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新ZINE-弊池塘地図(全文無料)

 本日、造園計画は、2023年2月にリリースされた帯化のサードアルバム『御池塘自治』について、帯化の島崎(gt.)と須永(dr.)が書きつけたZINE、『弊池塘地図(へいちとうちず)』をリリースしました。

https://taikafasciation.bandcamp.com/album/out-tracks

 それにあわせて、『弊池塘地図』の全文を無料で公開しようと思います。実物のZINEには本文だけではなく、石川開さんによって撮影された写真が収録されており、加えて『御池塘自治』の製作過程で生まれた、『御池塘自治』の「メモ書き」的な音源集『追伸、追而書』のカセットテープとDLコードも付属します。
 カセットやZINE本紙は、「モノ」にこだわってくれる人たちに買っていただくとして、『弊池塘地図』の本文の方は、『御池塘自治』という音源を聴いてくれたすべての人たちに読んで欲しいと思い、全文公開することにしました。ぜひのぞいてみてください。

また『御池塘自治』は以下より聴くことができます。ぜひ本文を読みながら聴いてみてください。

▼Apple Music
https://music.apple.com/jp/album/on-chitou-jichi/1665886610

▼Spotify
https://open.spotify.com/album/71rjt7xDAEZJxOajwvMx0U?si=OW2404PJSL2tVTSGeC4cOg

▼Bandcamp
https://taikafasciation.bandcamp.com/album/3rd-album-2

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 ぼくらは2023年2月に、およそ二年半ぶりに『御池塘自治(おんちとうじち)』というアルバムをリリースしました。前作、『河原結社』はその名の通り「河」の作品でしたが、今作もまたその名の通り「池」の作品です。でもただの池ではありません。このアルバムのモチーフとなったのは「池塘」です。
 池塘(ちとう)という語を聞きなれない人も多いと思うのですが、この語は「高原に堆積した植物の死骸や雨水が形成する小さな池」という意味を持っています。この語をぼくが知ったのは、小学校高学年くらいだったと思います。母親の本棚に並んでいた『百鬼夜行抄』という漫画のなかに池塘をモチーフにした話があったのです。

 その話は、昨日までなかった池塘が山林のなかに急に現れるという挿話から始まっていたので、池塘という語は、「池」が持つ澱んだイメージを引きずりつつ、急に現れたり消えたりする、時間や空間を飛び越えるマジカルで「身軽」なものとして、ぼくの記憶のなかに刷り込まれていました(そしてその幻想性を依り代にして『百鬼夜行抄』では池塘のイメージに妖怪奇譚が挿入されていくのです)。それから、そうした池塘の魔術性や幻想性みたいなものが、「草むらのあいだに並ぶ『たくさん』の池塘」という景色とくっついていることも大事なことだと思います。
 『百鬼夜行抄』のなかで池塘は、餓鬼たちが飢えをしのぐためにこさえた田んぼに見立てた、「餓鬼田(がきだ)」という別称で語られることが多く、やはりそれは「田」であるのだから、「たくさんあるもの」として描かれるのです。ひとつだけボンと置かれた池ではなく、現れたり消えたり、増えたり減ったりする池。また池塘はマジカルなものでありながら、田=食に、生活に、何かを持続させることにつながっている。餓鬼という幻想が生き永らえるための食料庫としての池塘=餓鬼田…。

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 もっと具体的な側面から書くと、今作は、ぼくらがいわゆる「ロックバンドのアルバム制作」のスパンで制作にあたったはじめての作品でもあります。ロックバンドはトラックメーカーと違って、現実に鳴っている音にマイクを立てて、「録音」しないといけません。ドラムなんかだと分かりやすいですが、人間が実際に動いて、太鼓を叩いているのを記録しないといけないのだから、めちゃくちゃ手間がかかるし、お金もかかるのです。今回はその行程にたくさん時間をかけて試行錯誤しました。
 それから、詳しくは後述しますが、今作には多くの環境音が入っています。でもそれはプリセット音源であったり、すごくいいマイクで録音したものではなくて、ぼくが生活をするなかでたまたま出会った音を、いつも持ち歩いている安いレコーダーで録音したものに過ぎません。それはいわば「生活のドキュメント」としての環境音です。一方でドラムやギターのプレイを録音するというのは、ある種、「身体のドキュメント」を記録することだとも言えると思います。
 そういう意味で、『御池塘自治』というアルバムは、ぼくらの「身体と生活のドキュメント」なのです。そして『御池塘自治』が持つ、そうした「ドキュメント性」への補助線としてこのZINEを作ってみようと思いました。

 すでに少し書いたような、この作品にまつわる挿話や抽象的な語り、そして演奏やミックス、録音のこと、あるいはもっとテクニカルな話など、あらゆる側面でこの作品を辿り直してみようと思います。
 それから、このZINEのために、現在YouTubeで公開されている『御陵』のMV撮影に帯同してくれた石川開さんに写真を寄せていただきました。そちらの写真とともに、このZINEが『御池塘自治』をより深く楽しむよすがになれば嬉しいです。

帯化/造園計画 島崎

録音について、録音芸術の「奇妙さ」(島崎)


 このアルバムを作りはじめた当初、『河原結社』の自主録音で味をしめたぼくらは、今回も引き続き自分達だけで録音を始めることにした。そのときは「ローファイさ」や「音の汚れ方」にはいろいろあるってことがテーマにあったと思う。一様なローファイさに支えられた音源ではなく、いろいろなタイプのローファイさが曲単位のなかに複数宿っている音楽、そんなものをイメージしていた。
 そのイメージに近づくために、TASCAMのPorta Two Studioと、VESTAX MR66という二機のカセットMTR(カセットテープに音を録音するための機材)を手に入れた。『擬似縁側型ステルス』のときも、Klan Aileenの澁谷さんが持っていたカセットMTRを多用していたので、それを自分たちでもやってみようという魂胆だった。
 最近のエクストリームな電子音楽にあるような、PC上で作っただけのオーバーレベルサウンドと違って、カセットMTRは、デカい音(オーバーレベル)で録音すると、独特の温かみのある歪みが得られる。しかもカセットMTRごとにその性格も違うので、かなりいろいろ実験した。その結果できたのが『金魚鉢』と『胸騒ぎ』の二曲。
 『胸騒ぎ』の方は『行楽日和』のドラム(完成版のドラムとは大分違うもの)をMR66に取り込んで、PCに戻す際に即興的にテープの速さを可変させることで、ローファイな質感とあわせてよれた雰囲気のリズムトラックを作ることに成功した。おかげでそれにあわせて即興で弾いたギターとシンセも面白い感じになったと思う。『金魚鉢』の方は、多重録音したボーカルをMR66を使って汚して、エレキギターのフレーズはPorta Two Studioを使った。
 カセットMTRと稚拙な録音のおかげで、世にはあまりないタイプのローファイサウンドに仕上がっていると思うけれど、とはいえまあここら辺の曲は普通に「ローファイサウンド」と言って差し支えないと思う。

