この世界には海じゃない海も存在する
先日、自分が師事したニューヨークのドキュメンタリー監督、Manny Kirchheimer(マニー・キルヒハイマー)が亡くなったという連絡を受けた。享年93歳、最期まで映画をつくりつづけた末の大往生だった。
体調が優れないことは聞いていたので、こころの準備はできていたつもりだった。それでも、彼への愛おしさが後悔となってこころに押し寄せる。まだできたことがあったんじゃないか。もっと成長した自分を見せたかった。いつまでもこうして間に合わない。
渡米して学んだフィルムスクールの生徒と教員という形で出会ったので、気づけば20年以上の付き合いだった。日本に帰ってきてからはメールのやりとりくらいだったけれど、2021年と2022年の夏に彼の最後の映画制作に参加できたことは誇りとして胸に刻まれている。
Mannyを見送ったばかりであろう伴侶のGloriaにメールを書いた。
まずは「お悔やみ 英語」で検索して、「My deepest condolences.」と件名に書いた。そして、記憶を紐解いた。なぜそれを書いたのかわからなかったけれども、自分がずっと忘れずにいた想いを彼女にも知ってもらいたいと思った。
葬儀の準備で慌ただしいはずなのに、返信はすぐ届いた。
「Thank you for your heartfelt tribute to Manny.」と書いてあった。
訳すと「マニーへの心のこもったトリビュートをありがとう」。
「敬意や感謝の意を示すために贈られるもの、またはその行為自体を指す言葉」
「トリビュート」を辞書で引くとこう出てくる。それはたしかに言葉を説明しているが、その言葉が示す実体は自分で経験しなければ知ることはできない。
辞書や検索で「海」の情報を得ることはできるが、そこには水の冷たさや柔らかさも、打ち寄せる波の圧も飛沫も、潮風の匂いや肌触りも、ない。そして、それらの実態はシチュエーションによって変容しつづける。なにが・いつ・誰が(に)・どこで・なぜ・どのように。無限の可能性に晒されても自立する事象を、言葉にしていく。自分のからだやこころに根付いた言葉をひとつひとつ増やしていくことが、人として生きることの本質なのかもしれない。だから、この世界には海じゃない海も存在する。
僕の想いは、結果的にトリビュートだった。トリビュートだと知った。MannyとGloriaと僕とで分かち合った。こうして「トリビュート」は、大切な言葉になった。
メールに書いた文章の原文と日本語訳、ここに残します。忙しいだろうGloriaの時間を取らせないように手短かに書いたのか、表現力が至らなかったのか。自分でもわからないが、どちらにしろ自分らしい文章だったと思う。
2021年の夏、マニーと一緒に旅しながら映画をつくった記録は、短編ドキュメンタリーとして公開されています。彼がこの世界から旅立った今、記録を残すことの意味を考え直しています。彼が僕に与えてくれた言葉たちとともに生きていこう。
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