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おまけの人生。

夫を亡くし23年、その後も父と母、そして大切な友人との別れ、我が愛犬達の死にも立ち合った。そして今さらだがようやく、生きる事の理由みたいなものがようやくわかってきたような気がする。

これについて書こうと思ったのは、昨年からCOVID 19によって、私たちの当たり前の生活が変化し、想像もしない形の新しい生活を強制されているからだ。どこの国でも、人々が先行きが見えない不安から生きることの難しさを感じているから。ウイルスとの戦争という全く新しい戦いになってしまった。

以前のノートに書いたことではあるが、母が精神的に追い詰められ、4歳そこそこの私を連れて心中をしようとしていたのを、私が死にたくないと言ったことが母をこの世に踏みとどまらせた。それ以来ずっと死と生を天秤にかけながら生きているような気がする。私は自分で生を欲し、そして母の生も選ばせてしまった。その選択は母が亡くなるまで私の責任のように覆い被さり、母は亡くなるその日まで、ずっと罪の意識と死への恐怖に悩まされていた。私は10代の中頃までこの記憶を封印していた。でも幼い頃から、パニック障害であったり、自殺願望であったり、お腹のあたりにいつも雲にかかった、見えない塊を抱えていた。中学時代に突然、その封印していた記憶がよみがえった。でもわたしは母とこの経験を語り合ったことは一度もない。数年前に亡き木内みどりさんのラジオのインタビュー女装の東大教授安富氏の話によって、私の経験が虐待されたそれである事を気が付かされた。その原因を知ることで私の人生は楽になった。残念ながら、それを知った時には、母の晩年で、母と話し合うことがついにできなかったのを残念に思っている。でもきっと最後の数日母と一緒に過ごしたことで、シェアできたのではないかと良い解釈をしているのであるが。

2012年にわたしと夫はバカンスのタイで交通事故にあっている。本来なら翌日私は日本に夫はその間サムイ島でもう少し長くヴァカンスを過ごす予定だった。ランチを取りスクータで二人で乗り戻る途中にそれは起きた。バイクなんて絶対にダメよ東南アジアでは。。。って言われるが。私たちの場合、運転していたのでもなく、ただ信号で止まっていた。突然隣車線の大型のトラックが左折で車体を振り、隣の車線にいた私たちは振り飛ばされた。。。かろうじて夫はバイクをトラックにぶつけ、そのおかげで、車の下に巻き込まれる死ぬことはなかった。夫はも私も横の道に放り出され。。。私は右足を、トラックの泥除けに巻き込まれていた。近くに警官がいたことで、すぐに救急車を呼ばれ、その救急隊が多分私のスニーカーを脱がしたのだけれど焼けつくような痛みだった。夫と私は同じ救急車に乗せられ、近くのローカルの病院に連れていかれ、廊下に残された。二人の看護婦がいて夫はレントゲン室に連れて行かれたが、私はその場に放置。医者も来ない。夫がレントゲン室から戻った時に、痛みと暑さに耐えかねた私は、大声でこの二人の看護婦に英語で叫び、インターナショナル病院へ連れて行ってくれと交渉をしていました。夫は肋骨が折れていたようで、足だけの怪我の私より従順に従っていたが、私は医者にも会えないし、絶対ダメだと大騒ぎをして救急車を再び呼ばせて、インターナショナル病院に着いた時にはすでに数時間以上が経っていた。幸に日本語通訳が呼ばれ、プーケットインターナショナル病院ではすぐに検査が始まり、その夜の手術となった。そして輸血も。。。私は意識はずっとあったものの、大出血をしていたので、あのままローカルの病院では長時間放置されて、命を落としていたことは確実であった。自分の意識があったことが生きることを選択させた。

事故の後ずっと考えていたことは、母に帰国をすると約束していたこを守れないということ。

夫は肋骨を4本と、鎖骨、そして肩の筋肉を亀裂させていた。手術もできず、テープと包帯で固定するしかない。。そして私はその手術後に足が簡単に手術で治らないという告知をされた。皮膚移植が必要な大怪我であること出会ったが、この部門は本当に無知であった。そのほかはかすり傷。踵は特殊なフイルムで巻かれ、化膿しないように常に機械がつけられモーターで体液を吸い取っていくので、痛みが酷かった。そしてその体液を吸うチューブの位置を変えなければいけないことで、3ー4日に一度は全身麻酔での手術室行きということになっていた。皮膚移植をということもあり、スイスに戻ってした方がいいであろうと。。私は24時間点滴につながれ、輸血は合計8リットル。もちろん日本に戻るなんて、夢のお話。そしてスイスからの迎えがなかなか決まらず。その間にも私は3日から4日に一度は処置のために麻酔で手術室に行っていた。3回目のその手術が遅れて夜中になった。大抵は手術室から1時間ほどで夫のいる病室に戻る。

手術室の中で悪夢は起きた、真っ暗な水の中を落ちていく、息ができない、水の外に出たい。。。と慌てて手をバタバタさせていた。そしてその時目を開けると手術室でものすごく息ができず苦しい。看護婦さんとお医者さんが慌てて、私を押さえつけていた。死んでしまうな、でも母との帰る約束を守っていない。老母を残して死ぬ親不孝だけはできないな、そのことだけが頭の中にあった。そして何も分からず気がついたのは集中治療室だった。私はまだ自分に何があったのか分からなかった。夫は妻が手術室から戻らず、夜中に大騒ぎをして、私のいるところを突き止め会いに来てくれた。ともかく生き延びた。。。

原因は点滴の量が多すぎたのか、もしくは寝たきりで排泄がうまくいっていないか、肺に水が溜まり、肺炎を起こしていたための事故。その後スイスから医療ジェットが迎えにきてくれ、36時間ぐらいかかってプーケットからスイスの病院に戻り、さらにそこでも3ヶ月の入院中で20回以上の手術をした。