 でも結局この自主録音期に追及していたローファイサウンドは一年ほどで行き詰まって、浅草橋ツバメスタジオで君島結さんに録音をお願いすることになる。
 ツバメスタジオでの録音はなかなかエキサイティングで、使ったことのないアンプやドラム、それに細々とした楽器類など、いろいろ試させてもらった。特にドラムの音はまったくレベルの違うものになったと思う。その勢いで全部録音し直すつもりでいたのだけど、ミックスを進めるうちに自主録音期の音とツバメで録った音を合わせてみると意外と良い映え方をすることに気がついた。
 綺麗な下地のうえのほうが、そのうえに載ったローファイサウンドの荒々しさが存分に発揮される、この発見を拡張するようにして、かつてのトラックと新しいトラックを組み合わせていった。個人的には、『新居にて』と『降霊』の二曲がこの手法の成功例だと思う。
 そんなわけで、このアルバムのなかにはローファイさとハイファイさ、比較的古い音と新しい音、それらが複雑に絡み合って記録されている。

 とはいえ、そもそも録音芸術というものは、それぞれのトラックの録音時期と録音環境のギャップを「ないことにして」、ひとつの「時間の経過」を捏造するものなので、このアルバムも録音芸術のひとつとしてそういう「胡魔化し」を含んでいる。そういう意味でいうと、各トラックの録音に時間的/質感的なギャップがあること自体はあまり意味を持たないのかもしれない。
 でも、世に出ている多くの音楽が、録音芸術にまつわるそうした「胡魔化し」のための技術をより先鋭化させて、別の時間に録音されたトラックAとトラックBのあいだの「継ぎ目」や「ほつれ」をできる限り目立たないよう工夫を凝らしているのとは違って、このアルバムはそうした「継ぎ目」や「ほつれ」の痕跡が残るような仕上がりになっていると思う。
 テクスチャーとテクスチャーのあいだの「段差」で躓くことも、時間と時間のあいだにはまりこんでしまうこともない舗装された音楽は、聴いていて疲れるし、息苦しい気分になる。それにそういうものにぼくはリアリティを感じない。「この時間軸」、「この現実」は一つしかないにしても、ふと、何かの拍子に(段差につまずいて、砂埃が目に入って、舗道の脇に落ちている雀の死体を見つけて)「この現実」から遊離してしまうような、そんな瞬間を包括するようなリアリティ、そういうものを目指してぼくはこのアルバムを作っていた。そしてそうしたリアリティのためには、複数の質感、複数の時間を平らにならしてしまうのではなく、剥離したままの部分を残しておかないといけなかった。

 複数の質感、複数の時間のあいだの「隙間」には、湿気も溜まればカビも生えるし、微生物も集まる。それに魚もおよぐし、電車もビュンビュン通り過ぎる。噂話も広まるし、痴話喧嘩も盛んにおきる。『御池塘自治』はそうした、わずかばかりにエロティックな「粘り」が宿る、「隙間」に捧げられたアルバムだ。

タム、鉄板、円のイメージ(須永)


 はい、完成しました。『御池塘自治』。間違いなく今までのアルバムで一番いいです。今までなんとなくバラバラ感のあった二人の温度感がいい具合に合ってきて、これが作れたのはバンドとしての自信につながるのでは?と思っています。

 このアルバムのドラムについて色々書いていこうと思うのですが、まず印象に残っているのはやっぱり一曲目『行楽日和』。この曲はこのアルバムのなかで一番初めにできた曲で、今や「須永ドラム」の代名詞になっているタム中心のドラミングが形になった最初の曲でもあります。もともとぼくはハイハットばっかり叩くドラムがあんまり好きじゃないのと、フィルを叩くのが苦手だったので、フィルでしかタムを叩かないみたいなドラマーも結構いるし、そのなかでハイハットばりにタムを使ったら面白いだろうなと思って、タム中心のドラムスタイルが生まれました。
 またこの曲はシンバルの代わりに鉄板を使っています(『新居にて』で鳴っているのも同じ鉄板です)。これはホームセンターとかヤフオクで手に入れた鉄板に自分で穴を開けて、ドラムセットに組み込んだものなんですけど、『擬似縁側型ステルス』の時には既にドラムセットに入れていたもののあんまり使っていませんでした。でも島崎が作ってきた『御池塘自治』のデモ群を聴いて、「こりゃシンバルバシャーンみたいな音は合わないな」というので、シンバルほど音が長くない、余韻の短い鉄板をメインに使うことにしました。

 鉄板の話でいえばこのアルバムではハイハットをまったく使ってません。代わりに『御陵』とか『金魚鉢』ではドラをアクセントとして使っています。それから『紫陽花』には、鉄板にインパクトドライバーを押し付けて発生させたギョリギョリ音が入っていますが、このインパクトドライバー担当もぼくです。『紫陽花』を録音した日は夜遅くまでレコーディングをしていて、このギョリギョリ音は終電も迫ってきて全員目が血走っているなか、一番最後に録音した記憶があります。まあとにかく、どの楽器も変な音がするけどあんまりしつこくなくて、このアルバムの雰囲気に合っている気がするってことです。

 個人的に今回のアルバムで一番面白いドラムを叩けたなと思っているのが『降霊』です。歌が結構歌い上げる感じだし、ギターソロがあるのに一回もシンバルは鳴ってないし、それどころか鉄板とかドラとかの金物すら一回も使ってない。とにかく太鼓類の使い分けだけで10分以上の曲を乗り切っています。それに意外とタム中心ではなく、ツバメスタジオで借りた胴の深いスネアが映える曲になっています。
 ギターソロの後の長い繰り返しの部分では、上下でリズムを作るのではなくて、身体で円を描くような流れを意識しながらドラムを叩いています。フレーズの繰り返しの中で円が広がったり狭くなったりしていくイメージですね。テンポは変わらず、でも身体はずっと回っている。フレーズは気持ち悪いけど、徐々に徐々に気持ちよくなってくる、そんな感じ。ぼーっとしてる時に聴いたら気持ちいいドラムだと思います。

環境音について(島崎)


 このアルバムにはたくさんの環境音が入っている。木々が揺れる音、工事の音、空気の鳴り、消防車のサイレンの音、カラスの鳴き声、ドアが閉まる音、お経、お賽銭箱に小銭が落ちる音…。

 環境音といえば、ニューエイジ系の定石である「水がちょろちょろ流れる音」というのがあるわけだけど、そういうのももちろん大好きなことを前提として、そういうものにおいて、リラクゼーションという「効能」が重視され過ぎて、環境音のキモがそげ落ちているなという感覚があった。
 というかそもそも「環境音」という語自体が、「環境音楽」の体系にすっかり取り込まれていることを考えたら、今回のアルバムの環境音は多分、「雷の音」とか「鳥のさえずり」みたいな、ゴミ過ぎて普通のレコ屋ではまず並ばない7インチとか、EM recordsが出している、『境石投げ踊り』などのお祭りの記録とか、いわゆる「フィルレコ」と近い気がする。いや、もっと照準を絞ると、そういう図鑑〜資料的なフィルレコよりも、Walter Maioliの諸作品とかSugai Kenの近作とかが持っている、その音声を放つ環境と、そこに立ち会った録音する主体が圧着した「場面」を指し示すようなフィルレコこそ、このアルバムが志向しているものだと思う。
 「気持ちのいいもの」(波の音、水の流れる音)によって一元化され得ないし、ただそれを記録するために記録するような、アーカイブ的な感覚でもなく、生活しながら偶然出会ったものをふと録音してみる、そういうラフでパーソナルな記念撮影的な感覚を持つものとして、このアルバムの環境音は位置付けられる。
 ある一人の個人が生活のなかでぶつかる可能性のある音の集積、個人的な思い出の集積が持つ彩。ぼくはそういうものが他人に理解されるものとして大事だと思っているわけではなくて、それが理解されえないのに、理解されると思っているかのような当たり前さの中で置かれた表現性が好きなのだと思う。それはプロフェッショナリズムとは対立する部分、宅録的な部分だと思う。そういう意味では今作の「インディー性」は、環境音によって担保されていると言えるのかもしれない。

