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これが日本の象徴。嘘つき・無責任・無慈悲。まさに今の日本そのもの。



そのタイム誌に載った記事の翻訳を一つ

http://slicer93.mbsrv.net/10-10988.html  

上記文抜粋
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タイム誌に載った 裕仁天皇に関する5つの神話 

タカシ記

今年8月にタイム誌に載った昭和天皇に関する記事です。
http://time.com/3993973/emperor-hirohito-myths/


〔粗訳 by Takashi〕

この投稿はHistory News Network(歴史のニュースネットワーク)との 共同作業で作られました。

以下はHistory News Network のオリジナルな原稿です。

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神話 1: 裕仁天皇は神であった

1868年に日本の将軍制度が廃止された 後で、 南部の4つの藩である薩摩、長州、 佐賀と土佐は日本の天皇は神であるという 8世紀に作られた神話を再度推進することによって新しい政権の正当性を強調しようとしました。

そしてそれは二つの年代記である 古事記(古い記録:712年)と日本書記( 日本の年代記:710年)によって成されようとしました。

天皇の力は、1868年まで薄弱でした。

というのはそれまで権力は将軍にあったからです。

そのうえ日本帝国の家族は大部分があいまいで、しばしば相対的貧困の中で存在し続けたからです。

多くの場合、革命政権でよくあるように 、新しい国家のアイデンティティを正当化するために必要な、国の新たな軍事的支配者を祭り上げました。

幼児であった明治天皇は、 新政権の 名目上の首長として自己を正当化しました。

そして新政権は生神として 天皇を神として強調したのです。

日本の新政権は、新しい状態の学校教育制度に教示されているイデオロギー教化の中心として 生ける神として また新政権の 軍事的支配者として天皇の役割を強調しました。

日本軍は上記を強化するために武士道を 軍事プログラムとして採用しました。

したがって、将軍の打倒は、革命として は位置づけられず、明治維新として強調され反乱軍に正当性を与えたのです。


神話 2: 裕仁は 彼の部下の将軍によって戦争するように 強制されただけである。

太平洋戦争が終結してから約9ヶ月後の1946年3月には、昭和天皇が戦争の彼の役割について 証言しました。

奇妙な場面なのですが、昭和天皇は、 シングルベッドの上で最高級の柔らかい綿の枕の上に純白のパジャマを着て横たわっていました。

8時間に及ぶ証言の中で、昭和天皇裕仁は独白録 (皇帝の独り言:彼の戦後証)、の中で 彼は戦争の責任は自分には無いと証言しました。

彼の主張によると戦争は軍部が行ったことで 自分は、単なる立憲上の君主にすぎず、戦争は全て軍部によって実施されたものであると証言しました。

裕仁の証言では〔私は事実上の囚人同然で、無力でした〕

これはウソでした。

協定によって裕仁は、憲法上の君主として 行動しました。

明治憲法は彼に絶対力を付与したのです。

つまり彼は 神として祭り上げられたのです。

彼の統治時代に、彼が絶対力を行使した ことを示す三つの事例が発生しました。

1929に彼は国の総理を 強制辞任させました。

1936には、彼は 軍事顧問の 発言を却下しました。

それは1936年に起こった 2月26日事件(226事件)で 彼の軍事顧問の発言を却下して クーデターに加わった若い将校たちに極刑を下すように指示したことです。

そして1945年の8月には 最終的に彼の顧問団の忠告を破棄して 日本の敗戦を主張しました。

裕仁は1930年代には日本軍部の 冒険主義を阻止する 力を持っていました。

しかし、持っていてもそれを実行しようとは しませんでした。

彼の前補佐官であった海軍中将の 平田昇は以下のように推測しています。

天皇が終戦の時にしたことを わたしたちは、彼の即位の始めから してもらえたかもしれない。

神話 3: 裕仁は海洋軟体動物だけに 興味がある平和を愛する科学者であった。

太平洋戦争の後で、皇室同様マッカーサー将軍 の宣伝機関は世界の人々に 天皇は平和愛好家の科学者であるというすり込みを超速で 開始しました。

彼の主なる興味は、単生淡水性ヒドロ虫 と微視的なクラゲの研究であるというのです。

裕仁は 実際、熱心な紳士的な科学者です。

しかし彼は軍事活動の細目に興味を持つ 若者でもあるのです。

彼は東京の皇居の地下に設けられた 戦争部屋を持っていて、 そこで彼は日本の軍事活動を詳細に追跡できるのです。

軍事的権力トップでさえ 天皇のもっている軍事情報を更新するのに必要なレベルの情報を天皇に提供するのに不足なのです。

戦争中、彼は主に 軍服を着ていました。


そして軍が大きな戦果をあげると 真っ白な軍馬にまたがり皇居の前でパレードをしてお祝いしました。


連合国がそれらを入手する前に天皇の宮中の書類が破棄されましたが、 その時は、日本の戦況が悪化したことは 当時の情報から明らかでした。


そして情報によると彼は彼に対する軍部の批判にますます甲高くなり、そして彼自身の戦略的な提案を執拗に実施するように主張していることを示していました。

神話 4: 裕仁は中国の南京虐殺に ついての情報を知らなかった。

南京虐殺は日本の新聞で 広く取り上げれていました。

新聞は、ほとんどの中国人の首を だれが一番たくさん切り落とすことが できたかという血なまぐさい競争 についても詳述していました。

裕仁はこれらの報告を知らなかったはずがありません。

というのは彼自身の家族も 中国での残虐行為に密接に関与していたからです。

彼自身の叔父の朝香の宮は 南京で部隊を指揮していました。

その褒美として裕仁は朝香の宮に 一対の銀の壺を贈っています。

そして二人は、定期的にゴルフを していました。

2000万人~3000万人の 中国人を虐殺したケースでも、 天皇の関係者の陸軍元帥カニンは ガスの使用を許可しました。

裕仁の一番下の弟の三笠宮殿下は 満州の731部隊を訪問さえしています。

そこでは中国人や西洋人に対して生きたままの生体解剖や 他の実験が行われました。

証明はされていませんが、 詮索好きの裕仁が 彼の親戚から日本軍がやっていることに 対するそれらの情報を 知らされていないというのはありえない 話です。

裕仁同様に全ての皇族は東京戦争裁判で 訴追を免れています。

神話 5: 裕仁は 太平洋戦争の日本の戦争犯罪について 謝った。

裕仁天皇はパールハーバー攻撃 を含む日本の戦争犯罪にたいして公式に 謝罪したと様々な場面で報告されています。

推定するとマッカーサーは 東京戦争犯罪者裁判 の判決を守るために これをすることを許可しないようです。

しかし裕仁がアジアや米国にたいして 謝罪したいなら、彼は国際的なプレス機関に 対して謝罪の文書を提出したでしょう。

1975年には, 「戦争犯罪」に対して 質問されて、 裕仁は「わたしは質問文書を調べていないので そういう質問にはお答えできません」と 答えています。

それは日本の学校や大学で教えられる 日本の戦後の戦争史観を十分に反影しているあいまい史観です。


フランシス パイク(Francis Pike)は 歴史家で、ジャーナリストで、 アジア経済、政治、歴史の専門家です。

彼は「戦争帝国」の著者です。

又「第二次世界大戦後の近代アジアの 短編歴史」(刊2009)の著者です。

彼の最新の本は「裕仁の戦争、太平洋戦争 (1941-1945) (刊Bloomsbury Academic, 2015).

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抜粋終わり


まさに、嘘つき・だまし・無慈悲・無責任。

今の日本人のそのものだよね。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す


天皇を殺しつくして 日本晴れ



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