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箱庭の国にっぽん

大正13年生まれの父は先の大戦では衛生兵として戦争に行っていた。幸いなことに日本から出ることがなく和歌山に長くいた。父母ともに大阪市内で育っていたが、父の家は大阪空襲で焼けてしまい、母の家はあと3軒目というところで、戦火から逃れた。父から戦争の話を聞くことはほとんどなかった。怪我をして父に傷の処置をしてもらう時に時折そういう話を聞いた。父は空襲にあった後の、怪我人の治療にあたったという話は聞いたことがある。包帯も治療薬もほとんどない中で、火傷を負った人の治療は凄惨でとっても臭いに耐えられなかったという話だった。後年自分が大事故をして、それが火傷と同じような傷であったので、火傷の苦痛は誰よりわかる様になった。焼夷弾や原子力爆弾が与えた傷が、どれほど耐えがたく辛いものであっただろうかと。

今でも戦争を知らない子供たちであったことはずっと幸いだと思っている。もちろんベトナム戦争は記憶にあるし、ベトナムで撒かれた枯葉弾は沖縄の基地をアメリカが使って落としたことも知っている。だから日本は同罪なんだと思うけれど。でもそれは日本が直接関係した戦争ではなかった。でも、このベトナム戦争が、日本の安保闘争が始まることにもなったし、学生運動が盛んになったはずだ。でもこれに関しても、私は幼すぎて、まだよくわかっていなかった。

私が幼い頃、神社仏閣に行くと、白い装束で立っている、戦争から戻ってきたが、障害者となって働けなくなった傷痍軍人の方が、箱を持って物乞いをされているのは頻繁に見る光景であった。スッと静かに立って箱を首から下げられていたと思う。きっと日本の政府から傷痍軍人への助けはなかったのだろう。恐ろしいことに自助である。よく考えると、空襲で家を失ったり、原爆もそうであろう。戦争で無くしても、自助でみんな生き延びてきたのであろう。親を失った子たちは、靴磨きをして、橋の下で暮らして生き延びた。原爆で生き延びた方は、後ほどなんらかの保証を受けられたのであろうが、多くの方は文句も言わずこちこちと生きてこられたのだと思う。生き延びて帰ってきたら、家族も家も無くなっていた方も多かったのだろうなと想像する。

もうすでに私は日本に住んでいた期間よりも海外生活の方が長くなってきた。その中で昨今の日本を見ていると、我が祖国は特殊な環境にある、特殊な国だとしばしば思う。日本人は風景や背景を写真の様に切り取ってみれるのだろう。幼い私もそうだった、白装束の兵隊さんを見るのが怖かったら、さっと目を別に移動させる。そこには美しい日本建築がある。そしてその白装束の方は私の目線から消える。その怖い気持ちがどこかに行ってしまう。その切り取りが日本人にとっては巧みに頭と、視覚で完璧にされるのだと思ってる。

日本の伝統、歌舞伎、お茶、お花、書道、琵琶、尺八などの楽器そして格闘技全て、一つのことを突き詰めて長い間、卒業もなく生涯勉強と言って、私たちは完璧になることに時間と力を費やす。それに必要なお道具も、磨き、丁寧に扱い、それぞれの道具自体も完璧な美である。日本の着物が一つの例、手間隙をかけた一つ一つをおそろしく高価で貴重なものを大切に使う。細々に使われるもの全てが、完璧な出来を目指している。その結果か日本人は細部にこだわり、物を俯瞰的には見れなくなったではないだろうか。私たちが見るのは、細部の美しさであり、完璧な形なのだろう。

昔の日本の家には物が少なかった、きっと小津安二郎の映画あたりではそのシンプルな日本のおうちを見れるかも。我が祖父母の昔の家を考えたら、電化製品はほとんどなかったし、台所に冷蔵庫のない時代も私は知っている。井戸のない生活であった祖母のところでは、桃はふきんに包まれ、蛇口の下に吊るし、ゆっくり水をかけて冷やして食べさせてくれた。毎日買い物に行くのが当たり前の生活だった。冷蔵庫と洗濯機これはいち早く多くの庶民が手に入れたかったものだろうな。なにしろ暑くって、雨が多くって、という国だから、便利になっただろうけれど。でも家の中は木のシンプルなゴミ箱があったり、箪笥、仏壇、三面鏡があっても、物がなかった。小さな家でも空間があった。そしてそんなにゴミが出なかった。

テレビが大きく普及をした。それは上皇が美智子上皇妃とのご成婚の時だったはずだ。私も幼くて覚えてはいないが、我が家にはテレビがなかったので、祖父母たちのところで叔父叔母達と一緒に見た記憶がある。そのテレビの普及により、日本人は外国におどろき憧れることになるのだが。テレビはほとんどアメリカからのホームドラマも多く流されていた。じゃじゃ馬億万長者、奥様は魔女、スパイ大作戦。外国といえば、アメリカだったのだから。日本人の関心はマイカーを持つこと、芝生のあるお庭、コリー犬がいれば上等、応接室を持ちそこにソファ、ピアノを置き、なぜか本棚に百科事典を並べることにみんなが一斉に競い出したのが1960年。あのほとんど開かれなかった、高価な百科事典はなんだったのだろうか。

