民を守らないと、チベット仏教でも、共産主義にすら負ける。天皇など糞ゴミだな。



チベット仏教は、「庶民を守る」て、思想が脆弱だった。


一応、ダライラマ十三世は改革を志したそうだが、長くの弊風と、ダライラマ体制に巣食う権門の前では無力だった。


個人の救済としたら、チベット仏教よりも遥かに陳腐でバカバカしい「共産主義」に、それが原因で負けて「ダライマラ」が海外に行くしかなった。


社会で人を食わせる・・てのに一応焦点を当てた共産主義にすら、権門の利権とメンツに呪縛されたチベット仏教体制は、まったく無力だったのだ。


慈悲とか言いながら、現実に人を活かさないと、そんなものは「虚妄」か「無力」である。



チベット仏教よりもはるかに低級な「天皇制」が、消滅するなり、日本人を巻き込んで心中するのは、当然の結末なのである。



左伝にいう

祭祀は人のために行うものであり、民は神の祀り手である。人を犠牲に用いても、それを受ける神がいるだろうか。

いくら「チベット仏教」とはいえ、祀り手の民・人間を虐待したら、仏も神も、ダライラマとその体制を守るはずもない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?