河原練のススメ(須永)


 今回のアルバム全体で言えるんですけど、今回のアルバムのドラムが面白いとしたら、ぼくが普段リハーサルスタジオでドラムの練習をしていないからです。じゃあどこで練習しているのかって言ったら、河原です。「河原でドラムを練習をしていた」、それが今回のアルバムのキモです。
 アルバムの制作を始めたあたりにまずドラムセットをヤフオクで落として、それから近所の川、相模川に通うようになりました。河原のいい感じのところにドラムをセットして、そこでひたすらドラムを叩くわけです。で、腹が減ったらガスでお湯を沸かしてラーメンを食べたりして、のんびり練習していきます。

 なぜ河原かっていうと、第一、リハスタって狭いじゃないですか。あんな狭い部屋じゃ面白いリズムパターンなんて生まれませんよ。やっぱり河原で自然に向かってドラムを叩いている時にだけ生まれるドラムってのがあるんですよね。風が吹いてる音とか、鳥の鳴き声とか、環境音もずっと鳴っているわけで、そのなかで考えるドラムが、狭い部屋で考えたドラムと違うのは当たり前ですよ。
 あと河原での練習は時間拘束がないから色々試すことができます。リハスタだと練習時間が決まっていて、延長できるっていっても、延長したら金がかかるとか、余計なことも考えちゃうじゃないですか。河原だったらそんなこと何にも考えなくていいんです。自分の好きな時間に河原に行って、自分の好きな時間に練習を切り上げる。河原はリハスタと違ってめっちゃ自由。この文章を読んだドラマーはみんな河原で練習した方がいいですよ。

影響を受けた音楽(島崎)


 「何の影響受けてそういう音楽やってるの?」という質問は本当に困る。自分なりに好きな音楽を羅列した後の相手の釈然としない顔、「本当にそれだけ?」という雰囲気が先読みできてしまうからだ。「家がガチガチの仏教で」とか、「昔から三味線をやっていて」とか、「実は瞽女の子孫で」とか、そういう答えをしたら彼らは納得してくれるのだろうか。でもぼくらにそんな答えを期待してもまったくの無駄で、ぼくも須永も国道16号線と相模川の間に挟まれた郊外で育った中流家庭のごくごく普通の子どもだった。
 そういう前振りをした上で、今回『御池塘自治』を作る上で影響を受けた音楽をいくつか羅列してみる。

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 まずエスノ・ニューウェーヴ的な側面を持つDeadline Paranoia、チャクラ、Vasiliskあたりの影響はとても大きいと思う。それとフォースワールド的なラインでいうと、Rainforest Spiritual Enslavement、Mike Cooper、Walter Maioliあたりも外せない。
 そういうエクスペリメンタルな音楽に影響を受けた一方で、Dzyan、Embryo、Robert Wyattなど、クラシックロック~プログレ的な部分があるバンドからの影響をちゃんと引き受けたのは、帯化にとって今回一番新しい部分だと思う。それにクラシックという意味では、西岡たかしや高田渡などのジャパニーズ・フォークからの影響も今回は大きい。
 またそういう安穏としたフォークではなく、Death In Juneなどのネオフォークバンドたちがもつナショナルなものへの「危険な」感性をどう処理してアップデートするのかっていうことも結構考えていた。でも素朴に言ってDeath In Juneの1stの無茶苦茶さにはすごく刺激を受けた。
 あと歌っていう意味では美空ひばり、アンカナーン・クンチャイの二大シンガーからの影響は圧倒的で、でもこれはまだ全然ぼくのなかで消化しきれていない。
 それから一曲この曲っていうのでいうと、台湾のインディーロックバンドThe Moldsの『荒野大镖客』という2017年の曲だ。個別のテクニカルな部分というよりも、「台湾的なもの」でインディーロックを翻訳しなおすぞという気概が伝わってきて、その熱量とそれが成功しているか微妙な感じも含めて(という多分失敗しているから彼らはもう活動をしていないわけで)、心打たれてしまった。

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 と、こうしてばっと書いてみて、確かに自分でも釈然としない気持ちが残る。でも多くの場合は「影響を受けた音楽」というのは「影響を受けたことにしたい音楽」という、自己プレゼンと圧着したものに過ぎない。だから今まで上げた音楽には、ぼくが帯化をどう見せたいかという狙いが紛れ込んでいる。でも自己プレゼンと実際の作品が一致している音楽家がやる音楽が面白いわけがないし、『御池塘自治』はそういう「自己プレゼン」に還元していいような作品ではない。なぜなら『御池塘自治』はそういう「一致」を目指したどころか、「自己プレゼン」=自己実現のためのイメージが押し潰せなかった現実に「復讐」され続けているアルバムであり、そうした「復讐」を許容したアルバムだからだ。

 80年代のポストパンクが大好きだった高校生の頃、自分でもポストパンク的なものを作ろうと毎日ギターを弾いていた。でもいくら試行錯誤を重ねても、三味線的ないかにも「日本人ぽい」響きが消えなかった。そのときのぼくはどうにかして、自身の理想でぼくが生きる現実を塗り替えようとしていたのだと思う。
 その努力は、それからインディーロックに夢中になった20代前半まで別の形で続くわけだけど、その後、帯化を始めて音楽を作っていくなかでそういう「カッコつけ」はどうでもよくなり、どうしようもなく出てしまう「日本人ぽさ」を許容するようになった。
 だから明確な「この影響」というのを言い募るばかりなのはこのアルバムにおいてはそぐわない。多分大事なのは、ぼくと須永がなぜかお祭りが盛んな町内で生まれ育ち、夏祭りの前には自治会館で和太鼓を練習し、同居していた祖母が大音量で流す演歌や民謡を聞かされていた、そういう消極的な影響というか、どうしようもなくぼくらの身体に張り付いてしまっている要素なのだと思う。
 ぼくらは楽器が大して上手くないので、自分たちの手元にあるもので面白いことをするためには、そうした「どうしようもない身体性」を使うのが一番効率的だという意識もある。でもそれは「選択」よりも「諦め」といったほうが適切なのだと思う。ぼくらが「選んだ」のは、「選択」できないことを「諦める」、そのことだけだ。
 ぼくは別にトラディショナルな日本文化に精通しているわけでもないし、今後もそういうものを強い形で引き受けるつもりはない。ぼくらが引き受けるとしたら、「トラディショナル」と呼ぶにはあまりにもくたびれていて、どうしようもないくらい小さなスケールのローカルな現実だけだと思う。

 郊外に生きる子どもが、身近にある和太鼓にも演歌にも、そしてJ-POPにも夢中になれなくて、ギターを始めてしまうくらいには「トラディショナルな文化」の純粋さは維持されておらず、かといって舶来の文化で自身の身体性をすべてを塗り替えるには、「トラディショナルな身体性」が影を落としてしまう、それくらいのローカリティ、その程度の「現実」。