骨にバクテリアが入っているためその治療をしないと、皮膚移植はできない。その間にも皮膚の状態をよく保つための手術が定期的に行われる。きっちりと皮膚移植の手術に入るまでに2ヶ月がかかった。人生の中で、あれほど、時間を早く進めたいと思ったことはなかった。毎日ベッドに居る24時間は恐ろしく長い。怪我というのは病気より辛いかもしれない。ネットがあることから、母とはスカイプで話すこともできる、欲しいものを送ってもらうこともできる、友人たちが美味しい日本食を病院に運んでくれることもある。でも早く家に、我が愛犬のいる家に戻りたい。そればっかり毎日考えていた。結構夜眠れない間に、一人で瞑想するような時間ができた。手術室に入るのも、麻酔をかけられる時、私目が覚めないかもしれない、という覚悟はあった。それと同時に、いやまだ今死ねない。。母が生きている限り、私はその責任がある。。っていうのも。

お風呂にも入れず、右足は床につくこともできず、特別な靴を履き、松葉杖で歩くという12ヶ月を過ごした。車椅子生活もした。ハンディキャップとして生きる、練習が始まった。今私を外から見ると、全く普通に見える。でも私は、義足ではないが、踵にシリコンを入れないと歩けない、足首の曲がる角度も限られている、壊疽によって足の小指はない。

誰もがハンディキャップになるかもしれない。事故は誰にでも起きる。注意したから避けれるものではない。日本の社会を見ていると、何らかの障がいを持っている人には塀がたかい。。障がい者になると、世間からうまく隠される仕組みがありそのせいで、世間とのギャップが大きくなる。

見てはっきりわかる障がいもあれば、見えない障がい者もいる。私は自分の障がいを知り合った人には伝えている。同情が欲しいのではない。醜い足を見せたいわけでもない、でもこんな現状があるんだよ。っていうことを知ってもらいたい。私たちはついつい自分だけの基準でそれ以外の基準があることに気がつかないからである。

私はヨガもジムもする。以前にやっていたフラメンコとマラソンはできない。移植した皮膚が破れやすく、痛みや温度を感知しない踵には危険すぎるから。でも消去法で行くと、できることも見つけることができる。

この経験から今の私はちょっとしたおまけの人生を送ってると思ってる。神様が私の命を持っていかずに、今ここにあるのは、生きていなさいという意味なんだろうって思ってる。仮釈放というか。。。自分の愛する人たちを守るためには自分を大切にする事なんだと。だから自分のために生きている。そして私が生きることで、誰か近辺の人を幸せにする手伝いをしたいと思ってる。

私がヨーロッパにいることの意味はずっとそれだった。1998年にスペインで夫が亡くなった後も日本に戻らずにいた理由もそこにあった。私は阪神淡路の1995年の震災の時、日本に帰国して2日目で経験した。大阪はそんなにひどい被害ではなかったが、あの時に日本で見たことは、私の人生を変えた。そして2011年の福島の地震と原発事故。スイスで津波のニュースを見て、ネットでも悲惨なニュースがあふれ。そこではっきり思った、私はヨーロッパに居よう。家族や友達に何かあった時、違う場所にいるから救えることもあるだろうと。

1980年代、日本人は我が国が災害国であることを忘れていた。お金で全て買えると思っていただろう。現に金さえ積めばニューヨークだって街ごと買えるんだからって聞いたこともあるぐらいだった。経済もイケイケで、Japan as NO .1...怖いものはない。輝ける日本円、輝ける日本旅券。

それが、今の日本になるなんて。。。1980年代の私にタイムマシーンで戻って教えてあげたい、があの当時のおバカな私にはわからないだろうけど。救いは、そこまであの経済日本のバブルを信じていなかったことかもしれない。こんなアホなことが続くはずがない。友人の何人かが、個人でも株に手を出したり、土地に投資をしたり、多くの若い投資家社長達は、銀行は潰れることがなく、日本経済はこのまま続くって断言していたが。山と一緒で登ったら、降るんではないかなと。わたしはバブルの崩壊前に日本を離れた、その後ヨーロッパでバブル崩壊の日本の現状を見るわけだ。何人かの友人の結婚生活は崩壊した。ロンドンにある証券会社が潰れたり、事業を縮小隣、私が住んでいたスペインの近所に別荘を持っていた羽振りの良い日本人ご夫婦も行方不明となった。そして私もスペインから再婚でスイスに移った。


人生のオマケを過ごしている私は、今の日本を本気で心配する。日本人よもっと自分を大切にして、もっと自分のために生きてほしい、自殺なんて考えないでほしい。私は毎日を無駄にしないようにしている。。。時間も、お金も、自分の魂も、あるものは大切にする。私が与えれるもの、私の拙い知識とか、経験とか。愛情もほしい人には与える。そして感謝をして過ごす。飢えるような状態ではない日本、物質は裕福にあるように見える日本、でも日本人の生き様は幸せそうに見えない。そこにコロナ、多くの人は精神的に追い詰められているだろうし、先行きの不安にも。そしてこのウイルスとの対応の仕方にも。

少し想像の枠を広げようよ、そして自分の頭で考えようよ、日本人。多くの人が幸せに豊かに、笑って暮らせる国になってほしい。ともかく政治を政治家任せにしないことはとっても大事なんだと思う。

みんな命がある限り、生き抜こう。毎日少しでも笑って、楽しく過ごせることを考えよう。いつまでも本当に素敵な国で、優しい民族でいてほしいから。それって、難しい事でないと思いたい。それがおまけで人生を送ってる私の願い。