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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』、イメージと成熟について

※ネタバレありです。嫌な人は読まないほうがいいです。

 どこから始めていいのかはわからないけど、多分こう始めるのがいいと思う。ここにはぼくの居場所がない。この書き出し自体がもうすでにやばい感じがある。なんて子供じみた、恨み言のような言葉だろうか。この時点で、居場所は用意してもらうものではなく見出していくものであるというこの映画の教え自体をぼくが全く理解できないということを意味しているのかもしれない。なんにせよぼくはこの文章を書いて何か吐き出さないと何も始めることができないくらいにはどうしようもない気持ちになってしまっている。今日はもう布団から出て午後からのレコーディングの準備をしなければいけない。そのためにもぼくがこの映画を通して、この映画における分断について書かないといけない。いや、分断などといって政治的な問題にしてしまうことそれ自体が、この映画がすでに乗り越えた罠にはまってしまっているのだと誰かにいわれてしまいそうだ。でも知るものか。まずは始めてみる。

 いきなり自分の話をするのはあれだが——庵野だって自分の話ばかりなのだからぼくだってそうしていいだろう——ぼくは最近、「着実なもの」に対して寛容になれるようになっていた。音楽を自分で作って、小さいながらも自分たちのレーベルを設立して、発注をかけて、音源をプレスして、商品を売って、商品を梱包して、発送して。こういう「着実なもの」の価値を実感のレベルで理解できるようになっていた。それはセカイ系的なものの克服、少し小難しい言い方をするなら、現実界/戦争が象徴界/社会の仲立ちなしに想像界/恋愛と短絡される世界観の克服にも見える。でもまず、この作品においてその社会を表象するところの第三村の描写にぼくは居所の悪さを覚えていた。
 映像それ自体について書けば、第三村は庵野がずっと書けないで/書かないでいた世界だ。それは細田守的で、宮崎駿的な世界だ。でも多分、その両者がやっていないくらいには、その世界にはリアリティがあるのだろう。震災の仮設住宅の問題、没落しつつある日本の問題、戦後であり、震災後である風景。着実な生活実感の繰り返しが、「命令なしの生」を立ち上げ、絶望を緩和していく。絶望/希望、自己/他者という鋭い二項対立に向き合うのではなく、その間を埋めていくための生活。ミニマムな社会性。
 こう書いてしまうなら、ぼくは完全にこれに同意するしかない。ぼくだってそういうアニメが観たいと思ってアニメを見続けているんだから。問題はそのイメージだ。太陽光発電のためのソーラーパネル、畑仕事、仮設住宅での子育て、持続可能性のための資源のやりくり、老人たちとの優しいコミュニケーション。あまりにも「それっぽい」世界。各所への妙な目配せを感じずにはいられない巧妙さ。60代になった庵野の、アニメという仕事/生活への実感、誇りを象徴しているのだろうか。それがぼくにはあまりにも眩しすぎる。照れ隠しをしてしまいたくなる。逃げ出したくなってしまう。この映画においてあらゆる対立を緩和する「第三」村こそがまさに、イメージの柔らかさから逸れるような、堅苦しいイメージに感じてしまったのだからぼくがこの映画を良いものだと思えるわけがない。
 このアニメは全体的に、今までのエヴァにおいて庵野が避けてきた「王道っぽいもの」への回帰をすんなりと描いている。それは戦闘シーンにおいてもそうだ。グレンラガン顔負けの総力戦、自爆特攻、壮大なもの(インパクト)のオンパレード、稚拙と言えてしまうくらいストレートなセリフ回し。あまり大きな変化も進化もせず、その重い身体を不恰好に引きずり回すようにして駆動していたエヴァの機体は、あまりにもたやすくCGアニメーションを駆使したメタモルフォーゼを繰り返す。こういった装飾(表現)のストレートさは、旧劇において見られた表現性への強烈なアイロニーと共に廃絶されるための「フリ」なのだから、そこにこだわっても意味がなく、アニメーションは次のステップに進んだのだといわれてしまうだろうか。「構造」のためのフリにすぎない装飾に躓いてはいけないと忠告されてしまうだろうか。
 そもそも表現性にしか、装飾にしか、虚構にしか耽溺することができないというオタクの病理こそを庵野は攻撃し続けてきたにしても、しかし誰よりも表現性に、装飾に、虚構にこだわっていたのは庵野だった。アイロニーによって王道から横にズレ、自己否定を繰り返しながら、そのリミットで描かれる数々の作画と演出の数々に居場所がない(と思い込んでいる)ぼくらに極薄の居場所を与えてくれたのも庵野だった。エヴァンゲリオンだった。この映画は「庵野だった」、「エヴァンゲリオンだった」という「だった」という時制こそを批判し、闊達に、ユーモラスに自己変容していくのだから、いくらこんな批判を書いても過去にしがみつくことであり、現実への恨み言を繰り返すことにしかならないのだろうか。しかし、先鋭的な映像はこのようにして緩和され、社会化され、調整され、未来に向けて、構造に向けて成熟されないといけないのだろうか。
 ぼくが一番嫌だったのは(こうストレートに書くのがもはや適当だと思う)、成熟/未来のイメージがスーツ姿のシンジが恋人と駆け出していくというあんまりなイメージによって素朴にされてしまっていることだった。ここにはオタクカルチャーのあまりにも単純な明るい/暗い、リア充/非リアの二元論の病理が巣食っていると思う。リア充でなければ非リアであり、非リアでなければリア充であるという二元論。旧劇は他者と向き合うことを「ああいう」エンドにすることで、未来に向けて生きることを肯定しながらも、「明るさ」への回帰を微妙にごまかしてくれた。このアニメはそのごまかしにこそ向き合い、成熟したアニメであるらしい。しかし、ごまかすことは、美的なもの、イメージの基本的な機能ではないのか。

 この映画について「35歳になればわかる」とある批評家が言っていた。それもよくわかる気がするし、これをわからないということがぼくの社会的な地位の限界を示しているんだと思う。ぼくは結局、レーベル運営というのは名ばかりの27歳の非正規雇用者で、職場にも居場所がなく、よくわかない作業を運営と称して続けている人間にすぎない。いまの現状をいいと思っているわけではないし、この現状を変えていくための準備はしている。しかしこのどうしようもない経済状況のなかで、作品を作り、リリースの準備をして、プレオーダーをかけて…この途方もない工程を乗り越えるために必要なのは、ただ自身の美学/イメージという経済的な基盤を元手としない、成熟とは一切関係のないまま持続を作り出すものと、この途方もない作業を運営だと言い張るごまかしだけだ。この映画はそのごまかしを続けるための助けにはならない。構造によって、社会によって目的化されたごまかしなど、限界に接しながら続けていかないといけない、居場所のない人間に対してごまかしとして機能しないからだ。あるいはごまかしはやめて経済状況を打破するために邁進すべきなのだろうか。そんなことは絶対にありえない。
 しかしそもそもこのアニメ自体が若者と当時のオタクたちに向けられているのだから、こんなことを書くのはあまりにも的外れなんだろう。まだ始めていない人間と、もう居場所がある人間に向けられたアニメに居場所を作っている途中の人間が文句をいうこと自体馬鹿げている。だから文章にしがみつくのはやめて、昼ごはんを作って、食べて、マイクをバックに入れて、スタジオに向かわないといけない。帰り道には夜ご飯の材料も買おう。



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