影響を受けた音楽‪(須永)


 続いては『御池塘自治』制作中によく聴いていた音楽についてです。まず一つ目は台湾のバンド。Islands Futurismのデビューアルバム『Alslanders』です。
 台湾のバンドはそこそこ聴いていたのですが、ドロっとしたいわゆる台湾サイケバンド的なものばかり聴いてきた中で、サイケにとどまらずアフロ、民俗音楽、ジャージーな部分やフォークっぽい部分など、何でも織り交ぜて独自の台湾音楽を構築しているIsland futurismは異質な存在でした。
 『御池塘自治』の製作にあたり帯化が持っているサイケ的なドロっとした部分、近寄りがたい部分をもう少しマイルドに心地よく、でも気持ち悪い感じにしていくのに参考になったアルバムでもあります。今作でかなり聴きやすい音楽になったのは、彼らの音楽に影響を受けていたからかもしれないですね。

 二つ目はベルギーのジャズロックバンドCosの1stアルバム『Postaeolian Train Robbery』です。フランス語とジャズロックの複雑なリズムの組み合わせは一見小難しい感じに思えますが聴いている内に意外と馴染んできます。
 特に1曲目のプログレ感溢れる『Postaeolian Train Robbery』はかなり聴き込みました。複雑な展開なのに全楽器がまとまる瞬間のあの感じを帯化でもできたらいいなと思って、『御池塘自治』でも随所に「まとまり感」を感じられるような工夫をしました。フリーな部分と規則的な部分の絶妙なバランスを意識する上でも今回こういうバンドのサウンドにかなり影響を受けています。
 ドラムサウンドも好みで、テクニックがめちゃくちゃあるのにリズムのヨレを気にせず突き進む感じが随所に見られたりしてドラマーとしても素晴らしい才能があるCos。しかし1st以外は好みじゃないのが残念。でもこの1stは最高。

 最後はPink Floydの『Meddle』。Pink Floydを聴いてからドラムの概念が大きく変わったといっても過言ではない程、Pink Floydはぼくにとって無くてはならないバンドです。そして特にこのアルバムはドラマーとしての須永を大きく飛躍させてくれたと思ってます。
 数々の環境音や独自のアンサンブルを駆使した曲達、ドラムがドコドコ、シンバルがシャンシャン。「こんなにドラムって自由に叩いていいのかよ!?」と思ったのを鮮明に覚えています。自由なドラムと、自由なギターが鳴り響くこの感じ、でも他のバンドとは何か違う。激しいのにうるさくないこの感じ。脱力と非脱力の狭間で揺れ動く肉体と精神の演奏。
 このアルバムを聴いて以降、ぼくはとにかくタムを多用するようになりました。時には皮が破れるぐらいぶっ叩いたり、時には金魚すくいのポイが破れないぐらいの力でやさーしく叩いたり、自分にしかないリズム感が何かを探求しています。Pink Floyd。ありがとう。

水族館、池塘と餓鬼田(島崎)


 冒頭では「餓鬼田」について、池塘を「餓鬼たちが飢えをしのぐためにこさえた田んぼに見立てたもの」と書いたけれど、この話には続きがある。餓鬼が「田んぼ」で育てる稲のような植物は、高湿原の環境のなかでは実をつけず、餓鬼はその飢えをしのぐことはできない、というのだ。腹を空かせた餓鬼たちは痩せた土地で実ることのない稲に似た「何か」を育て続けている。
 2022年の9月、ぼくの状況はまさに餓鬼田の餓鬼そのものだった。ミックスをこねくり回し続けては頭を抱え、時間ばかりが過ぎていく。日々増していく夏の暑さ。何もかもにうんざりしたぼくは水族館に行くことにした。

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 向かったのは葛西臨海公園にある水族館。展示の目玉はクロマグロということだった。でも大きな水槽を回遊するクロマグロのギラギラしたメタリックな色合いや尖ったボディは、なんだか見ていて疲れるものだった。
 クロマグロが回遊する水槽の前では水族館のスタッフが、クロマグロの身体が「泳ぐ」ということにおいてとても合理的なのだ、と盛んに宣伝していた。潮の流れに沿ってソフィスティケートされた身体の無駄のなさ、格好良さ。クロマグロたちは大きくて「偉大な」海と対峙し、自身の身体性を遺憾なく発揮し泳ぎ回っている。そういうものには全然興味が持てず、クロマグロの展示に長居することはなかった。
 ぼくが興味深いと思ったのは、クロマグロなどの派手な海洋生物の展示が終わり、少しずつ地味で身近な展示が増えてくるエリアに展示されていた汽水域(海水と淡水の混ざり合う水域)の岩場や干潟に住む生物、例えばカエルウオやトビハゼ、あるいは水族館の別館、淡水生物館に展示されていたクサガメやイモリなどの水棲生物たちだった。

 汽水域の岩場に住むカエルウオは海水が苦手なようで、岩場の複雑な地形で海水に落ちることを避けるために、尾ビレをくねらせながら岩場の間をジャンプし、吸盤かあるいは手足のように発達した胸ビレで着地する。干潟に住むトビハゼはカエルウオとフォルムは似ているけれど、カエルウオよりさらに地味な生物で、ぬぼーっとした表情をするばかりで、基本的にはほとんど動かない。動きがあったとしても、身体の湿りを維持するために時たまゴロンと干潟を転がるくらい。トビハゼの展示の横には「まずは30秒間トビハゼをじーっと見てください。そうすると彼らが特徴のある動きをしていることがわかります」と書いてあるが、ほとんどの人はその文章を読まず、動かないトビハゼを一瞥して通り過ぎてしまう。

 多くの人が彼らの展示を通り過ぎてしまうのは、彼らの身体に、何かしらの運動を最大限に引き出すためのわかりやすい特徴が備わっていないからだ。泳ぐために存在したはずのヒレはジャンプに使われ、水中で呼吸するためのエラは退化している。彼らは「泳ぐ」という行為をその特徴とするところの魚としても中途半端だし、陸地で「走る」、「ジャンプする」という行為を披露する陸上生物としても中途半端だ。彼らは陸地に完全に進出し、速く走ることも避け、海に留まって速く泳ぐことも避け、その境である岩場や干潟にとどまり、中途半端な跳躍をしたり、干潟をゴロンと転がったりする。

 淡水生物館に展示されていたクサガメやイモリにも似たところがある。クロマグロの洗練された泳ぎと比べて、彼らの泳ぎはとても中途半端だ。彼らはもはやヒレですらない手足をバタバタさせることで、少しのあいだだけなら水中をしなやかに移動できるものの、推力は徐々に落ちて、緩慢なスピードで水中を漂う。彼らが持っているのはやはりヒレではなく、ヒレとしても使える手足に過ぎない。
 しかしカメやイモリの中途半端な「泳ぎ」でも、彼らが住む池沼では「泳ぎ」として十分なのであって、彼らは「海」に進出して洗練されてしまう必要がない。彼らは水辺にとどまる。ぼくはそれがとてもいいことのように思った。

