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深夜ラジオは、偏見に溢れるくらいがちょうど良い。

まだまだアラサーの私が言うのはおかしいかもしれないが、昔のテレビは凄かった。何が凄いかって、コンプラ意識が地ほどに低かったのだ。

めっちゃくちゃ記憶に残っているのは、親父と見ていたスーパーJOCKEYの熱湯コマーシャル。放送期間を調べたところ、生後〜幼稚園くらいの年齢のはずなのだが、水着の美女たちが色々なことをする様子に「何だこれめっちゃエロいな」と目を輝かせて見ていたように思う。今にして思えば、息子にあのお下劣な番組を見せていた我が両親も、コンプラ意識が欠落していたのであろう(ありがとう父母)。

今はドラマですら、強盗犯がシートベルトをしていないとクレームが入る時代だ。「この後、スタッフが美味しくいただかない」と納得しない視聴者に配慮をして、本来不要な情報をテロップに出さなきゃいけないのだ。良くも悪くも、面白さより健全さが重要視される風潮が強くなったと感じる。

そんな中、これまで無法地帯と化していた深夜ラジオですら、コンプラ意識が問われ始めている。ナイナイ岡村の風俗発言炎上しかり、霜降り粗品の熱海発言炎上しかり、アルピーのファルコン騒動しかり、問題のある発言はネットニュースに取り上げられ、多数の人々から指摘を受けて、後日謝罪をするに至っているのだ。

確かにこれらは、社会的に問題のある発言と言えよう。人によっては胸を痛めると思うし、後世に伝聞していくのは躊躇われる思想だ。
その上で、この状況について一言だけ申したい。


叩いてる奴ら、どうせ誰も深夜ラジオ聴いてないやろ!!!!


汚らしい言葉を記載したことは不適切であろう。しかし、しかしだ。深夜ラジオは元々、有意義で価値ある発信などではなく、偏見に溢れているのである。

テレビと比較してラジオは、映像が使えない分コンテンツとしての魅力が少なく、視聴率に歴然とした差がある。小学生の時、「水10」や「エンタの神様」でクラスが賑わうことがあっても、「くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン」の話題が挙がったことなんて一度だってなかった。共通認識として知るべきコンテンツはいつだってテレビで、ラジオにmajorityの要素は求められないのである。

いわゆる陽キャは”共通認識”のテレビを楽しむ一方、友人の少ない陰キャは、段々とラジオを嗜むようになるのだ。理由は様々で、テレビの大衆に向けた感覚が合わなかったり、陽キャの楽しむコンテンツを無意識に避けたり、同族に惹かれて集まったりと、多種多様な背景がある。ただ結果として陰キャが集まっているのだから、ラジオの楽しみ方はテレビとは異なってくる。クラスの真ん中で、明るく可愛らしい女子も混ざってする「みんなが楽しい」会話とは違って、クラスの隅っこで2-3人でする「自分が楽しい」会話、個性を隠さず偏見に溢れる人間性が垣間見える、それがラジオの楽しみ方であり、屋台骨なのである。

例えば、クラス全体に向けて大々的に偏見を公開していたら、大バッシングを喰らって当然であろう。偏見を耳にすることを”強制する”のは、嫌悪感を持つ人に対する冒涜だ。しかし、クラスの隅っこで、心を許した仲間内だけならどうだろう。嫌なら絡まなければいいし、好んで話を聞いているのだから、特に問題はないと思うのは私だけではないはずだ。しかも、仲間内で個性を包み隠さずOpenにする「よく見られよう」という気持ちが一切ない忖度ない喋りは、コンテンツとしての魅力を倍増させるのである。

それが近年、ファンだけがこっそり聴いていたラジオで、包み隠さず明かした偏見の一部がネットニュースで拡散され、”普段全く耳にしない視聴者”が「不快になった」と炎上させる状況が目立つ。まるで、クラスの隅で小声で話す会話にスピーカーをつけて、たまたまそれを耳にした陽キャたちが、その場限りの感情で陰キャを袋叩きにしているようである。


もう一度述べるが、私が知る限り炎上した件はもれなく、社会的には間違った思想や失言ばかりだし、ネットニュースを目にしたことで嫌な思いをした人は多いだろう。後世に伝聞していい内容では到底ない。
だが、世界に発信しているとはいえ、たかがラジオである。眠い目を擦って、普段聞かないラジオやラジオアプリを使わなければ聴けないのがラジオというコンテンツなのに、本当に「社会的に正しくない」発言を淘汰しなくてはいけないのだろうか。コンプラ意識を強く持って袋叩きにすることによって、深夜ラジオ特有の「偏見による面白さ」がなくなってしまうのではないかという強い懸念を、どうしても捨て去ることはできない。

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