上京日記

あの時ちらほら観てた聞いてた、上京物語が自分ごとになった。

この期待を込めた気持ちとそれを裏返した不安は、確かに何かの表現に昇華したくなるものだ。

考えすぎて、情報を集めすぎる人間の武器はそれを言い尽くすため表現に逃げることが出来ることだとも最近では思う。

その身に余る情報をどうすれば、自分から解放することが出来るのか。表現するとしてどうすればその感情に近くなるのか考える。

上手く言い表せなくて苦しいが、言い表す手段を無くせばさらに苦しむことが分かっているからこその選択だろう。

表現により命を吹き込んで、毛細血管のように張り巡らせた表現を産むには、現実社会では御し難い「過敏すぎる」とも言える繊細さが必要となる。

これは恐らく影と光で、良い物を凄い精度で作る人を見ると、感嘆すると同時に同情心も抱く。何故ならそれを生み出せるよう人が普段苦しくない訳無いからだ。

逆に現実社会では生きやすく、考えすぎずに明るくハキハキできる明瞭な人間には羨望と同時に精細な表現を失ってしまう寂しさも思ってしまう。

この設定は恐らく変えられない。生まれた時の初期設定の感度のまま死んでいくしか無いのだ。

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