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『沙耶の唄』における「出産」についての雑感

 毎回楽しみにしている面白コンテンツ、「闇の自己啓発会」(https://note.com/imuziagane/n/nbf13eabb5144)に感化されて『沙耶の唄』を再プレイしたところいろいろ再発見がありましたので、雑感を書いていきます。あくまで、美少女ゲームや思想を嗜む程度のワナビーによる「雑感」です。瑕疵があってもあんまりいじめないでください。やんわり指摘しもらえるのが一番嬉しいです。

 さて、まあいろいろあると思うんですけど、今回この文章では『沙耶の唄』を純愛モノであるということ、あるいは美少女ゲームというポルノメディアであるということを基本線としつつ、それらの分類ではカバーし尽くせない余剰があるというスタンスで「出産」について話を進めていきたいと思います。では簡単にストーリー説明。

 主人公は交通事故によって特殊な認知障害を抱えることになる。それが知覚される景色や人間が全てグロテスクな肉塊になるというもの。そんななか主人公は宇宙外生命体である沙耶と出会う。現実世界においては彼女こそがグロテスクな肉塊の怪物なのだが、主人公には彼女だけが正常な人間、「美少女」として知覚される。主人公は沙耶の存在に歓喜し、沙耶は他の人間と違い自分を恐れない主人公を愛する。主人公と性交を重ねた沙耶はやがて「出産」に至る。その「出産」は世界中に沙耶のウィルスが散布され、感染したものは沙耶と同等の姿になるというもの。やがて世界は主人公が知覚していた肉塊の世界へと書き換わっていく。

 ストーリーを確認したところで、なぜこの物語が純愛モノであると分類できるのか、そしてポルノメディアであるという部分を無視すべきではないと言えるのかを大雑把に確認していきましょう。まず、純愛という部分。これはまあストーリーを追えば大体つかめると思うのですが、ただ二人の関係をいい感じにマッチングする要素が認知障害という重い要素なだけで(もちろんここにこそ他の作品と『沙耶の唄』が違う点があるのだともいえますが、今回は触れません)、基本線はセカイ系のノリや、携帯小説的なノリの延長線上にある。二人は愛し合い、その恋愛が世界の命運を左右するというもの。そして『沙耶の唄』は「出産」というタームを迂回しようとする。もちろん「開花エンド」における沙耶の出産/感染を念頭に、「いやいやそれは違うだろ」というツッコミはあると思いますが、詳しくは後述します。ただとても簡単にいってしまえば、『沙耶の唄』はポルノメディアであるのだからそこに描かれるのは、基本的には自慰行為に奉仕する限りでの性交渉であり、「出産」というタームは原理的に美少女ゲーム/ポルノメディアの余剰である、という話に尽きるでしょう。そしてこれはメタ美少女ゲームの先駆けである『one〜輝く季節へ〜』以来の問題系でしょう。
  
 まだ『沙耶の唄』についてろくに触れてもいないですが、ここで美少女ゲームにおける「出産」の問題を、『one〜輝く季節へ〜』を起点にしながら簡単に掘り下げてみましょう。『one』では、女性と濃密な関係性を築けないと主人公は現実世界とは別の異世界、「永遠の世界」に捕らわれてしまい現実世界から消失してしまうという設定が採用されていました。セカイ系によく見られるような恋=女の子に救ってもらうというような、過剰なロマンティックラブイデオロギー全開なストーリーです。ここで注目したいのは、主人公が「消失する」という点です。具体的に死んでしまったり、病気になってしまったりするのではなく、極めて抽象的に消失する。普通、「死」には原因がある。違う言い方をすれば、普通、死までには行程、経路がある。しかしこの「消失」には原因がない。よって経路/行程がない。死から経路を抜き取ったものとしてのどこまでも抽象的な「消失」。そしてその裏面として——あるいは裏/表の関係が逆かもしれませんが——恋愛における「救い」が、現実世界への復帰がある。そしてその「救い」には、精子と卵子の結合という性交渉の結果としての出産が用意されていない。主人公は恋をしなければ消失するし、恋をすれば救われる。一挙に救われたり消失したりするという想像力、これは社会生活におけるインフラの十分な整備による、「生の自動化」を前提とした想像力と位置付けられるのかもしれません。「普通に生きていればまあ死なない」状態において、「貧困に徐々に蝕まれながら死ぬ」ことを想像することすらできない。同じように、そのような世界において、現実世界の細々とした手続きや政策によって救われるということを想像することすらできない。後に残るのは「社会的責任」抜きの生殖活動や捨て鉢で未熟な「恋」といった、量的な比喩が適用できない抽象的で刹那的な想像力。出産/家族という関係から疎外されているとされるオタクには、あるいはその外部に位置するポルノメディには相応しい想像力といえるかもしれません。