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 『御池塘自治』のカセット版には、餓鬼と餓鬼田の絵を入れることは決まっていて、随分前からデザインも大方できていたのだけど、CD版のデザインはまったく固まっていなかった。
 家に帰ったぼくはすぐさま筆をとって、その日見た水棲生物たちをいくつかスケッチしてみた。そのスケッチを使って、池や沼の生態系をイメージした大判のCDジャケットを作ることにした。不思議なことに、デザインが進むと同時に音源の方もスルスルと進むようになった。
 カエルウオやトビハゼやクサガメやイモリの、妙なデコボコが目立つ洗練されていない身体のライン。海のような「速い」循環の外の、「閉じた」場所でゆっくりと、揺れるように泳ぐ彼らのフォルム(そういえば餓鬼の腹も出ているのだ)。ミックスとデザインを進めるあいだ、そんなイメージが頭のなかでぐるぐる回っていた。
 思い返せば、ぼくらは初めから「海」に行くつもりなんてさらさらなかったのだ。何を悩んでいたのだろうか。ぼくらは水辺にとどまる。それでいい。

サポートドラム、気持ち悪さと自由‪(須永)


 島崎が『御池塘自治』のミックスをしている間、ライブもないし暇だなあと思っていたら、Cairophenomenonsというインディーロックバンドからサポートドラムのお誘いがきた。カイロはぼくらなんかよりもずっとキャリアがあるバンドだけど、実は帯化の初ライブがThe Ratel、カイロ、帯化のスリーマンというかなり意味のわからないメンツでのライブで、そのライブの時からぼくのドラムが気になっていたということだった。
 元々のカイロはインディーロック然としすぎていてあまり好みのバンドではなかったのだけど、新生カイロの曲を聴かせてもらうと、色々なことをやろうとしていて好感を持ったので、サポートをやってみることにした。

 始めてみたら今までやってこなかったようなタイプのドラムをプレイすることになって、とても勉強になったし、その経験を通してドラムも上手くなったと思う。でもギターが二本、ベースが一本いるバンドでドラムを叩くと、なぜどのバンドもドラマーには個性がないのか、その理由が身をもってわかった。
 ぼくは普段ドラムを考えるとき、島崎の作ったデモとか、目の前で島崎が弾いているフレーズに合わせて考える。でもその時は島崎の弾くギターとボーカルにさえ合っていればいいわけで、それ以外は本当に何をやってもいい。聴いたことがあるようなフレーズになってしまった部分はどんどん削ぎ落としていけば、自ずと面白い曲になっていく。
 でもカイロではそうもいかない。ドラム以外に鳴っている楽器がボーカルを入れたら4つもあるし、ジャンル的な制約もある。そんななかで演奏をすると、ドラムを「考える」脳みそじゃなくて、ドラムを「合わせる」脳みそになってしまって、フレーズが展開していかない。この世界につまんないドラマーばっかりなのは、みんな同じ形でバンドをやっていて、その形態に合わせたドラムばかりがはびこっているからだ。

 それに4人でやっていると、ホワイトボードに、「ここは何回繰り返す」とか、「ここはこうする」ということを書き出して、みんなでそれを見て練習するみたいな、いかにも練習というスタイルになってくる。その感じは会社と似ている。何時に出社して、この取引先に何時に行って、帰ってきてアレやって、というスケジュールが、他の社員とのスケジュールの兼ね合いのなかで決まっていく。これは4人だとスタジオの時間を決めるのに一苦労する、みたいな現実的な話ともつながってくることだ。
 それと比べると帯化は自営業が二人でやっているみたいなバンドで、規制をかけ合うことが最小限で済むし、自分の責任で好き勝手やることができる。「この日はしんどいから練習休むわ」というのも言えるし、ここを何回やって、みたいなプレイには絶対にならない。ホワイトボードも必要ない。

 『御池塘自治』のドラムは「ちゃんとしたバンド」でやっているドラマーが聴いたら多分何をやっているかわからないだろうし、気持ち悪く感じる気がする。でも自分のドラムの長所は「気持ち悪さ」にあると思っている。そしてその「気持ち悪さ」は、バンドメンバーが二人しかいなくて、無数の可能性が宿る隙間が存在するからこそ生まれる。
 もちろん、営業がうまくいってとか、会社の評価が上がってみたいなのが気持ちいい人がいるのはわかるし、そういう風に音楽をやりたい人がいるのもわかる。でも自分は社会に揉まれるということを避けてきた人間だし、根がダメなやつなので、そういうのはあまり向いていない。だから帯化は「会社勤め」している人からすると「なんだこいつ」と思われる音楽だと思うけど、そうじゃない人には刺さる音楽だと思う。だから逆にいうと、みんなの規律性がなくなったらぼくらはもっと売れると思う。

御と帯、幽霊と妖怪(島崎)


 日本のレコード文化には「帯」という変なものがある。音楽を録音してパッケージしたものに、さらにもう一段階の装飾を加えてしまう「帯」。レコードの内容物である音楽がもっとも大事なはずなのに、そういう価値の力点を「内」から「外」にズラしてしまう「帯」。
 日本語には「御」という変な接頭語がある。それは人にも物にも場所にも動詞にもくっついて、それを無理やり「大事なもの」にしてしまう。それが「大事なもの」だから「御」をつけるというより、それがくっつくと「大事なもの」になってしまう。つまりそれがなぜ大事かという意味/価値の次元とは独立して、「大事なもの」を無理矢理捏造してしまう。
 「御」という接頭語には、ぼくらが住んでいるこの国の「ダメさ」と「面白さ」が詰まっているように思う。意味のない「マナー」を喋り立てるマナー講師、お菓子やインスタント食品のパッケージを埋める過剰な注意書き、驚くほど丁寧な梱包で包まれた郵便物、数々の儀礼の中心に鎮座する天皇。「大事なもの」がどんどん量産/捏造されて、息が詰まっていく。

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 このアルバムのタイトルに「池塘」という語を入れることは初めから決めていて、そのあとそこに「自治」という語を組み合わせることを思いついた。
 バラバラで「自然な感じ」がする池塘という語に、政治的で人工的な自治という語。でも「池塘自治」だとちょっと理性的な響きが強すぎる、というので「御」をつけることにした。「御」という語の仰々しさは宗教的なものの熱量を持っていると同時に、ぼくらの日常のそこかしこに紛れ込んでしまう身軽さを持っている。「御」は重いのに軽い、あるいは派手なのに地味な変な言葉で、その温度感はこのアルバムにはぴったりだと思った。
 それと同時にカセットとCDにも、レコードみたいな帯をつけようと思いついた。色々考えて、カセットはノシっぽい雰囲気があるラフで真っ白な紙を、CDは厚みのある和紙を使うことにした。

 いままでぼくらはカセットをブルーシートで包んだり、多摩川で拾った石に音源をDLできるコードをつけて売ったりと、変化球のフィジカル制作しかしてこなかった。それは、音楽をフィジカルを通して聴くという行為がもてはやされるようになったのは、あくまでストリーミングサービスによる「音楽の自由化」の反動に過ぎなくて、レコードブームなんてものが起きたのも、音楽がかつてなく軽く(物理的に、価格的に)なったからこそ、古くて重い(物理的に、価格的に)レコードというメディアが求められるようになった、そういう現状認識があったからだ。
 ぼくらの今までの作品は、音楽メディアは「聴くためのもの」ではなく、音楽に金をかけるためのもの、音楽を物理的に所有するためのものに変わったという、この変化を戯画化させたものだった(どうやっても聴けない石、開封することを躊躇うカセット)。ちょっとそれっぽく表現したら、音楽メディアの存在の「意味/価値」を問うような批評的な音楽メディアを狙っていたということだ。

