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天使からの贈り物

1990 年スペインの南に移住した私たちは亡き夫の家族に会いにイギリスに車で行き、偶然にローカル新聞でボーダーコリーの子犬が3ヶ月なのでお分けしますというのを見つけてしまった。夫が電話をしてみるとケントの田舎で農園を持っている方ところで4匹産まれて、2匹残っているとのことでそんなに離れていないので私たちは即見にいくことにした。いく途中で夫は私からくれぐれも君が犬に触るんじゃあない、君が犬に触った瞬間全ての犬を連れて帰ることになるから、先に犬を見て、。。。そしてまだスペインに戻るまでに数日あるからその前に決めよう。それが段取り出会った。言われた住所のそのお家は荒れていた。庭は管理されていず、子供のおもちゃが投げ捨てられていて、いっさい手のかけられていない淋しく悲しいお家だった。電話で話していた若い女性が出てきて家に入れてくれた、閑散としたリビングルームには2匹のボーダーコリーの子犬がいた。雄犬は飼い主に捕まえられたが、雌犬は子供のおもちゃをすり抜けて、テレビの裏に逃げてしまった。その細い隙間に入れるのは私だけで、私は裏からその雌犬を取り出しそれを抱き上げ夫に渡した。驚いたことにそれを抱き上げた夫が、これを連れて帰りますと女性に告げ、私にちょっとしたお金を支払って、書類にサインをしてもらうようにと言ってさっさと車に戻ってしまった。譲渡のサインをしてもらった。夫はあの家に置いて置かれる犬がたまらず、できるなら2匹引き取りたかったのだと。えーっ、私に犬に触るなと言ったのは誰なの、と憤慨したのだが、要するに夫の方が犬には大甘で触っていけないのは彼だと思った。その子犬は本当に可愛かった。2日後に¥スペインまで車で2000キロを旅行するのだが、車の中でも賢く私の膝に座り、ホテルで泊まるときにも問題もなく、車酔い、船酔いもせずに無事にアリカンテの家に戻った。その犬タイともう1匹の年取った犬の2匹との生活は楽しかった。タイによって、庭の花や木はほじくり返され、台所に調理しようと置いていた肉を盗まれたり。何しろスペインの田舎暮らし、家の横はプライベートの飛行機の滑走路、夫がグライダーで飛びに行っている間は御迎え方々そこを散歩に行き、庭に放し飼い。予想外であった事は1年後にタイが5匹のボーダーコリーの子犬を産んだことだった。ご近所に同じボーダーコリーの雄犬を持っている忙しいイギリス人の若いご夫婦がいた。二人の幼い子供もいるし働いているし犬は放置状態だった。その犬ダンは我が家にしょっちゅうきていた。ダンは自分の子供が産まれたこともこのご夫婦はタイが妊娠していることも知らず、引っ越しをしてしまった。ちょうどその春、私は日本に一時帰国をしていた、そして夫はタイとお留守番。ちょうど生理が来ていた私は夫に気をつけて家から出さないでね、と頼んで出かけて行った。2週間後に日本から帰ってきてしばらくも兆候には全然気が付かなかった。ある夜、テレビの前でタイのお腹をさすっていると、なんか変。あれ、おっぱいが大きい、翌日想像妊娠かと思った私は獣医さんに連れて行った。彼女から言われたのは、いくつかの心音があるから妊娠していますと。それからネットもない中で、私は犬のお産について調べ、おさんのための部屋私のウオークインクロゼットの中に作った。。暗くって、静かで、誰も来ない。。。私のベッドルームにも近く。獣医さんは、あなたがすることは何にもないのよ、邪魔しないで、見に行かないで、ひとりにして置かないとおどろいて食べちゃうからね。と脅された。その日がやってきたのはわかった、タイがどこか産む場所を探し出したからだ、私のクロゼットに連れて行くとそこに落ち着くのだが、すぐに出てくる。夫がひとりにしてやりなさいと言うのだけれど、ひとりになりたがらない。結局私は全ての出産に付き合った、一つ目の袋から3匹が。。。2つ目の袋から2匹が。最初の袋から出てきた1匹を除き全て雄。全てダンの子のボーダーコリー。一安心した。

タイはまだ1歳半になっていなかったのに、びっくりするほどちゃんと母親となっていた。ほとんどを授乳する事に時間を割き、自分のトイレに行くのも食事も本当に素早く、お散歩もそこそこに戻りまた授乳それが2週間続いた。子犬たちが目を開きノタノタ動くようになるまで献身というのはこう言うことかとびっくりした。5週間経った頃から、母犬は子犬にくっつかれるのを嫌がった、もう勝手にしてよっていうぐらい、近寄ると逃げていた。離乳食を食べるようになった仔犬にはおっぱいに食いつかれると、痛いのか歯を向いて唸っていた。8週間を過ぎて、どうしても欲しいという方に渡す時が私にとっては一番辛かった、私はわんわん泣いた。とっても良いおうちにあげたし、可愛がってもらえるのもわかっていたけれど辛かった。でもタイはケロッとしていた。なんと素晴らしい動物的な世界なんだと思った。夫はその後2匹をあげるのを見た後で言った、もういい、後の犬は我が家で育てると、私が泣くのを見たくなかったらしい。そして一番犬に弱いのは私より夫だったのだと思う。その後以前から夫の飼っていた年寄りの犬は亡くなり、タイとダイアナとスポッティ3匹が我が家のメンバーであった。

