立原道造・ヒヤシンスハウス~詩人が夢見た小屋~

1、立原道造とヒヤシンスハウス
立原道造は『萱草に寄す』(わすれなぐさによす)など数多くの詩作で著名であるが、建築家としての属性があることは世にあまり知られていない。
立原道造は、1914年(大正3年)に生まれ、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、石本建築事務所(石本喜久治・分離派建築会)に入所するも、1939年(昭和14年)満24歳で結核で没する。東京帝国大学在学中、岸田日出刀研究室に属し、建築の奨励賞である辰野金吾賞を3度受賞したが、一年下の丹下健三が1度しか受賞していないことからもわかるように、将来を大変嘱望されていた。
彼の設計による建築物は一つもないとも言われるが、浦和別所沼に構想していた「ヒヤシンスハウス」の図面が残っていたことから、構想後60年、2004年(平成16年)に有志の手により実現することとなったのである。

2,芸術家コロニイと別所沼・ヒヤシンスハウス

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立原道造は、別所沼周辺に芸術家村(芸術家コロニイとも)のようなものをイメージしていたとされる。そもそも立原の考える「芸術家村」とはどのようなものであるのか、彼の卒業研究の[「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」付言]によると、

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本計画は 浅間山麓に 夢見た ひとつの建築的幻想である。
優れた芸術家が集まって、そこにひとつのコロニィを作り、この世の凡てのわづらひから高く遠く生活する、…中略…芸術家の一人としての建築家の立場から私にその計画は幻想され、乾燥した火山地方の高原にその夢は結晶した。…中略…それはただ気候の美しい土地に、建築家としての夢が織り成した美しい幾つかの建築の群とならねばならない。…

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とある。彼の言によれば、芸術家コロニイは、①美しい土地に②建築群として存在していなければならないが、別所沼周辺はその条件に合ったものであったのか。
当時の別所沼は、現在の別所沼と異なり、葦の生い茂る「沼」と言った風情であり、卒業設計の構想地となった浅間山麓とは異なり①の要素を見出すことは困難である。しかし、②の要素を満たす芸術家達は別所沼周辺に移り住んでいたことで知られる。
1923年(大正12年)に首都圏を襲った関東大震災によって、文化人・芸術家たちは、旧浦和市の別所沼周辺に移り住み、特に画家が多く居住し、互いに交友関係があったしたことから、「浦和アトリエ村」と呼ばれるような地区が生まれた。立原道造は、それら芸術家たちとの交流があり、卒業設計で実現んできなかった夢をヒヤシンスハウスに込めていたことが容易に想像できるのである。

3,立原道造の自然観
なぜ立原道造は、「芸術家コロニイ」や「ヒヤシンスハウス」のような芸術との関係が深い計画を好んで行なったのであろうか。
建築家が何を目指して設計をするのかは、外観パースに端的に表れる。それでは、立原の描く外観パースとはいかなるものであったか。
立原の場合、必ずと言っていいほど周辺の植栽が描かれ、ときに周辺の樹木が建物本体を隠し(「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」)、ときに背景の山が主役となり肝心の計画している建物がぼやけ、しかも中心から外れることすらある(「浅間山麓の小学校」)。
詩人でもあった立原の計画する建築は、外観パースから推測できるように、建物自体は主役ではなく、全体の一部であるかのような位置付けをするのである。これは立原の詩と無関係ではあるまい。立原の詩は、基本的には叙情詩ではあろうが、多くは投げ散らかしたような自然の描写である。光・空・草・花・風・水・星・鳥・・・。それら自然描写の単語には多くの場合限定的な意味での修飾語を持たない。立原の自然観が端的に表れている詩の例として次のようなものを挙げることができる。

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ひとり林に……

だれも 見てゐいないのに
咲いてゐる 花と花
だれも きいてゐないのに
啼いてゐる 鳥と鳥

通りおくれた雲が 梢の
空たかく ながされて行く
青い青いあそこには 風が
さやさや すぎるのだらう

草の葉には 草の葉のかげ
うごかないそれの ふかみには
てんたうむしが ねむつてゐる

うたふやうな沈黙に ひたり
私の胸は 溢れる泉! かたく
脈打つひびきが時を すすめる
(「コギト」1937年3月号初出・ソネット)

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立原は、自分というフィルターを通さずに、自然界にあるものをそのまま抗うことなく受け入れ描写するのである。その中で立原自身は描写の中心にいないばかりでなく、存在も希薄である。立原の自然観とはこのようなものなのである。
このような自然観をもつがゆえに、立原は、建築にあってもその構想は建物自体に留まらず、たとえば周辺の樹木も背景となる周辺の山々もそのままの形で受け入れ描写しないではいられないのではないだろうか。
そうであるならば、抗うことなく認識した広範な空間もまた、立原の建築計画の重要な部分として位置付けられるべきものと考える。
ただ、立原の場合、その詩から読み取れるのと同様に、肝心の建物がぼやけ、中心から外れるのである。立原の建築は計画の中心に建物は存在しないのではないか。

4,立原の自然観のヒヤシンスハウスにおける表れ
このような立原の自然観からヒヤシンスハウス構想を改めて見直すと、ヒヤシンスハウス構想の認識する範囲は、ヒヤシンスハウス本体に留まらず、別所沼全体に及ぶのではないだろうか。
詩ではないが、鉛筆・ネクタイ・窓という小文が残っている。この小文はヒヤシンスハウスを描いたものであるとされるものである。

