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私の戦争の話

敗戦記念日の8月。我が家では犬、夫、私の誕生日。日本にいた時は弟も8月誕生日、という月であった。うちの姉弟はお誕生会をしても誰もお友達がいなくって物足りなかったのを覚えてる。

両親はどちらも大正生まれ、戦争経験者であった。父は従軍看護員として軍隊にいた。母は学徒動員で大阪城近くの軍事工場で働かされていた。母の父、私の祖父も同じように大阪城近くにあった軍事工場で働かせられていた。戦争の話は、その当時は自然に語られていたのだと思う。戦争経験者はそのことを話したがっていたかというと、多分忘れたがっていたような気がする。ある時期、ある場所にいたら自然に言葉として出てきた話だった思う。

幼い頃に、タクシーで大阪市内、大阪城近辺を通過すると両親がその景色を眺めて、この辺りはやっぱり発展しないわねえ、とよく言っていた。今でこそホテルが建ってずいぶん開発されているけれど、大阪市内の便利の良い土地であっても開発は遅かった。両親からはそこには軍事工場があり、焼夷弾で焼かれ、多くの人が亡くなっているから開発されないと聞かされた。

疎開道路という昔からの通名を知ってるのも、大阪環状線が以前は省線と呼ぶと知っていたのも、この大正生まれ、大阪育ちの両親を持った証である。昔は便利なこともあった、両親世代のタクシーの運転手さんに疎開道路をまっすぐに言ってください、っていうと即わかる説明で楽だった。今や私より年上のタクシーの運転手さんはいないだろうし、この言葉は完全に死語となった。

父は戦争に行ったが、幸いにも内地と呼ぶ、和歌山に駐屯していた。そして父の仕事は看護兵であった。どうしてその地に行くようになったのか、どうしてそのような職種にたどり着いたのかはしっかり父に聞いていないのが残念。でも父は和歌山のことはまるで故郷を語るように話していた。そこで知り合った地元の方ともずいぶん長く連絡は取っていたことを覚えている。その父は大阪大空襲が起きた頃に看護兵として、大阪に戻って来ていた。だから空襲で負傷した人たちを診ていたらしい。まず処置をするにも、薬品も包帯もガーゼもほとんど何もない状態らしかった。だから体育館のようなところに多くの怪我人が運ばれ、寝かせる場所もないぐらいに、床で苦しんでいたとしても何も出来なかったと。ほとんどの人が火傷を受けているので、その傷が破れて、体液が染み出してきたらその匂いたるが壮絶だったらしい。この話を聞いたのも、偶然だったような気がする。決して自分からは、しない話だったから。

母はカトリック系列の女学校に行ったのだけれど、ちょうど時期は戦争に突入したために、宗教的教えは一切なく、過ごしたようだった。敵国語と言って、カタカナ表記の言葉を廃止した頃だったので、母は楽しみにしていた英語もちゃんと習えなかったと不満をずっと持っていた。その代わりに学校の校庭でキャベツや野菜を作っていた話と。キャベツが農家の方が作っているように簡単に巻いていかなくって葉っぱが花咲いたみたいに開いて大変だったと。校庭があるのならそこで、それぞれ自給自足をしろっていう軍隊からの通達だった。

祖父は元来おしゃれで、モダンな人だった。だから母をお供に観劇によく連れていった。宝塚、洋画、もちろんジャズも好きだった。芸術、芸能が好きだったのだと思う。だから歌舞伎もよく見にいっていたし、ご贔屓の人も多かった。その血を引いていた母は、戦争になる前は祖父と一緒に楽しんでいた。そのように西洋のものから影響を受けていたので、戦争が始まって新聞に大本営発表が流される中、しらっとしていたらしい。祖父は家族の中では、日本はあの豊かなアメリカさんには勝たれへん、というような言葉を発するので、母は特高にチクられて、捕まったらどうしようと怯えていたという。

祖父は山口県萩市から大阪に出て来て仕事を始めた曽祖父の一人息子だった。そして祖母は京都の呉服屋さんの娘。そんな都会育ちの両親を持った母と弟妹は直接の頼れる田舎がなく、疎開も簡単にはできなかった。戦時中の配給では食料品が足らないので、祖母の着物を田舎で食べ物に交換するのは母の役割となっていた。母は祖母が、華奢で、体も弱いので長生きできるなんて思っていなかったらしい。が、祖母は85歳まで長生きした。

