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平和ダイアリー 3日目 どっちの苦しみもわかっていた方がいい

2024年6月28日

世の中は都知事選一色だ。今日は雨が降っている。昨日、頭はこんがらがり、胸は傷ついて、友だちにLINEをして、たくさん話を聞いてもらった。自転車はタイヤがパンクしてしまったから、一緒に住んでいるMさんに自転車を借りて、コンビニへ買い物にいった。おなじメーカーの自転車なのだけど、タイヤがわたしのよりも大きくてバイクのように前に進んだ。少しの力で前にすいすい進んでいくのが楽しくて、夜の海風が気持ちよくて嬉しかった。一番近くのコンビニは使いたくないから、もうひとつ先のコンビニへ行き、自転車を停める。こんなに早く着くとは、もはや車じゃないか。わたしの自転車はタイヤも小さいし、チェーンが錆びているのもあってスピードが遅いんだ。チェーンをちゃんと直そう、と計画立てる。コンビニに入り、ビールを4缶と、無印のカレーを選びきれなくて2つ、普段買わないポテトスナックを2つ買った。
さて。今日、なにについて書くのかというと、「もしわたしが都民だったら誰に入れるか」というメモを書いていて、戦略的投票が必要…という結論の理由をならべていたところ。SNSをなんとなく眺めていたら、都知事選の立候補者についてまとめた一枚のスライドが出てきた。要はそれがショッキングだったのだけど、なによりも衝撃だったのは、わたしが社会問題を考えたり情報を仕入れたりするときにかなり参考にしていた発信者に対する「思想や好みが似ているように思えて、根本的に全然ちがう人だった」という体験である。そして、今日こんなふうに目が覚めるまで、そんな可能性も全然感じず、あたかも自分と同じ人のように信じたり、意見を知らず知らずのうちに同一化させている自分がいたことに気がついたのである。普段の自分がいかに、無意識のうちに他の人に同化していたか。発信者の方が悪いわけではなく、そんな自分がいたことが、盲目的でこわいことだと思った。意識がハッと目覚める体験だった。
この世には、いままで大好きだったものが急に嫌いになってしまったり、ある一面を見てしまった瞬間に急激に冷めたり、自分のこころが寝返る瞬間が急にやってくる。すごくニュートラルに世界に存在することなんてできなくて、自分がなにかに偏っては、その中で何かを発見するとここは違う、と驚き、また反対の方向へ逃げこむ。よく考えてみれば、いままでもそんなことの繰り返しだった。
わたしは、なにかを信じすぎるところがある。誰かのことが好きになったら、その人の言っていることは大体正しいと思ってしまう。だから、明確にそれは違うな、と思うことをその人の中に発見すると、驚いてしまう。そうか、わたしたちはこんなにも違う思想を持っていた、ある部分の感覚においてはまったく共有できないんだった、と我に帰る。自分が、こっちの世界にも、あっちの世界にも属していないことがわかると、急に、今までの友だちとどう喋ったらいいか、わからなくなる。人と交流するのがしんどくなり、家から出たくなくなるし、発信もできなくなる。コンビニを出て、自転車にのって帰る途中、仕事終わりのけいごが後ろからビュンビュンとやってきた。けいごの自転車は電動チャリじゃないし、かなり古いから、ゆっくりだ。前を走るけいごのスピードに合わせて、ゆっくり漕いで帰るのが楽しかった。前、けいごがこの電動チャリに乗っていて、私が自分の電動チャリに乗っているときに、坂道で、置いてけぼりにされて、まってーと言うのを何回も繰り返したのだが、そりゃこんなに車みたいにすいすい進むチャリに乗ってたら、置いてけぼりにしてしまうよな、と納得した。

