さーちゃんのこと
さーちゃんというのは父の一番下の妹でした。だから私のおばさんにあたりました。彼女と最後に会ったのは、幼い頃です。彼女は2014年に病気で亡くなりました。
父方の祖母とそして2人の妹は実家から10分ぐらいのところで暮らしていました。その小さな家は父が母と結婚して暮らすために買ったものだったそうでした。でも母とお見合いをして結婚が決まっていたのに、明治生まれの父方の祖父母は離婚をしたのです。母はお見合いの時に釣書に書かれていたものと,実際入籍する時の名前が異なることになりました。おまけに父の新居は離婚によって住むところがなくなった祖母達に渡すことになりました。父の実家は空襲で亡くなっていたので、離婚となる前が一体どのような状態であったのかは今となってはわからないのですが。そんなにややこしい結婚ならしなければよかったのにと私は母に言った事があります。
でも母にしたら、結婚したい男性は戦争から帰ってきたが、結核だったそうです。当然ながら両親にその結婚は反対されたようです。。昔の日本の家は兄弟も多いし、3世代同居するのが当たり前でした。そして長男がお家の商売を継ぐ。だから娘はさっさと出ていかなければ、売れ残りと言われ、未婚の姉妹がいたら、長男の結婚も難しくなるという、昭和の事情がありました。だから母の女学校時代の友人には職業婦人として学校の先生を選択された方も多いです。それは結婚したくっても、戦争で男性の絶対数が少なかったのと、戦争で婚約者を亡くしたり、戻ってこられたが病気であったりという事情もありました。それにしても、家を渡したからといっても、義姉も近所に住むところになんでわざわざ家を借りて住んだのかは謎です。義母、そして姉夫婦、未婚の妹2人、そのうち一人は知的障がい者。母の新婚生活はこの混乱で始まり、もつれた糸は生涯ほどくことができませんでした。
弟をみごもっている頃、買い物に行く間だけ祖母のところに預けて行っていました。さーちゃんは知的障がい者でした。私にとっては、さーちゃんは大きな子供でした。祖母は私とさーちゃんに、よく炒り卵、桜海老入りを作ってくれ、そして白桃を綺麗に皮を剥いて食べさせてくれ、なぜか棚の上にある講談社のイエスキリストの絵本を読んでくれました。クリスチャンでもないのにどうしてそんな本があったのだろうかと今でも謎です。祖母から私はいつも丁寧に大事に扱われていましたが、温かい懐かしさは全くありません。さーちゃんと私は、その当時全く同じように扱われていました。二人に祖母は同じ本を読んでくれ、母が来るまでの間私達はずっと玄関のたたきに静かに座って過ごしていました。そしてある日突然、さーちゃんはいなくなってました。特別の施設に預けられてしまったからでした。どこにいるの。。って聞いた時に遠い学校に行ってると、祖母ともう一人の叔母が言ったのを覚えているのです。
この複雑で微妙な家庭環境で育った私には、訳のわからない不安と怖いものがいっぱい現れて困りました。例えば、暗闇はとってもこわい。部屋の電気を消して真っ暗にするのはとっても恐ろしく、小さな電球をつけて眠る訳ですが、停電で真っ暗になると、ぐっすり眠っていたのが起きて泣き叫ぶという子供でした。そして夜遅くまで羊を数えても数えても眠れないと、眠れないとなく子供でした。無限という空間が怖かった。空を長い間見ていると、その空間の行き着くところがわからず、息ができなくなるのです。当時は精神科は頭のおかしい人の行くところ、精神診療科とか神経科とかいう区別なんてなかったのです。少なくとも一般の人の間で、パニック症候群と鬱とか発達障害という言葉すらありませんでした。よく考えると、私が起こしていたものは現代の社会では当たり前のパニック症候群だったのです。こういう言葉を知ってたからと言って解決はしませんが。もしあの時に他にも仲間がいるってわかっていたら生きるのが楽になったのじゃあないかと思います。今のように一つの病気としての名前があったのなら、母の恐怖が無くなっていたかもと思います。何しろ母はさーちゃんの病気が遺伝性のもので私がそんなになってしまうのではと怯えていたのでしたから。ネットのない時代にはそんなことについて知ったり探したりすることは今ほど簡単でなかったのです。
