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平和ダイアリー 2日目 意識のレベル

いま、久しぶりに自分の部屋に帰ってきたところ。けいごの匂いも、わたしの匂いも、部屋のにおいもなくて、透明な匂いがする。安心する。でもいつも通り綺麗だ。かばんの中身を定位置に戻して、椅子に座る。胃がつかれてる。舌もつかれてる。楽しかったな。叔父の四十九日で、親戚のみんな集まって、小さなとき、本当によく遊んだはとこと喋った。おばあちゃんの家に集合して、大人がみんな下の階でごはんを食べたり(いま思うと、大人チームはみんなで呑んでいたんだろうか??いいなー)、ママパパ同士でおしゃべりをしている間、わたしたちは2階の部屋で謎の遊びを繰り広げていた。なにか、紙とペンを使って、自分たちのゲームをつくって遊んでいた。謎解きゲームでもないし、なんだったんだろう。なんか、ストーリーをつくりあげていたのかもしれない。ファンタジーのような。。そんな、なぞの遊びに夢中になって、はとこの弟(昨日はいなかった)と一緒にカーテンにぐるぐる巻きになって隠れたり、お姉ちゃんたちを探したり、マリオパーティをしたよね、とか色々話た。懐かしくて、泣けた。本当に楽しかったんだもん。はとこが、「集まって最初の1時間とかは、なんかよそよそしかったよね」と言って、うわぁ懐かしい!!っていろんな感覚がフラッシュバックした。いつもお正月に会うから、1年くらい会わない期間があると、なんかよそよそしくなる。で、ちょっとずつ、ほんとは会えて興奮してることを遊びのなかで伝えあっていく。最後には、すっかり仲良くなって、本当にこの時間が終わらなければいいのに、って思ってた。帰るぞーの一声で、あともうちょっと、あともうちょっと現実に戻らないで遊びの世界にいたいよねって共有しあって遊び続けた。車から、手を振ってバイバイをして、その直後の気持ちを今でも覚えてる。キラキラした、あったかい、ほんとに楽しい思い出だ。そんなことを久々に話せた、とてもいい帰省だった。家には住民が誰もいないようで、静かだ。ママとパパがお土産に持たせてくれた、横浜ジョイナスの地下の韓国料理やさんで買ったトマトのキムチ、ナムル、ビール6本を冷蔵庫に入れて、今朝須軽谷の直売所で買ってくれたわんさか入った野菜に、ママと半分に切り分けたかぼちゃや、一本ずつママの分を分けてくれたにんじん、なすをつめてきた袋をキッチンにしまう。すぐに服を脱いでお風呂に入ろうと思ったけれど、キャミソールのまま、カメラで撮った写真をパソコンにうつしながら、これを打ち始めてしまっている。ひと段落したら先にお風呂に入ってこよう。それにしても、実家はクーラーでひえひえだったので、しかも昨日から本当に外はあつくて、車内はシートや車の表面までアツアツで、こりゃクーラーなくて生きていけるとか言っていたけど、ほんとうにだいじょうぶか???とどこか自信をなくしていたのだった。いま帰ってきてから1時間ほど経っているけれど、やっぱり、ぜんぜん平気だね。不思議だ。実家は壁が厚いのか、窓がそんなに開いてない(シャッターもついてるし)からか、ただいまーと帰ってくると灼熱みたいに感じるのだ。このちがいは、いったいなにかね?とりあえず、帰ってきても快適に生きていけそうでよかった。扇風機、バンザイ!!お友だちのY子が、yujiさんのおすすめstand.fmを送ってくれた。タイムリーに聴きたい。シャワーを浴びて、ビールを飲みながらゆっくり聴こう。

人類、とまで大きくなくても、自分の周りの社会や人間関係、コミュニティが3つにわけて見えるようになり、アウトラインみたいなものが浮かんできた。まだまだ資本主義(土の時代っぽい)にどっぷりな人々、資本主義のなかで資本主義を解決しようと頑張っている人々(風の時代っぽい)、ひとつ上の概念を採用して世界の構造や根本に警鐘を鳴らしている人々。あくまで、いまのわたしの稚拙な見えかたなのだけど。自身の意識のレベルが変化していくと、いままでいいと思っていたものや慣れていた社会が急にいいと思えなくなったり、フィットしなくなったり、そこで使っていた言語ややり方すら使えなくなる現象があると思っている。いくら現実に生きているからとはいえ、もういまさらそれを採用する?ってハテナが浮かぶこともある。
ふと、アニシモフ先生を思い出す。演劇の恩師だ。もし、大きな鳥の目で人類をみたら。先生なら、全員のこと、きっとまっすぐ見つめて、信じて、愛して、笑っているはず。ばかな質問をしても、理性にのまれても、一過性のものとして、扱ってくれる。ほんとうの姿を、その人が信じられていなかったとしてもその人よりも信じて見てくれる。
演劇をとおして、意識のレベルをあげていくこととずっと闘ってきた。でも、意識って、そうそう簡単には変えられない。ねばり強く向き合い、忍耐が必要だなぁって思ってきた。みんな、少しずつ、少しずつ、成長していく。7年周期で階段を上がっていく、という話も聞いたことがある気がする。意識レベルの話だから、他者のまだ気がつけないということに対して、呆れることはあってはならない。呆れられることも、とても傷つくものだ。自分は頑張っているし、あなたにわからないことをわかっていることだってあるのに。誰だって、そう思うものだと思う。最大限のリスペクトを。実際、わたしが知らないことをあなたは知っているし、あなたが知らないことをわたしは知っている。だから、シェアしたい。教えてほしいし、冷たい目をせずにすこし耳を傾けてほしい。攻撃することも、干渉することもわたしはしない。難しいかもしれないけれど、どんな考えをもつ人のことも、どこかの点でリスペクトしていたい。だれだって成長の途中。意識のレベルの差で、隔たりをつくったり、見下したり、見上げたり、上下関係をつくりたくない。世界を変えるのは、社会のイベントやトレンドではない、日々の中の長い長い闘いであり、ひとりひとりが社会のとりまきから自由になり、真の意味で独立していくことであって、政権が変わることではない。(それも大切なことで、絶対やるのだけど。。)政治はそれを保証してくれはしないって、ちゃんとわかっていることを忘れない。信じすぎたり、盲目にならず、日々の生活のなか自分でつくっていくということを忘れないでいたい。

いなくても生きていけると思いたかった両親だけれど、会うとこんなにも豊かな夕暮れの青空を見させてくれる。驚いてしまう。ないものとしているところから、急にあるものとして入ってくることで、愛を突きつけられる。友だちに対しても、両親に対してもそうだ。そうやって、未熟なわたしにみんなは愛を教えてくれたのだ。辞めてしまった内定先の人事の人も、もう会わなくなってしまったクラスの同級生も。苦くて、甘くて、嬉しくて、泣きたくなってしまう。ごめんね。ありがとう。

思想のちがうわたしたちが、どう笑って集合できるのか。ただ、会うということだけに胸を躍らせて、一緒にすごすということは大人になってもできるのか。そんなことにも興味が湧いてくる。みんな、思想もちがければ得意なことだってちがうはず。どこにも属さず、ただの個人として存在することはできるのか。それもひとつチャレンジであり、どうなるのかとても楽しみだ。

2024.7.7(日)ムラチナオ

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