こんなにもくるしいのは、自分がどちらにも属していないからである。そもそも、あっち側、こっち側、もないのだけど。それでも割と、あっちはこういう思想、こっちはこういう思想、というので分けられる部分は少なからずあると思う。少し前までは、演劇をしていて、目に見えない世界や、精神世界のことばかりを探究していたから、現実世界のことや物理世界のことは全然わからなくて、政治のこともわからなかった。いまは、デモに参加したり、社会的なドキュメンタリーを観たり、社会問題に対して意見をしたり、アクションを起こしたり、発信することが多くなり、精神世界のことは、好きなYouTuberの発信を観るくらいの割合になっていた。たとえば、市民運動をしていると、国や政府に対して法律などの具体的なことを変えてほしいと訴えるためには、直接的でインパクトのある行動をとることが重要であることがわかってくる。実際に、不当に逮捕されている人や、明らかに平等でない立場に対して沈黙を続けていることは、その事実を黙認していることになる。だから、おかしいことにはおかしいと、ちゃんと声をあげて抵抗することは大切で、人としてまっとうな表現であり、デモや行進などの目にみえる形にすることは、歴史を大きく変えてきた実績もある。社会派の環境に馴染んでいると、社会のおかしいところに対してはっきりとNOを言わないことや、ほかのひとたちが社会問題について言及しようとしなかったり、アクションを起こさないことが目につくようになってくる。少なくともわたしはそうだった。自分がなにかに関心があり、熱心に取り組んでいて、それをしない人を見ると、その人のことが「〇〇しない人」にみえてしまう。どんなに素敵な人でも、大好きな人でも、この人は、「〇〇はしなかった人」ってレッテルを貼ってしまう。それがとても苦しかった。交流ができなくなったり、その人の発信が見られなくなったり、つまりそっちの世界をオフにしていないといられないから、とても不自由なものだ。無意識に、この人は、〇〇しない人、というふうにしか見られなくなって、はっきりとした壁ではないけれど、半透明の、ちょっと分厚い壁ができる。著名であるのにジェノサイドのことなどを発信しないことへの疑問、なんでこの問題についてなにも言わないんだろう?などと思ってくるものだ。逆に、精神世界や宇宙意識のほうの環境に馴染んでいると、政治や、社会や、既存の枠組みは人間のつくったもので、幻想であることがわかる。その中で踊らされることや、対立することそのものが、宇宙や愛の視点からするととても小さなことに思えてくるものだ。

でも、どちらの重要性も、どちらの苦しみも、わかるのだ。政治に関心のある層が、直接的な働きかけ、アクションを起こしてくれたから、明日の法律が変わる。そのアクションなしでは現実社会は動いていかないのかもしれない(それほど社会を動かすために重要なことをしてくれているのだと思う)。だから、市民運動を引率している人たちからすると、なかなかみんながアクションを起こしてくれないことや、この緊急性を共有できないことは、とても辛く、苦しい。でも、そこで出会った人たちと会話をする中で、宇宙の話や、意識の話、スピリチュアル的な感覚を共有できるか?想像すると、少しこわいのだ。きっと、政治のことがよくわかっていない、精神の話と混同している、お花畑みたいな人ねと嫌厭されてしまうような気がして。昨日見た投稿のように、ありえない。ナシ!と一掃されてしまうような気がして、それがこわいのだ。ニュアンスも説明する間も無く、もう話してもらえないだろう。これもまた、物理世界よりも精神世界を重要視して生きている人たちからすると、とても辛く、苦しい。こんなふうに、友だちや仲間を失うのではないかと妄想してしまう。そんな、少しだけ、昔学級にあったような、「言えない」の雰囲気を感じている。みんなの前では、本音を言いづらい。べつに、全部をわかってもらったり、説明したり、言う必要なんてのはないんだけどね。でも、こころが息苦しさを感じてるので、そういうものは溜まっていくから、うまくリリースしないといけない。どちらかがめちゃめちゃ喋りまくっても、精神世界寄りの人はあまり多くを語らないでいることも多々ある気がするので、そのあたりの格差なんかも感じている。喋らないからこっちの勝ちだ、みたいな空気感ができてしまったら、それこそより溝が深まってしまう。