 でも今回はそういうものにはしなかった。カセットもCDも開けて聴けるように作ったし、人々をギョッとさせたい、ビビらせたいという狙いは含まれていない。むしろ普通のCDやカセットと一緒に、「ちょっとした工夫が施されたもの」として流通してしまえば良いなと思って作った。音楽メディアの意味とかそういう「デカい」ことを考える代わりに、アートワークのこととか、紙選びのこととか、大きな意味での「デザイン」についてちまちま考えて、細々とした試行錯誤を重ねた。
 もちろん音楽メディアを巡る問いが全くなくなったわけではない。でもその「問い」は、「デザイン」にまつわるスケールの小さい作業のなかで小さく切り分けられて、CDとカセットのあちらこちらに紛れ込むような形で配分されていった。勘のいい人は「デザイン」の「奥」に何か感じるかもしれないけど、ただ表面的な「見たまま」の可愛らしさやカッコよさとしても強度を持っている、そのくらいの温度感。

 どういうものを対象にするにせよ、「意味/価値を問う」とかそういう大仰なこというと、実際の現実の状況からどんどん遊離していくもので、そういう活動は主観的には神の視点から見下ろしているようなつもりになっているけれど、実際はただ孤立していてなんの影響力もない引きこもりに過ぎなかったりする。ぼくらは放っておくとそういう方向に行きがちなバンドで、でも「可愛らしさ」や「かっこよさ」が持つ素朴さはそういう「神の視点」を現世の側に引き戻す機能を持っている。
 でも引き戻されすぎるとただの「人の視点」になってしまう。それは何も変えていかないし、何よりも退屈だ。だから微妙な距離感、微妙な違和感、あるいは諸々の工夫として、「問い」をデザインのなかに実装する。紛れ込ませる。
 それはつまり、「神」と「人」のあいだ、理想と現実のあいだ、幽霊や妖怪の視点でものを作るっていうことだ。幽霊や妖怪は「神」のように人々を見下ろさない。むしろ人混みに紛れることで人間と見分けがつかなかったり、時に自分自身を人間だと勘違いしたりする。そのレベルでものを作っていく。そのレベルで「問い」を残していく。

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 ぼくらの国には何か芯の通った強い原理がない。だから原理をめぐる議論は空転して、個別の利権の問題や、党派の話題に議論が矮小化していってしまう。多くの人がそのことを批判している。ぼくだってダメだと思うことばかりだ。でもそれで「神の視点」からものを言っていても実際に「人」は話を聞いてくれない。現実は変わってくれない。だからこの国で本当に何かを変えたいなら「神」でいることをやめないといけない。幽霊になることを、妖怪になることを、人混みに紛れることを恐れてはいけない。
 ぼくらにできることは、少しずつデザインを変えていく、「御」を改良していく、それ以外にはない。ぼくらは今回の音源を作るなかでそのことを観念したのだと思う。

歌詞について、母国語を享楽する‪(島崎)


 ぼくらのような「本格的な音楽性」(自分で書いていてすごく恥ずかしい形容だ)を持つバンドが歌詞について、特に日本語詞について書くのは難しい。
 というのも、この国で音楽を深掘りする趣味を持つことは、海外の音楽に興味を持ち、直感的に理解できない言語=英語を聴く習慣を持つこととほぼ等しいからだ。そしてそうした習慣が、この国の多くのバンドマンたちが実践する、英語でバンド名を名乗り、英語で曲を書くというスタイルを支えている。直感的に意味を解するのが困難だからこそ「透明」で、「クリア」で、「ニュートラル」な英語という言語は、ある程度意味を担保しながら、同時に都合よく意味への「照れ隠し」をしてくれる。
 かくして「ぼくら」は、「透明な言語」のなかで、「言語に頼らない『純粋な』音楽表現」に専念できるようになる。社会や音楽以外の文化から自らを切り離し、「純粋な音楽表現」で戯れる「音楽オタク」たちのための「透明な遊び場」…。極端にいえば、そういう構造のなかで言語=歌詞は不要なものに過ぎない。
 と、こういう状況に対して問題提起をしたかったわけではないのだけど、せっかくなので、今の話に『御池塘自治』の歌詞の話を無理矢理代入して書いてみる。

 『御池塘自治』の一曲目、『行楽日和』は、「生殖器がふわーふわーっと/秋も良いねぇ/ピクニック気分/フリマで並んだ子宮/あ、あと精子もだ/硬い床もないから/抜けてった」という、なかなか強烈な歌い出しで始まる。
 ちょっと野暮なようだけど思い切って解説してしまうと、『行楽日和』の歌詞はエロティシズム/生殖の解体をテーマにしている。生殖器や身体の部位が、「フリマ」=市場に売りに出され、購入/選択可能になるというSF的な想像力と、そうした状況を実現したいという「ぶっ飛んだ」欲望が、この曲のなかでは描かれている。この表現が小難しく感じるなら、生活にまつわる「めんどくさいあれこれ」への強烈な嫌悪感に支えられた欲望をテーマにしていると言い換えてしまってもいい。人類が積み上げた歴史が規定するジェンダーや言語や政治の枠組みを全部吹き飛ばして、ゼロベースでやり直したいという欲望。秋晴れの空のようにすっきりしていて、クリアで、自由な欲望…。
 多分、この「めんどくさいあれこれ」を解体したいという欲望と、「透明な言語」で音楽を作りたいという欲望は、やっかいな「内」の事情は全部なしにして、「外」でやり直すことを希求するという意味では同質のものだ。
 では、『行楽日和』がそのような「外」に向かう欲望をがぶちまけた後、『御池塘自治』はどういう展開をしていくのか。

 そもそも『行楽日和』は歌詞だけでなく、曲調や演奏も含めてとても派手な曲だ。けれど『行楽日和』以降、このアルバムの音楽的な展開はどんどん地味になっていく。そしてそうした展開と同期するように、『行楽日和』が燃やし尽くそうとした「めんどくさいあれこれ」、葬式やら、選挙やら、市役所の手続きやら、そういったモチーフが歌詞の中に繰り返し現れるようになる。
 以前だったらこういうしみったれたモチーフを歌詞のなかに入れることはしなかったと思うし、なんなら、『行楽日和』的な想像力に基づく歌詞ばかり書いていた時期もあった。でも今回のアルバムは、「しみったれたもの」に向き合おうと思った。この心境の変化は、自分たちのレーベル、造園計画の帯化以外の作家のリリースが本格化し、「何かを続けていく」という「持続/運営」の問題を考えるようになったことと関係していると思う。
 そうした意味で、『御池塘自治』は、『行楽日和』的な想像力をわずかに残したまま、「しみったれ性」に傾きつつある今のぼくのメンタリティが反映されたアルバムなのだと思う。そして、「クリア」で「透明」な言語に守られた、「音楽性の純粋な探求」を挫折させる、日本語という言語を使ってぼくらが音楽を作っていることと、この「しみったれたものに向き合う」というテーマは強い形で結びついている。