 と、なんだか随分脇にそれた感がありますが、ちゃんと復帰します。先ほど書いた通り、ぼく的には『沙耶の唄』は純愛モノ/ポルノメディアであるという前提で考えたい。そしてすでに書いた『one』と同じ文脈で、ぼくは『沙耶の唄』において「出産」は当座のところ迂回されていると考える。ただそこで迂回されている「出産」はあくまで、同種間での生殖関係、あるいは親/子という形式での「出産」、いわば「正統な出産」とでもいえるものである。では『沙耶の唄』における「出産」とはどういったものか。
 さて、またもや少し遠回りです。「出産」の前に『沙耶の唄』における肉体改造、あるいは品種改良の問題に触れておきましょう。沙耶は物語内で人間に対して何度か物理的な改造を施します。まず一回目が主人公の家の隣に住む中年男性。沙耶は彼の脳内をいじり、主人公と同じ認知障害を彼の脳内で再現しようとして見事成功します。そして二回目は主人公に恋する女性。沙耶は彼女が「普通の女性」として主人公の目に映るように、彼女の身体を自分と同じ形質に「改造」する。この「改造」を経て沙耶は自分の怪物的身体を、人間という素材を使って再現可能/複製可能なものにしてしまう。この二回の改造から得た知見と、日々主人公から摂取している精子から得た人間のDNA情報を元手に、沙耶は「出産」を開始する。
 先ほども書きましたが、沙耶の「出産」は同種間での生殖関係、あるいは親/子という形式での「出産」、いわば「正統な出産」を迂回したものといえます。「闇の自己啓発会」でも触れられてますが、まずそれは「出産」というよりは「感染」に近い。沙耶の撒いたウィルスはすでに成体として存在している人間にまで侵食し、沙耶の同族に「書き換え」てしまう。それは「正統な出産」に見られる親/子という時間的な偏差を軸とした関係ではなく、すでに出産されたあとの個体の情報を変換させてしまう親/親関係とでも呼べそうなものともいえる。あるいは沙耶の少女的な外見を踏まえるなら、子/親関係ともいえるかもしれません。時間的偏差を軸としない「出産」、あるいは時間的偏差を逆転させてしまう「出産」。それは出産であり、感染であり、大規模な肉体改造ともいえる。
 
 ここらでもう一度『one』を参照しながら前述した行程/経路の問題に触れておきましょう。『one』は行程/経路を無化し、抽象的な消失/救いを志向する。それはポルノメディアと純愛が結びついた想像力であると。それに対して、『沙耶の唄』は行程/経路の問題を無化しないどころか、その要素をより遠くまで「加速」させてしまう(急に加速とか言い始めましたが、あらゆる抽象性を廃し、経験世界/資本主義を回しまくることで資本主義や相関主義を破壊するという加速主義や思弁的実在論の問題系は『沙耶の唄』と近いものがあります)。DNAの書き換えという行程を通して、出産、個体の発生という経路を改造すること、それは「正統な出産」を中心に組織された社会——政治的手続き、性的手続きによって支えられた社会——のもっとも下部に位置するインフラ、人間の身体それ自体へのテロルであるともいえる(逆に『one』は身体のサボタージュといえそうです)。そうした意味で、『沙耶の唄』は生殖という「現実」を直視せず過剰に読み替える。それは「正統な出産」を迂回し続け、「成熟」を迂回し続けるポルノメディア的想像力だからこそ踏み込める領野といえるかもしれません。
 なんだか急に「加速」とか言い始めたり、出産のハッキングとかいって今っぽい議論に目配せしている感じがあります。しかし繰り返しになりますがあくまで『沙耶の唄』の想像力はゼロ年代的なものを基本とすると思います。それを示す拭いがたい要素としてこの作品における「恋」の問題がある。実は沙耶には地球の情報を収集する過程で古今東西のロマンティックラブイデオロギーが刷り込まれた書籍を読破しているという設定がある。だから沙耶は主人公を愛し、その子供を産むことを欲した。つまり人間は沙耶にハックされる前に、沙耶をハックしていたわけです。なので、最後の沙耶の「出産」は、種の改造であるという行程/経路の問題への干渉である以前に、恋の成就であり、恋による救いなわけです。彼女は決して、ただ繁殖したかったわけではない。恋に身をやつした結果がたまたま人間という種の滅亡だったという話にすぎない。まあ要は『沙耶の唄』って、夢見がちな人外少女が恋の「突破力」で種に備わった生殖形態をハッキングして、人間という種を滅ぼすラブストーリーなんですね。

 なんかつらつら書きましたが、改めて『沙耶の唄』は圧倒的名作ですね。あんまり触れられませんでしたが、外見の問題と道徳の問題というのもとっても重要なもののように感じます。主人公は沙耶と関係するようになってから、人間を殺しまくる。最初は色々躊躇はあるものの、「自分と同じに見えない」という理由で彼の道徳は書き換わる。道徳は停止するのではなく書き換わる。「自分と同じに見える」怪物たちを守り、身体的構造は同じだが「自分と同じに見えない」人間と対立する。道徳における「知覚」の問題、「似ている」という問題。道徳とルッキズムの共謀が暗に示されているともいえそうです。

 でも、やっぱゼロ年代の呪縛は感じてしまいますね(まあゼロ年代の作品なので当然ですが)。この「恋」の要素を徹底的に廃していたり、「加速的出産」後の世界の生活をただダラダラと描いたような小説とかゲームとかアニメないかな。誰か教えてください。


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