今回の都知事選の候補者のなかには、いまの社会の闇や真実を十数年発信してきた人もいる。わたしは、この人のことを、選挙活動を始める前から知っている。いわゆる都市伝説系といわれるYouTuberや、世界の真実を発信している人たちのなかでも、かなり有名な人でもあったので、あぁ、この人はすごい勇気をもって世の中に対峙しているんだなと思って見ていた(ちなみに、本当のことを発信しすぎると目をつけられ、ボコボコにされたり、家族に手を出されたりするのがいまの世の中なんだそうだ。権力者は押さえこむのに必死だ)。その人が、今回出馬して、一枚のスライドで批判的に裁かれている様子を見て、なんとも言えない気持ちになった。まず、その人の普段から言っている内容の本物度合いをわかっていれば、「この人は〇〇に反対してるからナシ!こんなことも言っているからありえない!」などの、直線的な反応は起こらないだろう。そのあたりの感覚を共有できないとなると、似た意見を持っている立場の人たちとどう接したらいいか、なにを話たらいいか、どう交流したらいいのか、、と途方に暮れてしまう。

今朝、一缶だけ残ったビールを開け、昨日買ったカレーを温めて食べた。けいごが降りてきたので、昨日友だちに話を聞いてもらったこと、いまのモヤモヤをたくさん聞いてもらった。

「どっちの苦しみもわかっていた方がいい」

とけいごは言う。

「どっちの苦しみもわかっていたほうがいいの?」

「うん。どっちかにいた方がラクだから、自分とはちがうものを、理解できないって排除したほうが、気持ちいいし、ラクだからそうするんだよ」

たしかに。どちらかにいるときは、そうじゃない人を「自分とは違う人」って見ることで、ラクでいられた。わたしは、それぞれの考えにどっぷり入っていた時期があるから、どっちの苦しみも、どっちの重要性もすごくわかる。それを、お互いにわかってほしい、伝えたい、って思うし、だから苦しいんだ。

「対立が生まれるのって、政党政治の思う壺なんだよ。でも、“炎のなかにいる”って、だれかが表現していたと思うけど、カオスの中に身を置く、って大事だよね」

そうか。アンチのような言葉には同化しない、自分はその言葉を取りこまなければいいんだ。SNSではどうしても、一方的な意見、文字を書くことしかできない。いまが選挙期間じゃなかったら、あの人が立候補していなかったら、きっとこんなふうな言葉は行き交っていない。どんな層も、選挙の期間になれば、ひとまとめの市民とされ、同じ選挙制度のなかで同じ投票用紙に書いて、政治を決めるのがいまの社会。その枠組みの中で、どうにか世界を良くしようって必死に頑張っているから、有力な戦略、目的を達成するために、ほかを蹴落とさなければならない、というのは、その人たちが悪い人たちだからではなくて、そもそも制度が二元論だからじゃないか。ほかを蹴落とさなければ、誰かが勝てない。そんな世界の中で生きているから。だから、その世界観をまんまと演じていては、その制度をつくった権力者の思うつぼじゃないか。こうやって、蹴落とし、勝ち上がり、の対立が生まれるように仕組まれている。そこからも、脱さなきゃいけないんじゃないの。言葉に反応しないで、尊重して、見守りあっている関係性こそが平和なんじゃないの。

「どっちもわかっていいんだよ」

「どっちもわかってたほうがいいんだよ」

とけいごは言う。

「わたしいままでね、物理、精神、どっちかの世界にいて、ある時何かを発見してはひいて、今まで持っていたものが嫌いになったり、関係性を遮断して、もう一方に逃げ込む。そうしてまた何かを発見して、嫌になる。そんなことの繰り返しだった気がする。
でも、そんなのがずっと続くのはもういやだ。こっちあっちもない、こっちでもあっちでもなかった、そのポコんとでてきた中立にいる。居心地がわるい、でもここに居続けるんだ。それでいいんだなって思ってきた。
自分はどちら側にも存在しないって、すごく苦しいことだけど、どちらの苦しみもわかっていたほうが、いいよね。宇宙のことも、現実のことも、両方わかっていたほうがいい。どっちの苦しみもわかっていた方がいい」

