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平和ダイアリー 4日目 社会運動のあり方 平和とはなにか(ナオの3箇条)

2024年6月29日

次の日。わたしはまた同じカレーを買った。
この気持ちを忘れたくないから、この感覚を永久保存しておきたいから、けいごとの会話をそのまんま書いておく。

「わたし、今日文章を書いていて、小山田咲子さんと坂口恭平さんに救われたんだ」「坂口恭平さんが、村上春樹の話をしていて、恋愛っぽいところは好きじゃないと言っていてね、恋愛は読むものじゃなくて、するものだからって。で、恋愛を体験することが好きみたいなんだけど、だから不倫もしたことがあるんだって。で、ふりんをしたらパートナーのふーちゃんと、子どもたちと、一緒に話あうんだって」
「もし、今回の都知事選に坂口恭平が出馬して、そこだけ切り取ったら、不倫についてこんな価値観をもっているやばいひと、っていくらでもかけるよね」
「いまはしていないから、坂口恭平は素敵な人っていう雰囲気とか素地があるけれど、それが選挙とか社会的なところで見たら、やばいひとっていう像を簡単につくることもできる。そうしたら、坂口恭平が言っている真実も本当のことも、一切入ってこなくなるよね。素敵さも、面白さも。情緒を表現しようとしても、気持ち悪がられたりしてしまうよね」
「それって、すっっごく、もったいないことだと思うんだ。もったいないっていうか、ほかの人にとって、その人の素晴らしさを受け取る機会をなくしている行為だと思う。だからと言って、全員をていねいにあつかっていたら時代も話も進まない、という感覚もわかるんだ。」
「だからこそ、難しい。聞かない、という態度をとるのは、受け取りての問題だとも思うから。」

この日記を書いていた期間、家から出て人と交流することも、発信もどこか億劫になりできなくなってしまった。小山田咲子さんや、坂口恭平さんの存在に助けられ、文章にすることでこの2日間のことをリリースできた。徐々に、活力を取り戻すことができた。

自分がなにを大切にするか。
どんな想いを大切に生きるか。

平和もこうありたいという理想の社会も
自分自身で体現する。毎瞬毎瞬。それがわたしにとってのレジスタンスになる。

スピリチュアル、社会派。必要な議論を効率的に進めることが可能になる反面、形容してしまうことで、そのものの可能性、尊敬の念を欠いてしまう面もある。
だから、どうしても必要な時はカテゴライズする
その他の瞬間は、なるべく形容するフィルターを取っておきたいのだ。
もしかしたら、自分が考えるよりも、もっと素晴らしい可能性をはらんでいるのかもしれない。
自分が信じる目的に進むエナジーと同じくらい、そう想像する余裕をもっていたい。

さっきの坂口恭平さんの例(完全にたとえばの話です)で言ったら、あんなに素敵な人なのに、そんなにもったいないことあるか?その機会を損失させているのが、情報操作なのだ。
もちろん本人にそんなつもりないことは知っている。目的がちゃんとあって、本当にいい社会を願ってやっていることだというのもわかってる。
ただ、知らず知らずのうちに、思う壺になり、二元論の世界に取り込まれ、ニュートラルに人のことを見られなくなってしまうこわさが潜んでいるということだけを、伝えたいのだ。その可能性が、自分にもあるし、誰にだってあるということ。だからなるべく謙虚でありたいということ。

わたしは、正解はわからないけれど
こんな気持ちでいっぱいのまま、けいごと話したことをここに残しておく。

「これって情報操作とか、プロパガンダとなにも違わないんじゃないかな」

「ほんとそうだよ」

「さとうみつろうさんはさ、コメントとかでアンチの人からなにか言われたとき、自分の知っている枠の外から言ってくれてるから、そうか、なるほどなって思うことで自分の可能性が広くなるって、自分の可能性を大きくするチャンスだって、言ってた。
聞かない、って遮断する態度になっちゃうと、その可能性の中だけのちっちゃい範囲になっちゃうんだよ」

たしかにそうだ。
言われていることの中身を知りもしないで、極端な反応をしめすのをやめようと思った。そんなことよりも大事なことが、たくさんある。この人が言うんだったら、強く出られるな、みたいな感覚を持ったら、危険信号だと思うようになった。そのままでいると、無意識に反対側の人を傷付ける。それが進むと、こういうことになる。あるときハッと気がついて、どれだけその人に影響されていたかに気がつくのだ。
誰かになにかを言われたら、その時は痛い思いをするかもしれないけれど、その先にある意識の変容が自分の成長になる。現に、昨日から新しい意識になって、いままで会いづらかった人といまは会いたくなったり、理解できなかった人の言葉がはいってきたりしている。なにかが入ってきやすいとか、怪しくおもうというのは、自分のフィルター次第だから、フィルターとその人自身を同一化して表現することはしないようにしよう。