昔は祖父の家に親戚が集まった。その母の実家は母が生まれた時に建てられた。その家の裏に仕事場があった。叔父に聞くと、父の実家が丸焼けになったのが、1945年6月15日の大阪空襲。その日母と祖父は大阪城近くの軍事工場で働いていたので、そこから一緒に逃げたらしい。そして二人とも自宅は燃え、もう家族に会えることはないとまで諦めていたらしい。がそこを探しにいくと三軒さきできっちり延焼は止まっていたらしい。そして家人も逃げ延びていた。祖父曰く、家にある一つの掛け軸のおかげで火災に合わない。。。という話であった。ただそれを見せてもらった記憶はない。いつか日本に行ったら、まだ叔父たちが生きている間にもう一度この話を確認しておきたいと思ってる。

今も健在叔父である母の弟は頭も良かったし、お国のためになりたいと特攻志願をしていた。でも叔父は体が小さかったために特攻に選ばれなかったらしい。だから今も元気で生き延びてくれている。その叔父からの先日メッセージが、"毎日水道から水が出てきて、スーパーマーケットに行くと物が溢れていることに感謝をしています。あなたには分からないでしょうが、戦争というのははそんな当たり前に続いていた日常があっという間に変化するのです。多分ウクライナもそうであったのでしょう。"とあった。その言葉は心に重く引っかかった。

きっと私は戦争を現実として語られた最後の世代だと思う。戦争を経ていた、両親の結婚、当時の適齢期からは二人とも遅かった。母曰く、本来結婚したい人がいたのに、その方は外地から戻ったけれど、肺結核であったらしい。その状態で両親からの許可が出るはずもなく別れたと。そしてまだ弟たちや妹がいるということで、さっさと見合いをして結婚したのが父であったらしい。母のお友達のにもかなりの比率で生涯独身の女性がいた。母の世代の人は、男性の多くを戦争で失っているので、婚約者を失った人、戻ってこなかった人がたくさんいた。そして結婚したけれど、ほとんど結婚生活をせずに夫が戦争にとられた人もいた。だから母世代の女性は公務員、学校の先生という職業婦人となった人も多い。

ガーガーピーピーという雑音の中から聞こえてきた玉音放送、内容は良くわからなかったと母が言っていた。ただ負けたということ、そしてもう防空壕に入らなくってもいいんだってホッとしたと聞いた。娘たちはおしゃれをしたい盛りだったのだろうに、お国のためにと、汚い色のモンペをはかされ、綺麗な服や着飾る機会もなかっただろうし。男性は15、6歳になると軍人さんになるのを目指し、そのまま、徴兵にとられて行った。青春などと、考えることすらなかったのだと思う。軍国少女にはなれずにいた母、お化粧をして、恋をして、観劇したり、友達と出かけ、俳句のグループで集まったりしたかったのだろう。そのような青春時代が父にも母にもなかった。それが本当に気の毒に思う。

気になる事に、日本はあの大戦をなかった事に、そして忘れようとしている。もともと敗戦記念日を、終戦記念日という名前にしているのだから。それに反してドイツという国はやっぱりすごいと思う。これでもかこれでもかというぐらいに、国民にあの戦争はドイツが間違っていたのだという、負の部分を見せつけるのをやめない。戦後50年目に私がドイツに旅行した時、当時はサテライトTVが旧東ドイツ側の小さなホテルにはなかったので、言葉のわからぬテレビをつけてびっくりした。白黒のドキュメンタリー映像のユダヤ人収容所が、そして戦争の話がどのチャンネルでもやっていた。それも子供も見るような昼間の時間に。ドイツ人の友人に聞くと、それは当たり前らしい。そのように、自分の国がした失敗を振り返り、同じ間違いをしないという主旨らしい。何という過去との向き合い方なんだろうと、かなりショックを受けた。でもこれが正しいのだろう。きっちりと問題と向き合うからこそ、その経験が生かされる。

この8月は広島と長崎の日に、いつも以上にあの経験はもう2度と人間が直面することがないようにと祈った。サポリージャの原発がロシア軍に侵略されて、危うい今、岸田首相は原発を再開しようとしている、それどころか新しいものを作りたいと。狂っているとしか思えない。

海外在住が30年以上になった私には、今だによく訳のわからないのが、閣議決定だ。そんな言葉昔は聞いた記憶がない。国会で物事は決められて揉めることがあっても、国会も開かずにする閣議決定で決めるって。それならどうして国会議員がいるのだろうか?これがわからないのは海外在住が長くなった私だけ?閣議決定で決まる国って、ファシスト感がある。

もう手遅れかもしれないが、どこまで日本は現状を修正できるのだろう。私は日本の文化や習慣や風土が好きなのである。遠くに離れてしまってあっという間に長い時間が経っている、本来は歳を取ったら日本に戻る事もありって考えていた。この3年近くで世界の状況は変わり、旅行の形も変わった。来年がどのようになるかなんて、神のみぞ知る。今日が無事に過ごせたら、ありがとうと感謝をして。人生の最終章に入ったところでこんなに平和や戦争について考えるとは、若い頃の私には決して決して思いも寄らなかった。