1998年に夫が癌で亡くなり、私はスペインに3匹の犬と残された。私を守ってくれたのはその3匹の犬たちだった。タイは夫が闘病生活をした頃から、家を守り、子供たちをまとめる重要な役割をしていた。2000年秋身体がなんだかパンパンに張っている、獣医さんに連れて行くと身体中に水が溜まっているようだと。薬を飲ませても治らず、肝臓に異変があるとのことで手術に。そしてそれが肝臓癌で何もできないと言われ、それ以上苦しめることができず、安楽死をさせた。タイを失ったことは本当に私にとっては損失だった。そしてスポッティはてんかんがあった。突然の発作で、夜中に獣医さんに飛んで行くことも何度あったか。

2004年秋に大切な友人を亡くしたこともあり、その年末、久しぶりにお正月を日本で過ごし、新しい気持ちで新しい年に向かうぞとスペインに戻った。スポッティとダイアナのために、友人が我が家で過ごしてくれていた。日本からスペインに戻って2日後、夜のフラメンコのレッスンに行っている間に我が家は泥棒に入られた。物の見事に2階から地下のガレージと、セラーに至るまで、見事に攫い尽くされた。ダイアナとスポッティは無理矢理、庭のにおし出され、ダイアナがずっと鳴き続けたおかげで、隣の住人が何かおかしいと気づいて連絡をくれたのだけれど、その時はもう遅しであった。救いは2匹の犬が無事であったこと。その時のショックからかスポッティは致命的な癲癇を起こし、具合が悪くなり、歩けなくなり、その2週間後には亡くなってしまった。ダイアナは、怯えてしまってるし、年齢もあるから防犯には役に立たない、なんとかしなければと思い始めた。

私は当時、イギリス人が活動していた保護犬の犬舎でお掃除ヴォランティアしていた。そこには常時80匹から100匹の捨て犬や廃棄、虐待された犬たちがいた。朝早く、週に2回ほど、長靴で行き、犬舎を掃除して、犬のベッドを交換して、お掃除を昼頃までしていた。この仕事が私は大好きだった、糞尿で汚くなることもある、でも動物はいつも嘘もいい格好もなく純粋。みんな1日のうち少しの時間もらえる注目を少しでも欲しいと甘えてまとわりつく。20匹余りが入っている一つの区画の掃除は大変だった。まずそれぞれの寝床の近くで餌をあげ、それから共有のあそび場所に出す、そしてその間に汚れているベッドからタオルや毛布を取り出し洗濯に回す。そして床を消毒して、きれいにする。その間に共有の場所では喧嘩も起きるし、走り回ってわんわん鳴いている子もいる。ちょうどその時期、伝染病が犬舎で発生していたので、私たちはテリトリー分けをして、感染を広げないために、決まったところだけを動くようにしていた。私が飼い犬を亡くしたことを知っていた他のボランティアが、1匹とっても良い犬がいるのでもし考えているのなら引き取って、と言われたのがユーラであった。ユーラはその中のボランティアの一人に、偶然に救われた。スペインでのあるある話、田舎の家に犬猫は勝手に繁殖して増える、さしたる餌も与えられず、大きな田舎の家の庭に放置目的は防犯。多分ユーラもそんな農家の家に生まれ放置されていて、車に轢かれたのだろうと思う。家畜同様の犬猫登録をされることもなく、チップを入れられることもなく、飲みとり首輪もされない、お金はかけられることはない。運河に捨ててしまえっていうところ。車に乗せ運河に捨てられたのをたまたま犬舎に来る途中の女性の車の前で捨てられた。もちろん彼女は犬を助けた、ショックで仮死状態になっていた犬をやはりボランティアのイギリス人の獣医さんが治療をした。大腿骨の一部が折れていた、でも不思議なことに彼女は自分の力で手術もせずに治してしまった。それがユーラでまだ5ヶ月ぐらいだった。その獣医さんが我が家の獣医さんでもあったため問い合わせるととっても我慢強くいい犬よ、引き取ってあげるといいと思うっていう返答だった。

