『Borisイスラエル公演と礼とかについて』補足と応答

 こんにちは。帯化の島崎です。ぼくは先日以下の文を書きました(未読の方はぜひ読んでみてください)。

 そしてこの文章について多くの批判が寄せられました。本文はその批判の一部に対して応答するものであり、前出の文を補足するものです。ですが、前出の文に関する顛末を知らない人も、差別や道徳について興味があるのなら是非読んで欲しいです。
 また初めに書いておきますが、前出の文には粗のある言い回しや表現があり、またあらゆる前提の議論が細かく論じられていません。論立てや表現に無神経な部分がありました。そのせいで論旨が伝わっていない、そうぼくは考えています。「いや、すべてわかった上で批判した」という方もいらっしゃるかと思います。それでも今回の文は、前回の文をなぜ書いたか、その部分についても書いています。なのでそういう方も含めて読んでいただければ嬉しいです。

 正直、今回の文章を書くかとても迷いました。火に油を注ぐだけなのではないかとも思いました。すべて言い訳だと思われるのではないかとも思いました。でもやはり書かないといけないと思い、一生懸命書きました。論に入る前にわかって欲しいのは、ぼくは誰かと敵対したり、誰かを挑発するために今回の文章や前出の文を書いたのではないということです。
 今回の文章はとても長いです。暴力や理念、法や差別について横断的に書いたからです。しかし不要な論点はひとつもありません。この文章は全て読まなければ意味を持ちません。途中で批判したくなったり、怒りたくなるかもしれません。それでも最後まで読み進めてくれたら嬉しいです。

① 「どうでも良くて」について、本論の狙い

実際にBorisのライブが「イスラエルの広報外交に利用されているという倫理的リスク」があるのかはどうでも良くて、なんというかBDS japanのこの手法全体がすごく嫌だなと思った

 まず前出の文のこの部分に対して、「今回のBorisの件については『倫理的リスク』があるかどうかが最も重要でありその議論を落とすのは適切ではない」という批判が多くあったと思います(そしてそれこそが今回の最も重要な論点だと思います)。ただ、昨日の文章はそもそも、「倫理的リスク」という名の元にあらゆる個人の活動が制限/強制されることへの違和を書いたものです。よって、そもそもこの件で「倫理的リスク」を自明視する論理とは論の立て方や視点が違います。今回この文章で補足していくのは、なぜその論点を捨象する必要があったのかということです。途中、かなり遠回りするかもしれませんが、本論の狙いはそこにあります。そして同時に、詳しくは後述するとおり、前出の文も本論も「倫理的なリスク」という発想や、それによって任意の活動を批判することを否定するものではありません。つまり、ぼくはBorisを批判している人たちと争いたくて文章を書いたのではありません。

②広告的暴力、友敵理論

 ではここから実際に論を進めていきます。前出の文では、個別的な判断や視点、あるいは時間や労力をかけた営為を、対話を前提としてロジカルに批判するのではなく「宣伝効果」という、いわば広告的な暴力を用いて圧力をかけるBDS japanの「手法」を批判していました。まず気をつけて欲しいのは、前出の文はこのようにして、「手法」について批判的に書かれたものであり、差別的な状況を追認する活動を批判することそれ自体を(つまりはBorisを批判する方々の思いや活動を)批判したのではないということです。
 ではここで出た「広告的な暴力」の定義をはっきりさせていきましょう。「広告的な暴力」とは簡単に言えば数の暴力であり、同時に数の暴力に人間を動員しようとする暴力です。それはどちらがロジカルに正しいかを対話するのではなく、「話を聞くまでもなく」、数によってあらゆる表現、活動を圧殺するものです。BDS japanの手法は、単にBorisの活動を批判し対話するのではなく、批判それ自体を宣伝し、同時に「お前はどちら側に着くのかはっきりしろ」と要請するものです。
 本来であれば議論というのは任意の論に同意する人数とは関係なく、ただその論理内容のみによって精査されるべきものです。しかし広告的暴力が持つ「お前はどちら側に着くのかはっきりしろ論法」は議論を勢力争い(数と数の争い)、陣地取りゲームに変えてしまいます。陣地取りゲーム的な状況において、「友」と「敵」ははっきりと分かれており、その「友」と「敵」のあいだで、どちらの勢力にも入れない少数者は、恣意的に判別された表面的な特徴から「友」か「敵」かに包摂されてしまいます。「友」の場合は守られ、「敵」の場合は圧殺されるでしょう。