私のことそしてさーちゃんの事の相談が、地元の市会議員につながり、それが後の社会運動につながって行きました。、部落解放運動、原発反対、もちろん安保反対、そして三池炭鉱閉鎖の問題に目を向け、政治的に父と共に関わっていきました。その運動をしていた若き父と母は、同じ方向を向き合って楽しく過ごしていたような気がします。そしてそれは父と母どちらもが、自分たちが眼を閉じてしまっていることに対しての許しを乞うていたのではないかと思います。父も母も、私の友達である、アメリカをはじめ海外からの友人達の面倒をよく見てくれました。日本語がダメでもちゃんと教えたり、日本の食を食べさせ。文化を教え、住むところを探したり。母がお茶お花を教えていたこともあり、ヒッピーのような娘の友達から、お母さん、お母さんと慕われ、お金のない、日本語がまだ拙い留学生の保証人にもなっていました。それは父も同じです。地元の幼稚園のために、遠足の電車移動での手配を手伝ったり、運動会のお手伝いをしたり。多分、2人の中には、消そうとしても消えない、さーちゃんへの罪滅ぼし的なものがたくさん入っていたのだろうと思います。
さーちゃんは時々つたない言葉で、電話をしてきました。“にいちゃんいてる?“私が“さーちゃん元気?“って言うと、“元気“。ってそれだけ。そして父に電話を代わるのですが、父の声の中に苛立ちが入り、”わかったわかった、またすぐに行くから”と電話は温かい言葉もなく切られます。私はその会話を聞くのが辛かった。もうちょっと優しくしてあげるといいのに、と私が言っても無視をされました。そして我が家の空気は重いものに変わるのです。多分施設に会いにきてほしいと言うことだったのでしょうね。父が生存中は、季節のように春夏秋冬その施設に会いに行っていました。父にとって、どうしてもしなければいけない辛い義務のようになっていました。年末には母が特別にお重をこしらえ、お餅も焼いて別の器に入れて、お洋服などのプレゼントを持って施設に父が届けるというのが習慣になっており、それは父が倒れるまで続いていました。母に、一度ぐらい施設から年末にお家に連れて帰ってきてあげればいいのに、と言ったことがあります。でも母が嫌なのか、父が嫌なのか。。いやどちらもきっとそのことについては関わりあいたくないと思っていたのでしょうね。それは我が家では避けるべき、口に出すべきことではありませんでした
5歳ぐらいの時から始まった父のさーちゃんを尋ねるという行事は父が脳出血で倒れて動けなくなるまで50年近くの続いていました。父が倒れた時、もう一人の叔母が近所に住んでいたので、弟がさーちゃんに連絡することを頼みました。さーちゃんはかなりのショックを受けたようでした。なんだかんだ言っても、にーちゃんは彼女には面倒を見てくれる大事な人だったのだと思います。その後弟は施設に行って、施設長さんと話をして、父の代理をしてくれました、でも弟はさーちゃんに会うことをしませんでした。彼にとってはどのように接していいのかわからないだったのです。さーちゃんが具合がその後悪くなって病院に入院する時も、亡くなった後のお葬式と、お骨を受け取ってお寺に納めてくれたのも、弟が全ての手続きを父の代わりにしてくれました。それに関しては本当に感謝をしています。
ずっと存在しないものとされてきた、小さい時のちょっとの時間の共有だった私の叔母さーちゃんの話を書きました。これも私の心の中に今も詰まっている塊なんです。ごめんね、さーちゃんもっと助けてあげる方法を見つけられなくって。でもあなたの存在で私は、人権の尊重、いや私にとっては動物にしても生きるすべてのものの正当なる権利、それだけは守りたいと思うようになったの。だから自分でできることを生涯していくからね。ありがとう、私はあなたのことを忘れません。忘れない間は、それぞれの魂がこの世で生き続けると思うから。