我が家の姉犬との相性もなんとかうまく行きそうだったので、飼うことに決めた。子犬のユーラは足がとっても大きく、うーんこれは大型犬になるな、って覚悟をしたが、まさかその後30キロ近い犬とスペインとスイスを行ったり来たりすることになるとは思いもしなかった。、ダイアナがその後寿命で亡くなり、私もスイスに落ち着くことになった。もちろんユーラも一緒に。どっしりした骨格のユーラ手のかからない犬だった、大人しく、他の犬ともうまくやる。無駄吠えしない。とっても我慢強い。そしてスイスが大好きだった、湖で泳ぐのも雪山をかき分けて歩くのも本当に上手だった。レマン湖などのクルーズにも一緒に行ったし、国境を越えての旅行もたくさんした。でもいつもスイスに戻るとここが私の生まれたところとばかりにリラックス、森に行っても、山に行っても、リード無しでちゃんと私のいうことを聞いた。子供連れの親子には怖がられることも多かったが、決して誰かを傷つけることはなかった。自分の生まれたスペインに戻ると、元気がなくなり、スイスの山に連れていくといきいきと、雪の中でも走り回り、本当に幸せそうだった。スイスで、鍼治療を受けた折りもリラックスなんでもしてくださいだし。。。同じように腰の具合が悪くなり治療が必要でも絶対に嫌がったりせず、ちゃんと我慢ができた。スイスの生活はユーラにとっては天国のような生活だったと思う。何しろ暑いのはどちらかといえば苦手で、できれば寒い方が大丈夫だったのだから。

2018年のハロウイーンの日、現スイス人の夫の両親のお墓参りに行き、その後ユーラのお散歩にいつもの湖に行った。すでに日が短くな李、風が強く寒くなっていたのだけれど、夕方の短いお散歩をした。その時突風で私の帽子が飛ばされそうになり慌てて押さえ、夫とじゃあもう戻ろうと家に戻った。私の左のピアスがなくなったことに気がついたのは家に着いた時だった。それはその夏に夫からもらった還暦のお祝いにもらった物だった。きっとあの帽子が飛ばされた時だと、湖の帽子が飛ばされたところにもしかしたら見つかるかと戻ったが、山ほどの黄色い枯葉がいっぱいある中で、そして暗くなってきていたのでもちろん見つけられなかった。その時に犬の散歩中によく会う女性が、今日はどうしたのユーラもいないで、と驚かれピアスを片一方落としたことを説明した。彼女も落ち葉の中を一緒にしばらく探してくれた。でも恐ろしい落ち葉の量なのでとんでもないが見つからない、万が一見つけたら持っていてくださいと別れた。

その年の暮れはとっても大変だった、ユーラのがんの再発、そして手術、スイス中の獣医さんを移動していたような気がする。そしてユーラは翌年2018年の2月15日に息を引き取った。

ユーラはスペインとスイス何度も行き来をした。ユーラのためにモーターホームを買って、私たちの休暇は彼女も連れてくことが一番の大事なことだった。スイスの山からスペインの海、ドイツ、フランス、イタリア、たくさん旅を一緒にした。晩年はやはり昔の傷が一番具合が悪くなり、立ち上がるのも大変になったりしていたが、それでもトイレの問題もほとんどなく、最後まで車で一緒に移動してくれていた。私たちはユーラの遺骨を、ユーラが大好きだった山に半分を持っていき、残りの半分はローヌ川に流すことに決めていた。2018年暖かくなり山に行ける機会がようやく5月のお天気が良い季節となり、夫と二人で散骨をした。

そしてその6月、私は街の中で買い物をして、エレベータを待っている間に見覚えのある女性と一緒になった。それはあの湖で会った女性だった。お互いに犬を連れていないこと、そして街の中であること、サングラスをかけていること、で気がつくまでに時間が掛かった。ユーラーが死んだので散歩にも行っていないことを彼女にも告げた。その時彼女が、私もあなたを探していたの、ちょっと待って。。と財布を出した。私は彼女が何を出そうとしているのか、すぐにわかった。それは私のピアスだった。

その場で我慢できずに泣き出してしまった、彼女に抱きついて思いっきり泣きじゃくった。ユーラの散骨が終わった後1週間もしないで、亡くしたピアスは私の手元に戻ってきた。

冬は雪で終われ、凍りついてしまう湖に、その女性が犬と散歩に行ったのも春暖かくなってから、そこで犬のボールを投げていて偶然拾ったと。名前を聞く余裕もなくそのピアスを受け取り、家に戻った。頭の中がまとまらずにする説明、夫は私の頭がおかしくなったのかと思っていたようだった、そして話を聞いた後もそんな話があるわけはないと。それから数日後、その女性を湖で探し当て、夫がその話を直接彼女から聞くまで、夫は私の車のどこかからそのピアスを見つけたって思っていたと思う。

私たちはいつかこの世からいなくなる、物は壊れ、失う、時には盗まれることだってある。不思議なことにこれは自分に属しているものだと思うものはなくしても必ず自分のところに戻ってくる。少なくとも私にはこれがよく起きる。ピアスを失なった時にまた絶対見つけれるような気がした。でもこれはまさにユーラからの贈り物だと思った。 "おかあさん私がいなくったって、元気でいてね。"

私の四つ足の天使はとんでもない方法で、素敵な愛情を遠く離れた世界から運んでくれた。いつかまた会えるよ、ユーラ。

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