷さん、この事件は有罪ですよ。もし無罪だったら、私は首を差し出します」。さらに、みそ漬けの5点の衣類についてこうも言った。「警察が、こんな大がかりな捏造(ねつぞう)をすると思いますか」。渡部氏は調査報告書を書き上げると、判決文の草案を付けて第2小法廷の裁判官に届けた。

 1980年11月19日、最高裁第2小法廷(宮崎梧一裁判長)は上告を棄却した。14年余をかけた無実の訴えは数行の判決文で退けられ、死刑判決が確定した。

 渡部氏は退官後、北海道大教授に就き、誤判防止について積極的に発言した。著書「刑事裁判ものがたり」には、最高裁の使命として「無罪の疑いが強いのに有罪にされた」ような場合には「是正することが要請される」と書かれている。

 裁判官時代に30件以上の無罪判決を下した弁護士の木谷さんは、さんざん迷った末に渡部氏とのやりとりを明らかにした。「渡部さんのような人権派の裁判官でも、時にはとんでもない誤りを犯すことを知ってもらいたかった」

・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

そもそも日本の刑事司法は、詐欺


上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・・・

日本独自の奇習「最良証拠主義」


・・・・中略・・・・・

疑似共同体「絆社会」日本以外の近代民主主義を標榜する国家では検察・警察が被告側に有利な証拠類を開示しなかった事実が発覚した段階で自動的に無罪釈放になる。もちろん証拠類の隠蔽に加担した公務員(検察官や警察官)は懲戒免職処分は免れないのである。

しかし

我がガラパゴス日本では被告側に不利な証拠だけで裁判するので刑事裁判の99・9%が有罪になり、世界一の平和で安全な社会が出来上がっていたのですから「素晴らしい」ともいえるが、一方では間違いなく一定の確率で無辜の被害者が厳罰になる「冤罪」も生まれます

のですから恐ろしい。まさに「最良証拠主義」日本の光と影である。

刑事裁判で有罪証拠だけなら→必ず有罪判決しか出ない

高偏差値の知的エリート(メディアを代表する有識者)である青木理は
民主主義社会では検察警察が無罪の証拠を隠す日本国独自の最良証拠主義は、即「重大な犯罪行為」
とみなされるとのグローバルスタンダートを知らないはずがないのである。
今回のオピニオン記事「冤罪の反復」云々に書いている文言自体は少しも間違っていないが、「世界基準」と言うか大人の一般常識を知らないふりで、曖昧に誤魔化す態度が不真面目である。自分が叩かれるのが死ぬほど怖い心底ヘタレの青木理は誰に(あるいは何に)遠慮しているのだろうか?実に腹立たしい(卑劣で卑怯な)アリバイ作りである(★注、生まれた限りは必ず死ぬので今更怖がっても仕方がない。無駄な努力。そもそもが見苦しい「悪あがき」なのである)

・・・・・・・・・中略・・・・

『まさに「権力犯罪」そのものの最良証拠主義』

被害者からは犯人のDNAが検出されていた。ところが、被告とは別人だったので検察当局は無罪の評決を恐れ、裁判には提出されなかったので無期懲役の判決になったのである。
★注、
巨大なガラパゴス島である我が日本国では、世界の常識とは大違い、検察当局は捜査で集まった膨大な証拠類の内で有罪につながるものだけを選別して裁判所に提出する『最良証拠主義』(優良 証拠制)なる摩訶不思議な怖ろしい制度が存在し、
(無罪の証拠はすべて握りつぶし、有罪の心象だけ厳選して提出するので)刑事裁判で起訴されたら99・9%有罪になるように出来ていた。
いくら無罪でも日本では(目を付けたら最後で)『一人も逃がさない』のですから怖ろしい。

基本的に国民主権の民主主義とは無縁で無茶苦茶なのである。

・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり{太字は編者の加工}

刑事裁判で有罪証拠だけなら→必ず有罪判決しか出ない

(無罪の証拠はすべて握りつぶし、有罪の心象だけ厳選して提出するので)刑事裁判で起訴されたら99・9%有罪になるように出来ていた。

これを裁判ということが、日本国~天皇の最大の詐欺の一つなのです。

ていうか「上官の命令責任」を理解できる知能を持っていると、司法関係に就労できません。

てなると、当然に「詐欺」を裁判というようなカルト国家になるのです。


これも天皇陛下のおかげです。

まあ、日本人などいう人間は、地球には存在しません。

日本人とかいう家畜が、日本列島で人間型で生きているのです。

日本人を人間に取り戻す。

天皇から 日本人と日本を取り戻す

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?