問題解決の先の文化

文化とは何となくいい響きだ。
文化的生活を送りたいし、文化人と呼ばれる人には何となく憧れる。
でも、文化ができる過程に目を向けてみると、そんな意識を抱く自分が少し不思議に思えてくる。

例えば、縄文文化は豊かなイメージがある。
火焔型土器に代表されるような文様豊かな土器。
土偶は何か不思議な力を感じるし、環濠集落は集団生活の表れのようで活気を感じる。
貝塚からは、豊かな食生活を想像できる。

しかし、これらは、いずれも問題解決の結果生まれた側面もあると考えられている。
縄文土器は、当時定住化・集住化によって、接する人の数と時間が増え、そのための自己表現の手段や、つながりを感じる手段であったとも言われている。
土偶は、これも定住化することで、食料を一定の領域内の植物や動物といった自然の再生に頼ることが増え、女性をかたどった土偶で、自然の再生を祈ったものだと言われている。
環濠集落は、壕を掘っているのは防御のためであり、守る必要がある資産が出来たことを意味する。
貝塚は、ゴミ捨て場の側面が大きく、定住によって、快適性の維持や衛生面から、ゴミの管理の必要性が出てきたということを意味する。

弥生時代の青銅器文化も、銅剣や銅鐸にはきらびやかな印象を持つが、それも、稲作という大規模労働を統治するための、祭祀(政治)的意味合いが大きい。

今を生きる私たちは、過去の文化を見て、それに豊かさを連想させるが、当時はもっとゴタゴタだったのだと思う。
いろいろ生じる問題を、一つ一つ解決していった結果、文化と呼ばれるものが出来上がったのではないだろうか。

そんな大変な問題解決の先にできた文化を、私たちが「いい」と思う理由が、少し不思議だ。
少しとげとげしい成り立ちだが、出来上がったものは、もう少し包容力とか落ち着くがある感じだからだ。
当時の人々が苦労の先に作った最適な解決策だから、時代を越えて、人間の琴線に触れるものになるのは必然だからだろうか。
いずれにしても、文化は創るのは大変だが、時代を越えて、人々に「いいよね」と思ってもらえるもののようだ。
一周回って、文化ってなんかいいよね。

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