 さらにこの「お前はどちら側に着くのかはっきりしろ論法」の暴力性を拡張的に書くなら、この論理はトランスジェンダーやアセクシャルの個人に向けて、「お前は男か女か」、その答えを強要した上で、「答えないならお前は男だ(あるいは女だ)」という判断を他者が下すようなものです。選択肢を狭めた上での選択を迫る暴力、これは原理的に多様な個人の視点を押し潰す力です。しかもその暴力が正義の名の下に振るわれるわけです。
 こうして差別に反対し、多様性を称揚するはずの正義こそが、沢山の人の個別的な生きた視点を「友」と「敵」に、「あちら側とこちら側」に、陣地取りゲームの勢力争いに動員してしまうという転倒した理論、そのことをここでは「友敵理論」と呼ぶことにします。

 また、ここで急いで付け加えますが、ぼくはBorisがここでいう「少数者」に当たると言っているのではありませんし、Borisを個別に擁護/支持したいのではありません。ただ、今回のBDS japanの「手法」が持つ傾向性は、少数者を押し潰す可能性があると指摘したかったのです。Borisの活動が数の論理によって規制されてしまえば、同じく数の論理によって規制される少数者が生まれるかもしれないと懸念しているのです。

③ 人権について

 続いて、ここまでの議論に人権というタームを追加しようと思います。前出の文章では、「根源的な人間性」について触れていました。ここで「根元的な」という語を選んだのは、人間の尊厳というのはその「存在」によって即座に定義されなければならないという、近代の人権思想の基本的な考えに基づいてのことでした。人権はある任意の正義に基づくかどうかや、どういう属性を持つかという二次的で個別的な要素で判断されるものではありません。それはもっと根源的なものなのです。
 そして同時に、人権という理念は大多数が同意しているから必要なのでもありません。大多数と同じ属性、主義主張を持つ人は人権という理念がなくとも存在できます。むしろ少数者こそが数によって定義されない理念を、根元的な権利を必要とします。その人権によってこそ少数者は、「友」と「敵」がはっきり分かれた陣地取りゲームや勢力争いと無関係に、誰かの「友」でもなく、誰かの「敵」でもない「個人」としてその存在を保障されるのです。
 また、この人権概念は、普遍的であるからにはレイシストにもまた適用されます。反差別主義者がレイシストに危害加えれば、危害を加えた反差別主義者が犯罪者です。レイシストもまた人間であり、人権を持ち、法律に守られているからです。このことに歯痒さを覚える人がいるかもしれません。しかしレイシストのような「非倫理的な人間」の人権が保障されているのはとても大事なことです。なぜなら、あらゆる少数者はレイシストが法律や人権の理念で守られているのと同じ仕方で守られているからです。そして守られなければならないのです。
 例えば、かつて(そして今も)同性愛者は「非倫理的な人間」であるとされ、差別されてきた歴史があります。ここで、「同性愛者は非倫理的でないことをいくらかの人が理解したから多少なりとも現状が変わったんじゃないの?」と思う方がいるかと思います。では、もし仮にそうだとしても、かつての同性愛者が「非倫理的な人間」として差別されていたのと同じように、いまも「不可視のマイノリティ」が無数に差別されているかもしれない、この可能性は消えません。その「不可視のマイノリティ」を含めて保障するためにこそ、任意の正義や道徳(これらがかつて同性愛者を差別してきたのです)、主義主張、あらゆる属性、こうしたものに左右されない根源的な保障が必要になるのです。このことをさきほどの友敵理論と合わせて考えてみましょう。

④人権と友敵理論

 この主張を持つなら、この属性を持つなら、この正義に適うなら、「敵」、あるいは「友」であるという世界観は正義が一つの世界です。その世界において、大多数の人間が主張する思想が数の力で押し切り、唯一の正義となり、それ以外は「敵」になるでしょう。
 主義主張、属性、そのような二次的な要素から切り離された人権理念が機能するには、「大多数が倫理的と認めるなら権利を保障する」という友敵理論や数の論理、これらが作り出す「正義が一つの状況」が弱体化していなければなりません。数の力が弱まっていなければなりません。そうした意味で、「人権に照らした正義」とは、ある意味、「唯一の正義の不在」であり、そこには例外がありません。その「唯一の正義」が抹消されて初めて、倫理や社会通念上の正義に守られない可能性のある「不可視のマイノリティ」の権利が保障されるのです。
 だからこそ人権に関する運動の「手法」には、その当の運動が守ろうとする少数者を押しつぶす数の論理、身体的な暴力、それらが混入していないか絶えず精査されなければならないはずです。批判をする「手法」によって、批判をするための土台=人権理念が裏切られていないか、そのことを自省する必要があるのです。「敵」は数で押しつぶせばいいという社会は、レイシストにとって生きづらいかもしれませんが、同じく「不可視のマイノリティ」にとっても生きづらい社会でしょう。差別に警戒すればこそ、差別主義者やそれに類する「非倫理的な人間」との対峙において、最低限の「礼」を忘れてはならないのです。彼らが人間であることを忘れてはならないのです。それはもし仮に、差別主義者が「礼」を失していたとしてもです。
 これはレイシストを特別守らなければならないと言っているのではありません。レイシストが人間であるからにはすべからく権利が保障されるべきであり、「彼ら」が権利を保障された人間であることを忘れてはいけない、ということです。そして同じように、人間であるというその事実のみによって、根源的に払うべき「礼」が保障されなければならないのです。