そして1970年代に入ると、海外旅行。恐ろしい消費社会の到来。なぜか免税店では、みんなが律儀に一斉に同じフランスのブランデーを3本買うのである。そしてあれも欲しいこれも欲しいと手に入れるようになる。化粧品、ブランド物のバッグ、万年筆にボールペン、お財布、いよいよそれから磁器のコーヒーカップやお皿、クリスタルのグラス、それぞれが一個一個が素晴らしい物ではあるのだが、小さいお家の中に全てそれが溜められていくのだから。そしてそれを保管して置く空間についての考慮は全くない。少なくとも我が母は全くなかった。そして家の中に空間は無くなっていく。ものに溢れる。。。。それを引き継いでいるのが現代の日本ではないかと思う。

日本人の目は写真機の目、そう思うと辻褄が合うところが多い。DNAとして昔から日本人はこれをきっと持っているのだろうなあと。日本庭園、盆栽、生花、茶道、全て小さい空間の中の美。その空間の100%の超完璧さ。

それに反して街を眺める、古い城下町や、神社仏閣、美しい海岸線、山に登っても。禁煙、座らないでください、ポイ捨て禁止、いろいろ細々とした指示がある。その上毒々しい宣伝のコマーシャルがあちこちに。一度笑ったのは犬猫立ち入り禁止という公園が。犬は人間が連れて行くとして、猫がどうして字読めるんだって。おばかという様な看板が。そしてその間から見える美しい風景。多分日本人はこの醜い広告や看板を切り取ってその美しい部分だけを見ることができるんだろうと確信した。

この真似はなかなかヨーロッパ人にはできない。まちづくりをするときに、今の景観を動かすものはだめ。昔の家を残すときに、窓の大きさを変えたり、異物を入れることはだめ。5階以上の建物はダメ。という様に、俯瞰的にまちづくりをしている。そして、立て看板に至るまで、規制や罰金制度がある。強いていうなら、自分の家であっても洗濯物を外に出せないとかもある。それはひとえに、外観を崩さないためのもの。ラテンの国イタリアやスペインは洗濯物が外に出ている国があるけれど、まずヨーロッパの国は表通り、人目に着くところに洗濯物を干したりはできない。家の中の食卓のテーブルの上にも、ものを乗せたままにして置く文化はまずない。

母が茶道を教えていたこともあり、中国に行く折に、これは蓋置にできるかしら、とかお茶のお菓子を入れるのに、と珍しい焼き物や、七宝焼のものを買ってきたことがある。これらのちょっとした工芸品は素晴らしいのだけれど、日本人の感性でいくと完璧ではないらしかった。例えば、台座の磨きが悪いので傷が他のものにつくからと。繊細なまでに最後の仕上げをする、日本の職人技と、そこまでの細かさに拘らない大陸らしさ、それはヨーロッパでも同じだと思う。


母が最初にオーストラリアに行ったときに、街の中が綺麗で、なんか人工的な感じがするのって言ったことがあった。それは多分日本で通常目にする、看板や、洗濯物、道に狭しと並ぶ、色とりどりの植木鉢、放置自転車、自動販売機がないからと後ほど彼女が言っていた。ヨーロッパのおうちにはあまりみられるところにないものが、ティッシュペーパーの箱とゴミ箱だと思う。ゴミ箱のありかって、台所、そして洗面所でそれも収納されていて、見えるところにはゴミ箱が転がっていない。


我が大正生まれの母はもったいないとか、無駄にしたくないが身にしっかりついた人でもあった。だからものを捨てることができない。頂き物に結んであるリボンや美しい包装紙。綺麗だと思ったら、ゴミ箱に捨てることができず、大切にどこかに保管される。しばらくはそれを覚えているのだけれど、なにしろ頂き物が多い日本の生活、そのうち保管をされたまま忘れ去られる。数年前に母が亡くなって、片付け物をするのだが、不毛な作業が続いた、まだすべきことがあるのだが、コロナのため、一体いつになるのだろうか。

日本の箱庭の美は、西洋のドールハウスとは違うんだよね。日本の箱庭思想は、可動に表されるように、きっと美しい自然を同じ様に家の中に移動するもの、ドールハウスは本当に人間の生活の縮小版。求めるのは自然以上に100%完璧な自然。

この日本の持つ、DNA的思想が私が恐れるものでもある。一向に回復していない、なお壊れ続ける、福島原発。そこで働く人々、本来は私たちがずっと心配して目を向けるものであるのだが、メディアも国民も、綺麗なところだけ、そして見たいところだけ見て、他は切り捨てしてしまっている。真実は大きく見ないと、部分部分見ていたら、その前に、たくさんの電柱と看板があることすら気が付かなくなってしまう。

本当に100%を目指さないとダメなものがある。それはコロナを封じ込めることなんだと思うんだけれどな。ここが完璧に全くならないことが残念で仕方がない。コロナが始まってもう1年がすでにすぎた。食べることにまだ不自由もせずに、普通の生活の延長をしている様だが、行きたいところに行くことはできなくなっている。多分これが私たちの新しい戦争なんだと思う。いったいいつまで続くのだろう、父や母が経験したのとは違った形の戦争。それがこんな感染病であるとは、映画の中の事で現実でおこるなんて。

貴重な時間だと思って、毎日過ごす。そして私は自分のワクチンの順番が来たら、打ちます。したいことはしてきた、思い残すこともほとんどない。ワクチンをしていかない限り、終わりのない戦いが無闇矢鱈と続くのではと思うから、進んで実験者になろうじゃないの!が正直なところかな。