最近懊悩していないことに懊悩しています

 最近ちょっと立ち止まっています。
 どうも、私です(実存主義なので)。最近考えることが少ないんです。何か手についているのが常で、遊んでいたり、働いたり、携帯を見たり、本を読んだりと、思いに耽る時間が少ないんです。私は人と比べて本を読むことを好んでいます。でもそれは携帯を触る時間の代替としての読書と言う選択肢であります。『携帯を触らないのならば何をしようか』という問いを頭の中でたてたときに、Aをしようか、Bをしようか、それともCをしようか、という選択肢を用意します。これこそが現代人と言うか、私の誤りである、「常に何かをしていないといけない」という思い込みなのではないでしょうか。まず何をするかではなく、それ以前にするか、しないのかという問いを頭の中にたてるべきではないのかと思います。
 以前の私は、電車でなにかしないといけない、でも携帯を触るのは時間の無駄な気がする、だからあれをしようか、アレ(優勝)をしようか、本を読もうか、ならば本を読もうという!と言う風な考え方の手順を踏んていました。しかし次の選択肢として何もしないということも選び取れるということに気が付きました。
 でも「なにもしない」とは定義しづらいですね。ここで私が何もしないことに求めているのは、考える時間なんです。つまり考えるための雑音が大きくなければ何をしてもいいということです。息なんて止めなくても考えることはできますね。本を読みながら考えるは少し難しいですね。でも読む手を止めてみるとできますよね。音楽は僕はある程度雑音として捉えていないので音楽は聴きながらでも大丈夫です。でも僕は携帯はやっぱり魅力的なのでやめようとしても結局見てしまうので考えるのには不向きな気がします。
 でもやっぱり一番いいのは何もしないで目でも瞑りながら考えるのがいいのではないでしょうか。真逆の話ですが、最近瞑想をし始めました。心の満たされていく感覚がとてもいいです。これこそ、何もしないの人間が最も近づくことができる最高到達点ではないでしょうか。
 僕は考えることが大事なので、なにもしないというよりも、なにもせず、ただ考えるということをこれからは何をしようか迷ったときの選択肢に入れたいと思っています。
 

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