でも今日は、いろんな人と話してこうじゃないか?と意見を聞くたびに、納得できないこともあって、考えこんだ。
そのたびけいごは、「そういう面もあるかもしれないよね」「でもそれもその人の見方だから」と言ってくれる。
わたしの場合、極端にガザのことを調べて発信していた。日本のことはどこにいったのか、それらの情報は誰が作ったものなのか、考えた。
でも、「やっぱり自分が感じたものしか言えないし、感じたものがあったなら素直にそれを言えばいい。興味が駆り立てられたタイミングがご縁だ」と思えたことで、自分のペースも取り戻せた。
けいごは、いつもなにかに影響されたり、それがいちばんだと思いこんだりしない。どれが正しいなんてなくて、でも自分がおかしいと思うセンサーはしっかり持っている。
周りにいてくれる人は、みんな、その人がどんな間違いをしようと見守っていようと腹を括っている人たちなんだとおもう。どんな立場の人にだって、きっとそんな存在がいる。そう思うと愛おしい気持ちになる。けいごが、そんなふうに優しくそばにいて見守ってくれることが本当にありがたいなと思った。

なかには、デモじゃなくてお祭りをする人たちもいるよという友人もいた。理想の世界を体現して、共振共鳴がおきるような。そのスタンスもすごくありがたいと思った。

長くなったけれど、今回のことで、わたしは社会運動のあり方をすごく考えさせられた。デモをしてくれる人たちがいなければ、パレスチナのことや沖縄のことは知ることができなかった。直接的に働きかけていないという点で、社会課題に立ち向かう人たちは、みんなどこかの点で傷ついているはずだ。ぜんぶに共感できなくても、そこを無視したくはなくて、敬意をはらっていたいのだ。

あなただけの平和の表現があり、社会運動(社会との関わり方)がある。そのあり方やバランスは、その人だけのものがあり、人の数だけちがっていていいのだ。

都知事選。コロナのときにめちゃくちゃ変化をさせられたように、平和についての意識をまったくあたらしく変える機会となった。

平和とはなにか(ナオの3箇条)

・まずわたし自身が平和的に生きること。実践家であること

警鐘を鳴らすことに夢中になってしまっては
体現をわすれてしまう

体現していて 世の中から宙に浮いていってしまうのもまたしかり

日本やばい、と思うことで、やばい日本がつくられるというのは
本当にそのとおりだと思う。。
ベースは、自分自身のこころが、愛と平和に満たされているということ

・精神と物質 どちらにも偏りすぎないこと

たとえば
愛と調和を大切にするよう心がけていても
それだけでなにも知らないことは、ちょっとふわふわして地に足がつかない感じがする(わたしが)。

逆に、地に足がつきすぎているときは
愛や調和と言っていられる人はいいな…と
仲間に意識が向いてしまう(これもわたしが)。

でも、見ていない人 知らない人
は本当にいるか?
自分がつくりあげたイメージではないか?

そこをみるよりも
ボーダーさえ超えてしまうような
共感を
自分の光をみがいていき、自分の光を増幅させて、どんな派閥の人も目をとめちゃうような、そんな魅力的なものにしていくこと
説得よりも

そしたら一瞬だとおもうんです
つながっていくのも
体現されていくのも

考え方がちがう とかはもはやどうでもよくなって
ほんとうに、一瞬でガチっとつながるための
そこを考えたい

ひと同士が本当にガチっとつながるためには
じぶんのなかの光の
わくをひとつずつ取っていくこと
そのためには、外からの意見をしってびっくりすることもだいじ
びっくりするってことは自分にはないってことだから
自分のメガネを広げてく あたらしい可能性をくれてる
ひかりの枠をとっていくためのきっかけをくれているのではないだろうか。

・言葉だけをみない。そこにのってる想いや波動をみる

本当に限度を超えたとき
はっきり言わなきゃいけないな
否定語をつかわないと伝わらないな
という空気 シチュエーションってあると思う。

たとえば
だれかが権力におしつぶされそうなとき
強い言葉で守ってあげることや、はっきりとおかしいと伝えてくれることが、その人にとってとてつもない勇気になることがある。

