Borisイスラエル公演と礼とかについて

(後日にこの文章に対して補足を書いています。併せて読んでください。)

 もう去年の話みたいなんだけど、Borisがイスラエルでライブをすることにすごい批判が集まっていたという話を今日初めて知った。その批判の先鋒に立っていたのがBDS(ボイコット、資本引き揚げ、制裁運動) japanという団体だったらしい。彼らは「イスラエル公演キャンセルのお願い」というページを作っていて、そこでBorisのライブが「イスラエルの広報外交に利用されているという倫理的リスク」であり、Borisにそのことを気づいてくれるよう呼びかけていた。

このページはBoris宛にBDS japanが送った手紙を転写したものらしい。BDS japanは文の最後を「パレスチナ人を差別・抑圧する体制に対し、今回のコンサートのキャンセルを通じて、非協力の態度を明確にされることを心から願いする次第です」と締めくくっている。
 実際にBorisのライブが「イスラエルの広報外交に利用されているという倫理的リスク」があるのかはどうでも良くて、なんというかBDS japanのこの手法全体がすごく嫌だなと思った。このBDS japanの声明文は「お願い」という体をとっているけれど、実際はBoris宛の手紙を公開することを通して、Borisのライブをこの手紙の要請に反したものとしてパブリックに宣伝する極めて戦略的なものだ。ロジカルな対話によって説得するというよりは、その宣伝効果によってBorisの活動に圧力をかけていくようなものだ。
 ぼくは何であれこのやり口はとても「無礼」だと思う。他人が金を出して、企画したものを、大多数が同意するであろう道徳を後ろ盾にパワーゲームで潰しにかかる。そして、自らが代理する勢力に協力し、その勢力が敵対するものに非協力の姿勢を示せと要請する。BDS japanが目指す社会像がどんなものであれ、このような手法をとってしまう世界観にぼくは与したくないなと思ってしまう。敵と味方がはっきりしている世界、一元的な正義で個人的な活動が潰される世界、そこにぼくらのようなインディペンデントな活動を続ける作家の居場所は存在しない。
 こういう「無礼」がはびこるのって、やっぱりみんな自分で企画すること、自分で金を出すことをやっていないからなんじゃないかと思う。批判をしたり、対抗するための運動をするのは大事だけど、他人の活動をキャンセルしようとする動きには、根本的に他人への尊敬が足りないと思う。他人が金を払い、時間をかけたものへの根源的な倫理観が足りないと思う。批判することと潰そうとすることは全然違う。批判はいつでも批判対象への尊敬が前提となっている。

 そういえばぼくも自分たちだけで活動を始めてから、いろいろなものの見え方が変わった。いろいろなものを尊敬できるようになった。どんなにダサい音楽家でも、作品のコピー代が節約になるといって市販のインクをプリンターのカセットに注入している話をしていたら感心できるようになった。もともとおしゃれなもの全てを馬鹿にしているような人間だけど、インスタとかで自主ブランドを宣伝している女の子たちが原価代をケチり(工夫し)ながらアクセサリーや服を作っている話には共感できるようになった。
 何か活動するのはお金と時間がかかっている。時間と労力というのは根源的な人間性が宿っている。その時間と労力の結果がいかに道徳にもとっていようとも、無闇に潰していいようなものではない。これは、時代性に縛られている、「どちらの勢力に着くか」という局所的な倫理の話ではなく、時代に関係しない人間の尊厳、そこにまつわる「礼」の話だ。そういうことをわからない人たちにいい社会なんて作れないんじゃないんですかね?


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