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僕は、窓がひとつ欲しい。
あまり大きくてはいけない。 そして外に鎧戸、内にレ  ースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。 窓台は大きい方がいいだらう。 窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。
そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。 湖水のほとりにはポプラがある。 お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。 湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。
僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。 タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。
僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……
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ここから分かるように、立原は、「窓」の機能として、「そこから何が見えるのか」という点を見出していることがわかる。かかる認識に至るのは、前述のような立原の自然観の裏付けがあってのことであると考えるのである。
もっともヒヤシンスハウスの窓は小さな出窓だけではなく、日本の伝統木造を感じさせる二方向窓や、モダニズムを感じさせる横並びの窓もあり、いずれも印象的である。


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5、プランから読み解くことのできる建築計画

上記のように立原の空間認識は、別所沼全体に及ぶのであるが、さらにヒヤシンスハウスの場合、その根底において芸術家コロニイ構想があることは既に述べた。その構想が具体的なプランに表れていることは非常に興味深いものがある。

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ヒヤシンスハウスはその平面図からわかるように、「厨房」という住宅として不可欠な機能が欠落している。「厨房」を不要と考える建築計画とは一体どのようなものであるか。
確かに近隣の飲食店を利用すれば生活に困るわけではない。別所沼は浦和駅から徒歩約20分ほどであり、食事を取ろうとしたら浦和駅周辺や、かつて旧中仙道沿いも宿場町・市場町・門前町として栄えた歴史があり、少なからず飲食店が利用できたはずである。
しかしながら、私にはあえて「厨房」を設けず、単体で機能的に自立できないことには積極的な意味があると考える。それを読み解くキーは、ヒヤシンスハウス脇に立てられる一本のポールとのぼり旗である。

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ヒヤシンスハウスの脇には、家主たる立原道造の来訪を伝えるのぼり旗を上げるポールが立てられる。日本橋の自室から東北本線に乗り浦和駅で降車して20分、立原はまず周辺に住む友人たちに自分がヒヤシンスハウスに来たことを知らせるのである。無類の筆まめな立原は、恐らくヒヤシンスハウスにて週末を過ごすことを友人たちに知らせてあるのであろう。周辺に住む友人たちは、ポールにのぼり旗が上がることを時々気にしながら立原の来訪を楽しみにして待っているはずである。
立原の方から友人宅に突然の来訪をすることはない。友人の方から気の向くままヒヤシンスハウスに訪れるのである。そこで小一時間ほど芸術を語りあい、友人の多くは画家であろうから、自分の絵を見ないかと立原を自宅に誘うのである。そうなればしめたもの。立原は労せずして、その日の食事にありつくことになる。場合によっては銭湯に行くことなく、内風呂の世話にもなったことであろう。
全く勝手な想像ではあったが、大方このような過ごし方が企図されているものとみて間違いない。
すなわち、単体として生活上の機能を完結させないことに意味があるのである。それはまるで、ジグソーパズルのピースのように、しかるべき場所にあてはめてこそ意味を持つ存在であるかのようである。
「母屋」と「離れ」という建築構成がある。両者の関係性においては友人宅とヒヤシンスハウスの関係はそれに近い。しかしながら、立原の企図している母屋は、浦和アトリエ村という、母屋群なのである。言うなれば、浦和の芸術家たちとの間に個人的レベルでの「ハブ」として機能すべく構想された小屋なのである。
浦和の芸術家たちとの間に個人的レベルでのハブとして機能すべく構想された小屋なのである。

6、現在の別所沼とヒヤシンスハウス

立原道造がヒヤシンスハウスを構想した別所沼と現在の別所沼とはほぼ別のものであると言ってよいほどのものである。
かつての別所沼は、葦の鬱蒼と生い茂る、いかにも「沼」と言った風情の場所であった。これに対し、現在非常に高くそびえ立つラクウショウ、メタセコイアなど800本以上の高木は、樹齢60年程度である。沼自身もよく整備され「沼」という名称よりは、「湖」という雰囲気に近く、北欧の美しい山野を思い起こさせる有り様である。
沼の有り様同様、肝心の浦和アトリエ村は今は存在しておらず、地域の人々にとっては著名な画家が住む場所としての認識もない。
芸術家の友たちと過ごすべく計画されたヒヤシンスハウスは、もはやそれを建てるべき必然性はなくなってしまったのである。「ヒヤシンスハウスをつくる会」による「詩人の夢の承継事業(ヒヤシンスハウス)」により浮かび上がる、同プロジェクトと別所沼の現在の「場所性」には大きな不整合性が横たわるのである。
ヒヤシンスハウスの実現は、かつての歴史的遺構の復元ではなく、下手をしたら底の浅いテーマパークのように気恥ずかしいまがい物、あるいは歴史の偽造と捉えられ世間の批判を浴びる可能性もあるリスクの高い事業であったと思われる。
しかしながら、多くの議論を経てヒヤシンスハウスは立原道造没後60年経って、本当に実現してしまうのである。
そして実際に立つと、驚くべきことに、何十年も前からそこに立っていたかのように、何の違和感なく現在の別所沼と馴染んでしまっているのである。むしろ過去の別所沼よりも現在の別所沼の方が、立原道造の心を寄せる北欧の雰囲気を湛えているだけに、ヒヤシンスハウスが立つに相応しいとさえ感じられるのである。


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