寮生会誌への寄稿(令和二年度)

(令和二年度の寮生会誌に寮務主事として寄稿した文章です。記念のため転載しておきます)

寮のいろいろ

 人の世は多様なものであるから、生涯、学生寮に立ち入らない人もゐれば、寮生活を複数回経験する人もあるだらう。
 地元の高校に通ひ、大学時代は貸間で暮したから、基本的には学生寮との縁は薄いのだが、高校と大学との間に予備校生活が挟まる。現役での大学受験に失敗して昭和五十五年四月、布団袋と生活雑貨少しばかりとを抱へて予備校の寮に入つた。予備校は中央区桑園に位置するのだが、寮は北区新川にある。通学距離は約4キロ。毎朝六時半、寮の食堂が開くと同時に飛び込んで朝飯を掻き込み、七時前には寮を出て予備校まで自転車を飛ばした。
 寮には管理人が奥さん娘さんと一家で住み込んでゐた。奥さんの手になる給食は、お世辞にも美味といへるものではなく、飯茶碗から箸を上げれば茶碗まるごとくつついてくる、べちやりとした飯に、胡椒の味しかしないスパゲティとか、甘辛いのではなく「甘い」魚の煮付けとかいふ珍菜を食つて過ごした。寮生諸君、高専寮の給食は大量調理で味気ないと不満だらうけれど、あれと比べたら実にちやんとしたものですよ。寮内放送マイクのスヰッチを切り忘れた状態で管理人一家の家庭争議が始まり、寮生みんな、廊下のスピーカーの下で固唾を呑む、などといふ一幕もあつた。
 親元を離れて予備校に通ふのが申しわけなくもあつたから、月月できるだけ節約して、仕送りから必ず一万円、手許に残した。十ヶ月で十万円貯めて、大学合格後、母に返却しようとしたら、お前の小遣ひにしなと言はれた。ありがたく頂戴して、専攻決定後、書籍を買ふのに使つた。節約したせゐでもあるまいが、予備校生活の一年間で体重を7キロほど減らした。
 時は移り平成十一年、文部省在外研究員に選ばれ、北京の清華大学で過ごすこととなつた。大学近くのホテルを斡旋しようかと言つてきたが、どうせなら学内に住みたいと申し入れ、留学生寮を都合してもらつた。今も忘れない、清華大学留学生楼七段三一〇室で、家内と二人、十ヶ月暮した。
 部屋には寝台二つ、机二つ、テレビ一台、背の高い衣裳棚一つだけ。作り付けの衛生室はタイル貼りの上にむき出しの便器と、壁から生えたシャワーヘッド。パッキンが悪くて便器の水は常に少量流れ続け、それなのに汚物臭が消えない。少しでも快適にしようと手を加へた。雑貨を買ひ集めたり、退寮する留学生から物品を譲り受けたり、身辺に物が増えたが、帰国する際に、今度はこちらが物品を譲り渡し、結局、出国時と帰国時とで手回り品に殆ど変化がなかつた。ミニマムな生活もできるものなのだと思つた。帰国前、家内は入念に部屋を掃除した。退去時、検分に来た服務員は、これぢや入居前より綺麗だと目を丸くした。
 人の出入りに関する警戒は我が学生寮の比ではなく、玄関には常に服務員が三人四人坐つて、おしやべりしたりヒマハリの種を囓つたりしながら監視してゐた。清華大学の教職員であつても身分証を見せなければ寮内へ入れない。外国人を守らうといふ心遣ひかとは思ふが、反面、中国人と外国人との接触を制限する意図があつたかとも考へられる。
 北京の飯は概して口に合ひ、大病もしなかつたのだが、空気の悪い中での十ヶ月はやはり身体にこたへたか、出国時と比べて帰国時には体重が7キロほど減つた。
 ここまでの経験談から粗雑に帰納すると、寮生活とは一年につき体重7キロ減らすものだ、といふことになる。もちろんこれは詭弁であつて、もしもこれが正命題であるならば、寮生諸君は高専在学五年間でおほむね消滅するであらう。主事として、寮生全員が痩せるまで勉強するのを良いとも思はない。身体の壮健を保ちつつ学業に励むのが良い。
 四十年経つて、あの予備校寮はどうなつただらう。予備校自体が閉校したはずだから、寮があのまま現存するとは思はれない。住宅が建つたか、駐車場にでもなつたか、なかなか新川まで足を伸ばす機会もないのでわからない。
 二十年経つて、Google Mapで清華大学の校園を覗くと、かつての留学生楼七段は現存するが、用途は変じて、清華大学付属中学校の外国人留学生楼となつたらしい。我我中年夫婦が静かに暮した部屋も、今では十代の留学生が若き日の思ひ出を刻む場所となつたのであらう。
 二十年後あるいは四十年後、諸君が機会を得て訪ねたとき、蒼冥寮楓和寮はどうなつてゐるだらう。今と同じ場所に、願はくは綺麗に改築されて、大人になつた諸君を迎へてほしいものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?