ただ、その外側(言葉)が癖づいてしまうと、否定語やたたかいだけが形骸化して残ってしまうこともある
想いを大切にしていよう

配信のまとめブログが好きで、よく見るのだけれど
だれかが認識して文字にしたものを参考にしていて、ふと実際に配信でしゃべってる箇所をみてみたら
ぜんぜんバイブスがちがってびっくりしたところだった。

文字だけをみると厳しい内容だと思ったけど
調和的なバイブスだった。
そこではじめて、伝えたい意味がわかった。
言葉だけでは読みとれないものがのっかってるから、言葉ではない、そこをうけとるのが大事。

演劇では、セリフはなんの意味も持たないとされている。そこに、目に見えないどんな感情や意味がのっているか?
たとえば 同じ抵抗の言葉だとしても
責めるような波動なのか
すでに解放された波動なのか
いろいろある

偏りは感じるけれど
知ろうとしていない人なんていない

現実 ここがおかしいなと思うことからは
目を逸らさないけれども
でもそこばかりをみていたら こころがバランスをくずしてしまうから
その先の 生きたい未来のことを考える

これから
自分に馴染みのない言葉をつかう人とであっても
えーって ひいてしまうのではなくて
どんな想いがのっているか?
その部分に耳を澄ませてみようと思う
言葉じゃすべてを判断できない。

吉川ひなのさんの娘さん(たしか小学生。。)が
「あなたも、私の知らないことを知っているし
わたしも、あなたの知らないことを知っている
だからシェアしていこう」って言っていたの
すごく素敵だと思った。

ぜんぶを直接見に行ったりはできないし、見ていないからといってこの世のことをなにも言わないなんてできない。
でも、これは真実なんじゃないかってことは、感覚ですぐわかるんじゃないだろうか。
わたしは、自分が真実の波動を感じたものは周りにもシェアしていこうと思っている。

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夜、ワーニャ伯父さんの上演があった。交流だ!!!となる
自分は、どういうふうに交流していたのだろうか。ふと気になり、自分が出ている桜の園のペーチャ、アーニャのシーンを観る。そこにいたわたしは、ものすごく緻密な、緻密な交流をしていた。たまげた。こんなにも相手の一挙手一投足、まぶたの動き、息遣いの変化、声に耳をすませて、人と会話をしたことが、ここ最近、あっただろうか。これこそが、わたしの魂が求めている世界観じゃないか。わたしの魂が浮かんでいたい周波数じゃないか。最近、こんなふうに人と交わったことはなかった。自分の魂に、この気持ちいい海を用意してあげられてなかった。

2024年6月30日

ワーニャ伯父さん2日目の公演を観る。とても良くて、とくに3幕で大号泣。人の、本当の、苦悩。喜び。生きる姿。魂が、無邪気に聞きたがっていること、相手に投げかける問い。それがわたしの胸に直接投げかけられ、揺さぶられた。余韻に浸りながら、お風呂に入り、考える。精神世界と、物理世界。わたしはどの配分で、どんなふうに生きていきたいかな。昨日観た、桜の園のワンシーンをやっぱり思い出す。あのときのあの感覚。いまの生活を変えたいのは、あの濃度の交流が物足りないから、という理由だけではない。なにかほかにある。それを言葉にしようと考えた。やっぱり、あの濃さの交流は、リアルの世界で実現したいと思うものではない。リアルの世界に実現しようと思うと、すこし不自然だ。日常会話のなかで深く交わろうとしたり、わざわざセッティングして腹を割って話そう、みたいなのは、ちょっと違う気がするのだ。リアルな世界には、リアルな世界にある、さらっとした自然な交わりが心地いい。荒っぽかったり、破片みたいになっている材料が、たくさん転がっているのだ。それを、抽象度の高いものにまとめたり、強めたり、深くふかーくしていったもの。それはリアルの世界には乗せることができなくて、舞台や本番というある種非日常のうえに乗せるからこそ輝くものになる。物理の世界には、まだまだ制約がある。まだまだ自由じゃないし、リアルなルールのなかで、勝ち負けのゲームをしていくしかない場面だってある。でも、それは幻想だってことを、いいバランスで魂にわからせてあげるために、精神世界とのバランスをとることが大切になってくるんじゃないかな。現実に根ざすことも、そのなかで自分の大切にしたい想いをもってたたかっていくことも、大事だし。でもそこにのめり込みすぎると、その世界がわたしのすべてだって錯覚していることで、もろに攻撃を受けてしまったり、リアルすぎることで生まれる対立に傷ついたりしてしまうから、適度に距離をとって、両方健全に精力的に取り組むことが大事。

2024.6.30 ムラチナオ

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