「うん」
「それに、なおだけの、バランスがあるからな」

「そうだよね。いま周りにいる友だちにどう思われるかを気にしているのかも。でも、自分のバランスで発信したら、それに共感してくれる人もたくさんいるはずだよね」

「そうだよ、そっちのほうが素敵な友だちも多いよ」

「なんか見え方が全然ちがうんだけど。新しい自分が生まれたのかもしれない!new meだ!ずっと演劇をやって、そこから離れてこの1年で現実社会のあれこれを知って、どちらにも友だちや大切な人ができて、どちらの痛みも知ったんだ。1、2って」

「ナオ3.0だね」

わたしは、こっちにもあっちにもいない。両方持っている。居心地のわるいところに居続けるわたし。あたらしい自分が生まれると、ゾクゾクするものだ。あんなにわからなくてモヤモヤ悩んだりしたけど。これから3.0のわたしが、どんなバランスでどんなことを表現していくのか。堅苦しくなくてよくなるし、思想も言い過ぎなくたっていい。対立をうむ発信じゃなくて、もっとゆるやかに、生きたい世界観で私自身が生きて、それを溢れたぶんだけおすそ分けすればいいんだ。そういう生き方を選ぶひとのきもちがわかった。いままでなんでだろうって思ってた人たちのやり方が、いまは理解できる。無関心なんじゃない。自分が生きたい世界観で生き、体現する。平和も、自分自身で体現する。身体的にも、こころの中も、話す言葉も、自分の周りの人との関わりも。レジスタンスも体現する。いままでは、直接的にレジスタンスを表現しない人たちを見て、いいなぁって思ってた。この問題について、どう思っているのか、可能なら表明してほしい、とも思っていた。でも、その人たちは、無関心なのではなかった。家ではめちゃめちゃこのことを議論しているかもしれないし、SNS以外のところで話題に取り上げているかもしれない。表に出さないのは、セルフイメージを配慮して、というのもあるかもしれないが、思想を一方的に表明しすぎることで、それに自分の思想が当てはまるか当てはまらないか、という目で人々が見るようになり、人との適切な距離感がつかめなくなってバランスを崩してしまうからではないか。わたしはそう気がついて、その人たちは、かなり高度な自己管理をしているんだ(本人はいたってナチュラルで、そんな意図をもっているつもりはないかもしれないが)って思えるようになった。

沈黙=悪
発言しない=関心がない
こんな写真をあげている、好きなことばかりをできていいな
そんなふうに他人の日常が見えてしまう、思ってしまうのは、あなたが社会を変えようとほんとうに頑張っている証拠だけれど、どこかフィルターがかかっていて、あなたの魂が自由ではないことを教えてくれているのではないだろうか。

はっきりとした態度でNOを示すことはとても大事だけど、特定の誰かやなにかを嫌厭したり見下すことは、気がつかないうちに誰かを傷つけ、対立を生み、人と人とのつながりに亀裂を生むのではないか。

友だちの意見に同調していたり、この人の言うことなら、と信頼していることがある。結果同じ意見ならいいけれど、ショートカットしてはいないだろうか。同化せず、自分の感覚を大切にしたい。

社会運動とのむきあいかた。
自分がどこに存在するかということ。

ぜんぶ、ぜんぶ愛なんだ。愛なんだよ。愛。

色眼鏡がかかってしか見えなかったものたちが、なんの感情も紐付かないまま、ただ、胸がぽかぽかとあたたかい、愛の感覚とだけ一緒に見える。あぁ、わたしが戻ってきたと安心する。なにかのフィルターがかかった世界を旅してきて、目が覚める時がやってきたから目が覚めると、いままでは夢の中にいたような、不思議な気持ちになる。いままでどんな世界にいたっけ?

2024.6.28 ムラチナオ

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