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コムギのいた生活12 -兆候-

春が過ぎ5月を迎えて日差しにも初夏の予感が漂い始めた。
隙間風が何処からとなく入り込む古い一軒家に住む僕たちはこの時期になってやっとコタツを片付ける。
冬眠時の籠り部屋を失ったコムギは新たな定住先を求め流浪し、やがて窓際の庭に面した陽だまりが注ぐ絨毯の上に落ち着き心地良さげに微睡む。
当初の想像を遥かに超えて猛威を振るっていたコロナがそれまでの日常を次々とひっくり返していた。
例年であれば大いに賑わうはずのGWに初の緊急事態宣言が発令されて世間が騒然となるなか、僕たちはコムギと静かに家で過ごしていた。
腫瘍科の先生が来診する火曜日に3週間の間隔を空けて病院に通っては生中球の値を調べる血液検査を受けて抗癌剤を処方してもらい、2日に一回与える日々を繰り返していた。
2月の経過検査で腫瘍がかなり小さくなっていることが分かって以降、コロナの影響で単調な日々ではあったが平穏な日々を過ごしていた。
ひょっとしたらお別れなのかもしれないとも覚悟もしていたが、まだまだコムギと一緒に暮らしていけるという一事が僕たちをひたすら前向きにさせてくれていた。
術後間も無くは元気がなくて寝ているばかりだったが、近頃はすっかり元気が戻りコムギとしては何もなかったように以前と同じような日々を過ごしていた。
放射線照射の副反応で毛が抜けて地肌が剥き出しになっていたマズルにも以前とは違う白い毛ではあったが生えてきて元に戻っていた。
ただこの頃からコムギがたまにご飯を食べないことがあった。
1日も経てばまた食べるようになるのだが、その食べれなくなるのと同じくらいの頻度で下痢もするようになった。
生中球の数値自体は安定していたのだが抗癌剤の副反応が出始めていた。
それでも僕たちはせっかく小さくなった腫瘍がまた大きくなることを考えると怖くて薬を止めることはできなかった。
ご飯を食べれない姿や下痢をする姿を心配に見守りながらも8月の二度めの経過検査で抗癌剤が効いて腫瘍が消滅しているか現状の大きさを維持できていることを期待するしか無かった。




この頃に仕事を辞めた彼女が、その余りある時間を使ってコムギ用の雨ガッパを作っていた。
青い水玉の入った防水性の白い生地を買ってきて、側から見ると抱き締めているのか区別がつかない様相で採寸をしては楽しそうにミシンを動かしていた。
出来上がったカッパは丹念な採寸が功を奏したのかサイズはぴったりで袖に手を(脚?)を通したコムギの姿はとても可愛いらしかった。
水玉の入った白い上部に対して後部は僕たちの好きな色であるターコイズブルー色のスカートとなっていて身に纏ったその姿は往年のハリウッド女優を彷彿とさせるような仕上がりだった。
毎日2回必ず散歩に行く僕たちにとって梅雨の時期はどうしても憂鬱になってしまうのだが、このカッパをコムギに着せたいがために雨を歓迎するようにもなっていた。
メスにしては規格外の大きさであるコムギなのでコムギ愛フィルターを通さない他人が見かけたら朗らかな失笑を禁じ得ない姿ではあったかもしれないけど。
僕たちはコムギとの生活を楽しんでいた。





初の緊急事態宣言が解除されて街に少しづつ賑わいが戻るようになっても僕たちの静かな生活に変わりはなかった。
梅雨が明けて日差しがすっかり夏のものに変わると朝の散歩は早朝のまだ少し暗い時間に行くようになる。
早朝の散歩を終えるとコムギと一緒に二度寝をする。
病気以前と同じ夏の日々ではあるのだが、やはり以前とは違っていて、ご飯を食べることができなかったり下痢をしてしまう日がある。
心なしかその頻度も少しづつ増しているように感じられた。
薬を摂取しなければならない日とご飯を食べれない日が重なると大変だった。
薬を包んだチーズだけでも食べてもらおうとするのだが拒否をされてしまう。
そのようなことを繰り返しているうちに大好きであったチーズを敬遠するようになってしまっていた。
チーズに何か嫌なものが入っているんでしょ、と言わんばかりに。
焼肉で包んでみたり、チーズの代わりにさつまいものお菓子で包んでみたり、細かく砕いてみたりと毎度手を変え品を変えて何とか服用させていた。





経過検査を翌月に控えたある日、コムギが顎を乗せて眠っていた白いクッションについていた染みに赤いものが混じっているものを見つけた。
歯茎からとかどこか違う箇所からの出血かもしれないと思ってはみたものの、でもこの見覚えのある滲み方や、そして何よりも鼻腔内腫瘍に犯されているという厳然たる事実がその甘い現実逃避を許してくれなかった。
辛い思いをさせてまで飲ませている抗癌剤を持ってしても、もしかしたら腫瘍の進行を抑えることができていないのか、その疑念が芽生えるとこの静かで平穏な生活の終わりの一幕が脳裏を掠めた。


二度めの経過検査が迫っていた。

(続く)

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