 こうした背景で、ぼくは前出の文章において、広告的暴力によってBorisの活動を規制しようとしたBDS japanの「手法」を「無礼」と書いたのです。しかしそれは、繰り返し書いている通り、Borisを個別に擁護したいからではありません。あらゆる個人のあらゆる選択に対する「礼」はレイシストや少数者、全ての人間に払われるべきものだとぼくが考えるからです。
 また、前出の文についての批判のなかで、Borisの公演において「倫理的リスクがあるかどうか」という論点を捨象するのは、「的外れ」、「前提を飛ばしている」と批判されましたが、しかしこうした「根源的なもの」についての議論は、そういった「皆が同意すべき前提」という「強い正義」を捨てなければ論じることができないのです。なので人権について論ずる時、その論はその場その場の状況に対して原理的に的外れであるしかないのです。しかしそのように人権理念についての議論をすることによって、その場その場の状況(例えばイスラエルの状況、Borisの状況)を、個別の批判を、どうでもいいといいたいのではなく、人権の議論はそこから単に独立した議論である、独立した議論でなければならない、そうぼくは主張したいのです。


⑤友敵理論vs人権の外へ

 さきほど、ひとつの正義が強くなり過ぎてしまうこと、要は数の暴力と正義が一致してしまうことの危険性を指摘しましたが、それと同じように、友的理論と無関係である人権理念も行き過ぎれば状況を追認するのみの無力な論理になってしまいます。人権理念はそれ自体での社会運営は不可能で、その上に法システムや社会システムが必要になり、時に他者の人権を制限した個人の人権を制限することがあります(ただ、この権利侵害を執行する「権利」を民衆が持つことは原理的にあり得ません)。

 数の暴力で物事を性急に進め過ぎても危険ですし、理念/理想を追求し過ぎればそれもまた現実の状況に対して無力になってしまいます。よって、人権や表現に関する議論や活動は、理想と現実的対応のバランスによってなされるべきであるはずです。
 時には署名を集めたり、デモ隊を集め、選挙に行き、国会を動かし、立法をする、このような数の論理を使う必要があるときもあるでしょう。しかしそこで一度クールダウンするためのストッパーとして、人権理念は機能しなければならない。その数の論理が暴力的になり過ぎていないか、そのことを反省しなければならない。
 これは数の論理と、数の論理から独立した人権理念、それらが同じものであると言っているのではなく、その両輪が独立して、互いに互いを支え合うことができるはずであると言っているのです。現実的対応のなかで理念を忘れてはならないですし、理念ばかりを追いかけてもならない。現実社会はそのあいだに存在しているはずです。

 ぼくが前出の文を書いたのは、「倫理的なリスク」を重要なものだという議論と人権理念を対立させ、どちらかが生き残るのかという戦争をしたかったからではありません。前出の文は、単に違う視点の提示のつもりでした。ただ、昨今のハッシュタグデモや、左派ポピュリズムの台頭など、本来なら普遍的理念を重要視するはずのリベラル側による数を動員する論理の強まりに対して、パフォーマティブにバランスを取りたいという思いから、放言的な物言いや、強すぎる言い回し、理念と数のバランスという論点の捨象という部分が生まれてしまいました。それは完全にぼくの不備です。すみませんでした。しかし、前出の文の意図としては、「手法」と理念のバランスを取るためにこそ書かれたものでした。
 繰り返しになりますが、改めてここでわかってほしいのは、ぼくは「友」と「敵」を分割するために前出の文や本論を書いていないということです。

⑥なぜその論点を捨象したか

 最後に、なぜ「友」と「敵」によって定義されない普遍的な人権にぼくが重きを置くのか、そして「倫理的なリスク」の論をなぜ捨象したか、そのことをもっと正直に、ある種の「当事者目線」で書いておきます。