 ぼくらは、居心地の悪いこの国と、ままならない日本語という言語を、全肯定しないまでも「ある程度」受け入れて、それを折り曲げたり、ずらしたり、書き加えたりしながら、音楽と、音楽と結びついた生活を続けていく。そこにつきまとう微妙な苦味を、味わうように、あるいは戯れるように。

付属音源、『追伸、追而書』について(欄外)


 このZINEには『追伸、追而書』という音源集が付属しています。タイトルにある「追而書(おってがき)」という聞きなれない語は、その手前にある「追伸」とほぼ同義の言葉で、手紙の最後に付け加えられる本文とは無関係の文のことをいいます。この後に詳しく書いていく通り、この音源集は『御池塘自治』という作品を生み出すために削り取られ、捨て去られていった、老廃物、あるいはメモ書きのような部分を、大雑把に束ねて作り出された音源集です。そうした形成過程を持つため、この音源集は非常に拙いものです。でもぼくは未発表音源の持つチープさや思い切りの良さが昔から大好物なので、こうやって形にしてみた次第です。

 この音源集のオープニングトラックは、賽銭箱にお賽銭が落ちる音をそのまま採用した、曲などと呼ぶのもおこがましい無加工の録音物で、2022年の年明けに初詣に出かけた際に録音されたものです。『御池塘自治』に収録された『地方/痴呆』という曲にも、この環境音は部分的に使われています。
 続くA2『TestMD421/AKG310_9/9/2021』は、ヴィンテージマイクやカセットMTRなど、「自主録音期」に買い集めていた機材を試すために録音された音源です。『河原結社』のアコースティックな音響感を引き継ぎつつ、もう少しスピリチュアルっぽい雰囲気が付加されています。A3『鏡池_MR66』、A7『Test3_Porta2』、B2『Blackbird_Test』、B4『mr66_実験/2021』なども同じようにテスト録音のために作られたもので、『Test3_Porta2』に関しては『金魚鉢』のアウトロにも使用されています。ちなみに曲名には使用した機材の名前が入っています。
 A4『Kourei_波_Studio_試作』は、2020年の夏頃にリハスタで録音したセッション音源と、『降霊』のイントロにも使われている波の音が組み合わされた楽曲です。スピーカー左側の波の音とは別に、スピーカー右側にも波っぽい音が入っていますが、これは『降霊』のイントロ後の歌パートで使われているのと同じ音で、元はヒスノイズ(録音される際に入る「サー」というノイズ)を加工して作り出した偽の波の音です。

 B1『葛西臨海公園/Studio_2020/2/22』、A6『実家_8/27/2021』も同じような音源で、『葛西臨海公園/Studio_2020/2/22』はセッション音源と葛西臨海公園で録音された鈴虫の声(『降霊』で使用)を組み合わせたもの、『実家_8/27/2021』はぼくが実家に帰った際、還暦を過ぎてピアノを始めた父が購入したアップライトピアノで「環境音楽ごっこ」をした時の音源と、バイト先のビルの隣で行われていた工事の音を録音した環境音(『新居にて』でも使用)を組み合わせたものです。
 A5『お白州』、 B5『池塘』はいわゆる「ボツ音源」です。『お白洲』はBlack Marbleなどのシンセウェイヴ系のポストパンクバンドの持っている妙な明るさと無機質さに、民謡っぽさ、フォークっぽさを付加する、というよくわからないイメージで作った曲です。『池塘』はCurrent93的なアヴァンフォークを日本語でやるというイメージで作りました。終始流れている雨の音と念仏はそれぞれ『降霊』で使われているのと同じものです。
 B3『楽しく働こう』もボツ曲といえばボツ曲なのですが、少し毛色が違っていて、あるバンドと共作曲を作ろうという話になった際、ぼくが作った案をまとめた曲です。何となくの勢いで始めた計画だったので、結局は形にならなかったのですが、勿体無いのでここで供養しておこうと思い収録しました。
 そして『追伸、追而書』を締めくくる最後の曲『エクスペリエンス』は、『追伸、追而書』のなかでは最も古い曲で、実は『疑似縁側型ステルス』に収録しようという案もありました。そもそもとても短い曲ですし、多くの人にとってよくわからない曲だと思うのですが、個人的にはここに詰まっている温度感は『御池塘自治』という作品を作る上でとても大事だったのではないかと思いアルバムの最後に置くことにしました。

 さて、そんな感じで、この『追伸、追而書』がどういう音源なのか何となく理解できたのではないでしょうか。この音源集は『御池塘自治』と比べてクオリティは低いかもしれませんが、こういうメモ書きのようなものにこそ、作家の本質が表れると思っているので、もしかしたら『御池塘自治』よりも帯化の濃い部分が味わえる音源集なのかもしれません。

次の方向性、ジャズと民謡、新機材‪(須永)


 ツバメスタジオでの録音を経て、自分のなかで何が変わったかといえば、機材へのまなざしだと思います。

 ツバメスタジオにはシンプルなロックバンドが使うようなドラムもあれば、もっとべちゃっとした音がする変なドラムもあって、君島さんは曲に合いそうなドラムセットを次から次に引っ張り出してきてくれました。
 ツバメスタジオで借りた深胴のスネアは音が重たいけどうるさくなくて、角がないマイルドな音がしたし、それから、ロートタムという独特の方法でチューニングできるタムもレコーディングでは使わなかったけれど、後になって良さがわかってきました。あと、70年代から80年代にジャズ上がりのドラマーがプログレバンドで使っていたという、メロディックタムというタムを『紫陽花』を録るときに使わせてもらったのですが、これがまたいい音でした。ツバメスタジオの録音でわかったのは、機材についてちゃんと考えないとダメってことです。その学びを形にすべく、『御池塘自治』の録音を終えたぼくは、深胴のスネアとロートタムとメロディックタムを買い集めました。

 それからプレイの側面でも少しずつ意識が変わってきています。ロックの基本である8ビートは誰でも聴いたことがあると思うのですが、ジャズの8ビートの価値はロック畑ではあまり知られてない気がします。でもこれを極めれば凄いと思っていて、最近は徐々にそっち方面に叩き方をシフトチェンジしているところです。
 あとロックのドラムは太鼓類の役割が限定的なのに対して、ジャズの8ビートや4ビートは基本ライドとハイハットでリズムを作っていくので、太鼓類がアクセントとしてちゃんと輪郭を持って機能しているのもいいなと思っています。
 そういう意識の変化もあって、最近ライブでやっている『遊園』とかは割とジャズ寄りのプレイになっていて、このジャズ寄りなプレイに民謡の肝である「拍の強調」を混ぜるスタイルが意外と合いそうなので、深胴のスネア、ロートタム、メロディックタムなどの新機材を活かしながら少しずつ形にしていきたいと思います。

 ぼくらは既存曲のライブアレンジのなかで次のアルバムの方向性を準備していくタイプなので、ライブに来るとここで言っている意味がわかるかもしれません。何にせよ、ぼくは引き続き河原で研鑽を積もうと思います。

弊と地図、言葉と未来(島崎)


