コムギのいた生活13 -日陰の予感-
8月になりコムギは8歳の誕生日を迎えた。
僕たちは今までに無い感慨を持ってその日を噛み締めた。
腫瘍発覚後に歳を重ねた日を一緒に過ごしていられることを。
むせ返るような草木の香りに満ち溢れた院内の木々は夏の朝の日差しを浴びてその色をより一層輝かせていた。
草むらに鼻を突っ込んで匂いを嗅いでいるコムギとその横を歩く彼女を追って僕はカートを押していた。
都内よりも蝉の鳴き声が強く響く。
放射線治療の二度めの経過検査のために隣県にある大学病院を訪れていた。
昨年に初めて訪れた時は院内の木々は紅葉で黄色く染まっていて、そして前回の経過検査では全ての葉が落ち冬枯れとなっていた。
大学病院に通うようになり季節が一巡りしようとしていた。
訪れる時は何故か天気の良い日が多い。
ただ、眩い日差しに照らされる草葉と強いコントラストをなしている日陰や、弾けるばかりに鳴く蝉の声が僅かに途絶える瞬間や、病院の窓の向こうの暗さに触れるとついその先に不安を見出してしまっていた。
近頃はソファーに敷いてあるシートや布団に血が滲んでいることが多くなっていた。
手術前のように大量の鼻血を出すことは無いのだが、腫瘍が完全に無くなっている、もしくは前回検査時の小さな状態を維持している、といった僕たちが期待するような結果を得るのは難しいのかもしれないと薄々感じていた。
受付を済まして広い待合室に入るとたちまちにこの病院が纏う独特な厳かな清涼感に包まれる。
訪れる度に座る内庭に面した大きな窓際の席が空いていたので腰をおろした。
目前の四角く縁取られた光景にも外と同じ時間が流れていた。
木々の葉に遮られながらも緑色を帯びた優しい光が院内に入り込む。
席に着きしばらくすると名を呼ばれて診察室に入った。
診察室で待っていたO先生は変わらず朗らかで夏の日差しに負けないくらいの笑顔で迎えてくれた。
「お久しぶりです!コムギちゃんの様子はその後如何ですか?」
「元気ではあるんですが先月くらいからたまに少し鼻血が出てますね。」
僕は不安を隠しきれないまま答えた。
「そうですか、もしかしたらまた少し大きくなってしまってるかもしれないですね。」
気のせいかもしれないが先生の表情が少し曇ったように感じた。
「ではCT撮影をするのでコムギちゃんをお預かりしますね。今日はちょっと予約が多くて少し時間がかかってしまうのでまた昼過ぎに待合室にお越しください。終わりましたらお声がけしますね。」
いつもと同じく従順に先生に連れられていくコムギを見送った。
病院を離れて駅前の飲食店が連なる商店街に来ていた。
昼食をとる店を探していているのだが診察結果ばかりが気になり、食べたいものも浮かばなく美味しいものを食べたいという欲求も湧かないため普段は入らないファミレスに入った。
昼時まではまだ時間があったためか店内の客はまばらだった。
案内された席はふたりでは持て余してしまうような大きなL字型のソファーで遠慮気味に腰を降ろす。
メニューを見てもどうにも食べたいものが決まらず一番目についたランチセットを頼んだ。
すぐに出てきたランチセットは鉄板こそ熱いのだがハンバーグやチキンに火が通ってなくて美味しくはなかった。
彼女が選んだメニューも美味しくはなかったようで黙々と食べていた。
隣の席では祖母とまだ小学校に通う前と思われる女の子が座っていた。
祖母は何も食べずに女の子がアイスクリームを食べる様をただ見ていた。
彼女たちの関係性も何も分かりやしなかったのだが、勝手に今の心境を投影して物悲しいストーリを勝手に作り出してしまう自分がいた。
診察の時間まで僕たちは言葉数少なくファミレスで過ごして病院に戻った。
診察室に入るとO先生が座って待っていた。
こちらを向き笑顔で挨拶してくれる先生の表情から少しでも検査結果の兆候を読み解こうと試みたのだが何も読み取ることができなかった。