 ぼくの議論は「当たり前の道徳」に乗れない少数者側からの理論です。ぼくは今回の件のように、もうすでに話が終わった議論を蒸し返したり、周りとは全然違うことをいいだす。これは普段からこうで、ぼくはそういうことをする「めんどくさいやつ」なわけです。「友」と「敵」が分かれた世界では、「めんどくさい人間」は単に「敵」として認定され、「友」同士の関係性を強化するネタにされて、数の論理で圧殺されてしまう。でもぼくはめんどくさいことを言って人をイラつかせてもなお、大文字の正義にもとってもなお存在したい。
 これはぼくの芸術観ともつながっています。ぼくにとって芸術は社会の役に立つから大事であるとか、人間の役に立つから大事であるとか、そういうものではありません。ぼくは、マジョリティが作る時代の流れや、それらが暴力的に定義する社会的意義や意味、そういうものから芸術は独立して存在し得る、そう考えています。この考えが昨今のソーシャルエンゲージドアートの流れや、音楽家の倫理の重視という趨勢に反することはよく理解しています。しかし、だからこそ主義主張関係なく、倫理的であるかどうか関係なく、ただ存在を肯定する理念が必要だと考えるのです。絶対に皆が従うべき前提というようなものを捨象した議論を立てるのです。

 先ほども書いた通り、大多数にとって人権理念は必要がありません。ぼくにとって人権理念が大事なのは、数の力が強くなった世界では、単にぼくが自由に制作活動をできなくなるからです。だからぼくは数の暴力という「手法」に人一倍敏感に反応し、このように発信をし、論をもう一度理念の側にバランスを取ろうとするのです。でもそれは、ぼくが芸術や主義主張によって、社会の「敵」でありたいと思っているということではありません。そして同時に「敵」ではなく「友」ですよ、実は役に立ちますよ、と言いたいのでもありません。ぼくはただの一人の人間として、一人の「個人」として、社会の役に立たずとも、倫理や正義に応えなくとも、ただ単に存在したいと主張しているに過ぎません。
 確かに「当たり前の道徳」の話に違和を提示するのは、スムーズな道徳の運営や人権運動を停滞させるかもしれない。数で「敵」を潰せば話は早いでしょうし、テロリストやレイシストや疑わしき人たちははみんな「敵」ということにしてしまえば簡単です。しかし道徳や人権問題は、あらゆる存在の多様性は、この停滞とともに進むのだとぼくは信じています。あらゆる病気を持つ人々や、あらゆる人種の人々、あらゆる障がいを持つ人々のそれらの特質が欠陥ではないと信じているのと同じレベルで、ぼくはその停滞や遅れを信じています。

⑦終わりに

 前出の文の補足と応答はこれで終わりです。本来であれば、今回の議論を前提にして、人権による保障以前にそれ自体で存在する物理的身体の問題、人間における情動/憐みという全体化/普遍化以前の「短い道徳」について、人権理念から発する逆向きの全体主義ついてなど、さらにややこしくめんどくさい議論に触れたいところですが、今回の論旨とはズレるのでやめておきます。
 でもおおよそぼくの言いたいことは道徳とか人権とかって、とてもややこしくて、めんどくさい大変なものだということです。「友」と「敵」で分かれて陣地取りゲームを始める前段階に考えないといけないことが沢山あります。もちろん、目の前に数を使わなければ解決できない問題も沢山あります。それもとても大事です。でもやはりぼく個人としては、昨今の急速な人権意識の拡大と性急な運動の拡大のなかで、人間を動員する数の論理の外部があるということを打ち出したいと思っています。ぼくは性急さよりも遅さや停滞の側に付きたい。
 しかし何度も書く通り、それは性急な運動を存在しなくていいと言っているのではありません。そういうものへの根源的な「礼」を忘れず、その上でぼくはぼくで好きにやりたい。これはぼくを批判するなということではありません。ぼくも今回のようになにかを批判します。同じように批判もされるでしょう。でもその際に数の力で誰かを押しつぶしたり、圧殺したり、そういうことをしたくないし、されたくない。「礼」を忘れずに他人と接したい。これを読む皆さんがこれからどういう風に人権問題や道徳に関わっていくかはわかりませんが、「そういう人もいるんだ」くらいに思ってくれたらと思います。長くなりましたが、今回の論はここで閉じたいと思います。


 この文章への批判、意見、賛同、感想、そういうものがあったらDMでもメールでもラインでもリプライでもなんでもください。でもあんまり適当なものはやめてください。ぼくはこの長い文章を書きました。それなりの時間と労力を払いました。そのことへの最低限の想像力だけは忘れないでほしいです。

 なんにせよ、ここまで読んでくれた方々、ありがとうございました。

帯化/造園計画 島崎
 


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