 ぼくらの音楽性が入り組んだものになったせいか、あるいは多様なリスナーに届いているせいか、帯化を聴いたリスナーの人たちやレコ屋の皆さんに「このバンドっぽい」、「このジャンルっぽい」という話を聞いたとき、その対象をそもそも知らない、あるいは全然意識していなかったということが増えてきました。

 例えば、3LA/Otonashi Recordsの水谷さんは『御池塘自治』を聴いて真っ先に、Peste Noireというフランスのメタルバンドの『Ballade cuntre lo Anemi francor』という作品を思い浮かべたと言っていたけれど、ぼくらはそもそもメタルをまったく(本当にまったく)通ってきていないし、存在すら知りませんでした。それからツイッターでComusっぽいという感想も見ましたが、これも全然知らなかったので、調べて聴いてみたら確かにちょっと似ているなと感じました。
 あと戸張大輔っぽいという感想もちらほらあって、戸張大輔は好きだけど、帯化をやる上で意識したことはありませんでした。FILE-UNDERの山田さんには、超アヴァンギャルドな音楽家集団Caroliner Rainbowっぽいと言われました。調べて聴いたら結構無茶苦茶で、でも確かに似ているかもしれない。それからワールド・ディスクというプログレ系のレコ屋の中島さんはレビューのなかで、「J・A・シーザー風味」という形容をしていました。ウテナは大好きですが、J・A・シーザー自体にはそれほど関心はありませんでした。

 どの言葉も、ぼくらが意識していない、あるいはそもそも知識がなくて意識しようがない部分に触れるもので、それはぼくらの意図みたいなものとはすれ違うかもしれないけれど、帯化の音楽それ自体には届いているものだと思います。『御池塘自治』は、多くの人にとって得体の知れない部分があるアルバムだと思いますが、こうして『御池塘自治』についてつらつらと書いてきたぼくら自身にとっても、全然よくわかっていないものなのです。
 でも作家が自分自身の作品についてよくわかっていないということは、当たり前のことかもしれません。そもそもぼく自身、作家による解説っていうのは、自身の作品の内実を「いい当てる」っていうことではなく、ある「エピソード」をその作品に「挿入すること」だと思っています。だからぼくがこのZINEにおいて担っている「ネタバラシ」っぽい話も、ひとつの挿話に過ぎず、作品を内側から支配するために書かれたわけではありません。
 なのでこのZINEに書かれた挿話のなかで、『御池塘自治』は全然そういうものではないと感じるものがあったら捨ててしまって構いませんし、それくらいの「軽さ」で、このZINEが示す挿話が『御池塘自治』の周りにふわふわと浮かんでいればいいなと思っています。

 そうした意味合いを込めて、このZINEには、「御」という尊大な接頭語の代わりに、「弊」という、「疲れた」、「ぼろぼろの」というような意味を持つ、弱々しい接頭語が置かれることになりました。このZINEが綴ることができる『御池塘自治』の地図はぼろ切れみたいなものです。穴だらけで語り落としもたくさんあって、主観的な思い込みにまみれています。それはぼくら以外の人々が『御池塘自治』について語る言葉やイメージが、主観的で、語り落としを含むのと同じようにそうなのです。
 そうした不完全な言葉たちは、『御池塘自治』とすれ違ったりぶつかったりしながら、穴だらけの大きな「地図」を構成していきます。その「地図」は『御池塘自治』という作品の真実の姿を転写すようなものではなくて、『御池塘自治』という作品の不完全な鏡像、あるいはブヨブヨの脂肪の集まりみたいなものです。でもそれが、作品にとって「余計なもの」で「軽い」ものだからこそ、スベスベで滑らかな作品の輪郭の上に微風のように波紋を作り出す。

 「ピッタリ」くる言葉というのは、その「ピッタリ性」ゆえにそれ自体で完結しています。続きがありません。でも「余計な」言葉やイメージは、そのチグハグさゆえ、循環して、連結して、腐敗して、何かを準備します。『御池塘自治』に与えられた、ぼくらにとっては正直いって「信じられない」ような言葉も、ある意味でぼくらのこの先の方向性の余地を見せてくれているともいえます。ぼくらはもっとJ・A・シーザーみたいになってもいいかもしれないし、メタルをやってもいいのかもしれない。そうやって不完全で穴だらけの言葉は、ぼくらをもっと遠くまで運んでいってしまうかもしれない。穴だらけの地図を行き交う微風は、いつかもっと大きい流れを作り出すかもしれない。
 このZINEもやはりそうです。こうやって『御池塘自治』という作品にまつわる挿話を挿入しながら、ぼくらは多分次にやりたいことのアイデアを紛れ込ませているのです。『御池塘自治』について書くという行為のなかで、すでに次の作品の準備は始まっています。ぼくらは気づかないうちに、このZINEで示した地図のなかに『御池塘自治』の先にいくべき方向まで書き込んでしまっているのです。地図に空いた穴を通して、もう風が吹き始めています。色々な可能であろう未来がその穴から覗いています。もう少しずつ何かが始まっているのです。

 最近、須永とのあいだで、次の作品の温度感を探り合うような、確認し合うような会話も増えてきました。まだ本腰を入れてセッションをしたりはしていませんが、ぼくのiPhoneのボイスメモには曲の断片がすでに数十個溜まっています。
 ここから何かが循環したり、時に循環から脱落したり、脱落したと思いきやしばらくしてもう一度循環に復帰したりしながら、少しずつ次の何かが進んでいく。そういう「循環」をうまく回していくためにも、穴だらけでいいから、ボロボロでいいから、こうやって何かを吐き出して、溜めておくことです。やがてその水溜りから、ウヨウヨと何かが這い出てくるはずです。
 それが本当の意味で形になるのがいつかはわかりません。全然先かもしれませんし、思ったよりすぐかもしれません。何にせよ、この穴だらけの地図の先でまた会いましょう。それでは、また。

2023年4月 

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【『弊池塘地図』+『追伸、追而書』取り扱い店舗】

3la
http://longlegslongarms.jp/music/products/detail.php?product_id=2808

diskunion
https://diskunion.net/jp/ct/detail/1008724790

ヨムキクノム
https://store.musit.net/product/-zine-tape-/743

【 帯化・プロフィール 】

東京を拠点にする二人組ロックバンド、帯化。クラウトロック、サイケデリック、ポストパンク的な演奏とフィルレコ~フォースワールド的な音響を通過しながらも、それらが漂白できない日本民謡的な感性が、好事家のための音楽に留まらない「俗っぽさ」=ポップネスを構成する。

2019年3月に『末梢変異体/群島理論』を自主レーベル造園計画からリリースし活動を開始。以後、klan aileenの澁谷との協働で制作された1stアルバム『擬似縁側型ステルス』、多摩川中流にてアコースティックギター、メタルパーカッションなどを持ち込み自主録音された2ndアルバム『河原結社』を立て続きにリリース。2023年にはおよそ2年かけて制作された3rdアルバム『御池塘自治』をリリース。

ブルーシートと麻紐で緊縛されたカセット、河原で拾った石、水引と熨斗(のし)がかけられたカセットを販売するなど、「物を売る」ことに独特の比重を置きながら活動を続ける。

【contact】taika.fasciation@gmail.com
【shop】https://taikafasciation.bandcamp.com/music
【twitter】https://twitter.com/taika_band
【instagram】https://www.instagram.com/taika.band/

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