#2 イノベーション
※先にこちらをお読みください。
■■■
朝の6時。
起きるのはいつもこの時間だ。
港区にあるオフィスまで片道で40分くらいかかるため、この起床時間が私にできる最大限の譲歩である。
眠気覚ましに軽くシャワーを浴びて、それから髪を乾かしてメイクをする。
服装はいくつかあるセットアップを着回すだけだから、特に時間をかけて選ぶ必要はない。
しかし、出社前に戦闘服に身を包むような気分になる。
これで、気が引き締まる上にどこか落ち着く。
通勤中は音楽ではなく、ラジオを聞くのが私のこだわり。
というのも、通勤時間が長いせいで、音楽だとどうしても飽きが来てしまうのだ。
その点、ラジオなら毎日新鮮な気分でパーソナリティの話を聞くことができ、それで気持ちもリセットされる。
自分が送ったメールが読まれたかどうか確認するのも、ラジオを聞く大事な理由だ。
こんな風にして、私の1日が始まる。
■■■
この会社に秘書として入社して、もう3年が経つ。
初めは、社内でセグウェイを乗り回して颯爽と埃を巻き上げる社長に激しく面食らったが、今となってはタイミングよく資料を渡すことなど造作もない。
遠くから聞こえてくるモーター音が、私の仕事開始の合図だ。
「社長、おはようございます。本日のスケジュールです。」
LINEマンガを開いたスマホを片手に、1度も止まることなく資料を受け取っていく社長。
「スマートなのかダサいのかよくわかんないや。」
そう思いながら頬を緩ませる。
今日は10時から会議だ。
あの部屋は掃除をしないのがこの会社の慣習。
これは社長のあまりに独特すぎる考え方に基づくものだ。
私が入社する前に社長がしていた話を聞いたことがある。
「掃除は議論の敵だ。日頃の汚れの蓄積が変化を表し、我々はその変化に敏感でなければならない。」とかなんとか。
「議論のための共通認識を、部屋の臭いから作る」みたいなことも言っていたらしい。
ちょっと何を言っているかわからない。
清潔な部屋で会議する方が、気が散らなくて集中できるんじゃないの?
私はハウスダストのアレルギーを持っている。
そのため、あの部屋へ行くとくしゃみと鼻水が止まらなくなる。
だから、あの部屋で会議に長時間出席するのは相当の体力と精神力を消費する。
だが、幸いにも、秘書の私は会議に出席する必要はないので、あの部屋に長く居座ることはない。
風通しの良さがこの会社の良いところだが、埃で空気を悪くするなんてあまりに滑稽だ。
私も今度の会議に出席して、会議室の掃除をイノベーションとして提案してみようかしら。
そんなくだらない事を考えていると、遠くからモーター音が近づいてくる。
今日の会議の資料を受け取りに来たのだろう。
そう思って渡す資料をまとめ、通路の端に立って待つ。
「社長、こちらが今日の会議の資料です。」
「ありがとう。でも悪いね。今日は私が新しい事業について説明をすることになったんだ。だから、これは次の会議の時にまた渡してくれ。」
「あ、わかりました。」
遠ざかるモーター音。
先週も同じことを言っていた。
しかし、モーター音のせいで司会の声が何一つ聞こえず、結局プレゼンのタイミングを完全に逃していたと別の部署の同僚に聞いた。
今日も同じことが起きなければいいけど。
■■■
そろそろ、先週の会議が終わった時間だ。
先週は社長のプレゼンがなくなったおかげで、かなり時間が巻いて終わっていた。
今日は会議室から人が出てくる気配がない。
社長がプレゼンまで上手く辿り着けたのだろう。
そう思っていると、突然社長だけが会議室から出てきた。
「社長!いかがされましたか!??」
「ああ、ちょっと埃がキツくて。」
一瞬言葉を失った。
それに続いて「掃除しないからでしょ。」という言葉を口にしそうになったが、何とか飲み込んだ。
「そうですか。ご自愛ください。」
必死に笑いをこらえながら放ったその一言は、我ながら100点満点ではないかと思う。
笑いを我慢している事に気づかれるとまずいので、軽くお辞儀をしてその場を急いで立ち去る。
後ろを向いた瞬間から緩む頬。
何とかトイレに駆け込むと、誰もいないのを確認して、はばからずに声を上げて笑った。
お腹が痛くて涙が出るほどに。
「イノベーションがどうとか言うなら、あの会議室をイノベーションするべきでしょ。 あ、それだとリノベーションになるか」
そう言えば、日本の大人気アニメがアメリカで実写化されることになったと誰かが言っていた。
港区でもハリウッドでも、イノベーションはどこでも起きているのだ。
「さて、そろそろ仕事に戻ろうかな。」
ひとしきり笑い終えると、何食わぬ顔でトイレから出て自分のデスクに向かった。
遠くの方では、相変わらずモーター音が鳴り響いている。
騒がしくも何気ない1日が、今日も過ぎる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?