寮生会誌への寄稿(令和元年度)

(令和元年度の寮生会誌に寮務主事として寄稿した文章です。記念のため転載しておきます)

平成から令和へ

 元号の典拠についてはさんざん報道されて誰も知るところであらうが、せつかく改元のあつた年度の寮生会誌であるから備忘のため、ここに書いておくのも無意味ではなからう。
 平成は『尚書』大禹謨の「兪、地平天成、六府三事允治、万世永頼、時乃功」による。孔伝には「水土治まるを平と曰ひ、五行叙するを成と曰ふ」と述べて平と成とが類義だと解するが、『尚書正義』は『爾雅』釈詁の「平、成也」といふ訓詁を根拠に「平成、義同、天地文異而分之耳」つまり同義語だと解する。いづれにしても平成の二文字で「大事無く穏やかな」といつた意味を構成することにならう。ちなみに北海道大学の有名な学生寮、恵迪寮の名も、同じく『尚書』大禹謨の「恵迪吉、従逆凶、惟影響(迪に恵へば吉、逆に従へば凶、惟れ影響)」を典拠とする。
 大禹謨は、東晋の人、梅賾の手になる偽作、いはゆる偽古文尚書であること、清代の考証学者によつて証明済みである。平成への改元当時、偽古文を出典とすることをあげつらふやうな新聞論調もあつた。とはいへ東晋は西暦紀元おほむね四世紀、日本に当てはめると古墳時代前期のこととなるのだから、偽作といつてもさう莫迦にしたものではない。どうしても気になるのなら、もう一つの典拠として知られる『史記』五帝本紀の「父義、母慈、兄友、弟恭、子孝、内平外成」に従へばよい。ただし『史記正義』に杜預の「内は諸夏なり、外は夷狄なり」を引いて「按、契作五常之教、諸夏太平、夷狄向化也」と解するから、『史記』を典拠とする場合、平成の二文字は背後に中華思想を潜ませることとなる。これはこれで少し面白くないことになりはしないか。
 令和は『万葉集』卷五、「梅花歌三十二首并序」の序、「于時初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」に基づく。史上初めて和書から選ばれた元号として話題になつた。しかしながら東アジアの古典文化は必ず漢籍を背景とするものであつて、梅花歌の序は『文選』巻十五所収、張衡「帰田賦」の「於是仲春令月、時和気清、原湿鬱茂、百草滋栄」を踏まへる。「和書に基づく元号だといひながら、実は漢籍に典拠があるぢやないか」などと騒ぎたてるのは大人げない、といふか文化を知る者の態度ではない。「帰田賦」を踏まへて書かれた『万葉集』の歌序を典拠とする、で良からう。話は東洋古典文化に限らない。近時に例を取れば、「天国への階段」の序奏がスピリット「Taurus」のアルペジオにそつくりだとて盗作訴訟騒ぎになつた。聴き比べれば確かに似てはゐるが、しかし「Taurus」といふ曲は別段「静かなアルペジオに始まり、次第に音量を増して雄大なハードロックに展開する劇的な大曲」ではない。つまりジミー・ペイジは「Taurus」を踏まへたかもしれぬが、「Taurus」と「天国への階段」とは決して等価ではない。文化の伝承発展とはさうしたものであらう。令和の出典は『万葉集』だと述べて、特に不都合はない。
 新元号が発表されたとき「平和であれと命令されるのは嫌だ」と言ふ人がゐた。いはれのある言葉を相手にするときは少し用心するのが良い。『文選』李注に「鄭玄曰く、令は善なり」とある。鄭玄による類似の訓詁は多数存在するが、すつきり当てはまるのは『毛詩』邶風に収める「凱風」の鄭箋であらうか。この訓詁を踏まへて言へば、令は善い、すばらしいの意であり、令和の二文字で「すばらしき和諧」といふほどの意味になる。令和の英訳が「Beautiful Harmony」とされるのもゆゑなきことではない。令の字を見て命令の意味としか思はれないやうでは、ちと困る。
 主事は昭和三十六年に生まれた。昭和は六十四年にして平成となり、平成は三十一年にして令和となつた。自覚としては昭和の子なのだが、社会人としての閲歴はほぼ全て平成の内にある。年齢から考へて現役中に令和生まれの新入寮生を迎へることはあり得ない。少しばかりしんみりする。とはいへ苫小牧の寮務主事として令和最初の年を迎へ、令和最初の寮生とともに過ごすのは自分だけであると思へば、幸運な巡り合せでもある。若い諸君はきつと次の改元もまのあたりにするであらう。その時、令和最初の年に学生寮で暮したことが、すばらしき和諧の思ひ出として諸君の中にあることを切望する。

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