僕たちが座ると先生はモニタに映したCT画像を見ながら言った。
「残念ながら腫瘍がまた大きくなってしまっています。」
体に力が入り息をグッと呑み込む。
先生はそう言うやいなや続けて放射線手術前に撮影したCT画像を表示させた。
「こちらの去年の12月の手術前に撮影したCT画像と同じくらいの大きさになってしまっています。」
表示されたどちらの画像も右側の鼻腔が白く埋め尽くされていた。
吸い込んだ息を吐き出すことも忘れてしまう。
衝撃的だった。
小さい状態を保ててはいないかもしれないとは思っていたが術前と同じ大きさにまでなっているとは考えてもいなかった。
大きく息を吐き出し震える唇を抑えながら言った。
「抗癌剤が効いていないんでしょうか?」
「もし全く効いていないのであればもっと進行が進んでいてもおかしくは無いので効いてはいると思います。」
「ただ、効果には個体差がありますのでコムギちゃんの場合は完全に抑えるのは難しいのかもしれません。」
先生の顔からいつもの笑顔は消えていた。心苦しく感じているようにも見えた。
僕たちは黙り込んでしまった。
先生は僕たちがどんな答えを出すのか見守っていた。
これ以上に腫瘍が大きくなってしまったらコムギは一体どうなってしまうんだろう。
恐ろしくて仕方が無く、その一念ばかりが脳内をまとわり付く。
「もう一回放射線照射をしたら効果は出るものですか?」
しばらくの沈黙を破り僕は聞いた。
「再度照射をすることによってより効果が出ることも可能性としてはあります。」
「ただ」
「コムギちゃんの身体への負担を考えて二度目の照射は根治では無くて緩和治療をお勧めします。」
緩和。
治す前提では無い死を先延ばしにする治療。
コムギの癌を消去することはもう出来ないのだということを眼前に突きつけられた。
「それと」
先生が少し微笑みながら優しく諭すように言った。
「コムギちゃんが受けるストレスを考えてこの先を静かに見守るという選択肢もあるかなと思ってます。」
目の前を薄く白い絹を掛けられた様に靄がかかり先生の笑顔が遠のいていった。
治療を諦めて見守るという選択肢を現実的に考えたことがなかった。
不幸がいくつか重なった先のまだ遠い未来の話だと考えていた。
そのような朧げだった未来が現実のものになりつつあることを自覚することができなかった。
確かにコムギは何よりも家で僕たちと過ごすことを好んでいるし、遠く県を跨いで病院に来ることはストレスであろう。
でも、コムギはまだ8歳になったばかりだ。
この先も一緒にいることが当たり前だと思っていた。
どうしてもまだ諦めることはできなかった。
「緩和でももう一度照射をしてもらおうと思うってるけどどうだろう?」
僕は彼女に聞いた。
蒼白な顔をこちらに向けて彼女も同意した。
「では、緩和での照射をお願いします。」
麻酔から目覚めたコムギが待合室に連れられて来た。
僕たちの姿を一眼見るや否や病院の出口へと向かおうとしていた。
もう帰るよと急かすように。
速るコムギをなだめながら会計を済まして病院を出た。
これから3週間に渡り週に3回づつ照射をすることになった。
根治治療では平日は毎日続けて照射するため入院の必要があったが、今回は照射が終われば家に連れて帰ることができる。
「もう、入院をすることはないからね。1人にはさせないから。」
草に鼻を突っ込んで匂いを嗅いでいるコムギを見つめながら呟いた。
午後になり陽の光はますます強くなって蝉の鳴き声がこだまする木々を照らしつける。
空には入道雲が浮かんでいた。
その姿は儚くて、そのうちに訪れるであろう夏の終わりを感じさせた。
(続く)
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