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FuckUtility



どうも。



木曜担当の、そーかいです。



7月も29日、
暑さと
東京五輪に対する想いが
ごちゃごちゃしている
この街、東京。
人生の大きな岐路に立つぼくは
今日も今日とて、想いを文字に響かせます。





「大多喜撮影」について。




まず、監督の直希の提案により書いた
ミニ日記をそのまま載せます。


画像1


一文字ずつ、7月22日のぼくと、
7月23日のぼくを掬いあげたいと思う。


まず、7月22日のAM4:42。

7月21日の夜、東北新幹線はやぶさの中で
仕事を終わらせ、終電の時刻で東京駅に到着。
八重洲中央口の近くのホテルに到着し、
iPhone、モバイルバッテリーと
カメラバッテリーの充電が完了したのが、
たしか、AM2:30頃だった気がする。


少しの仮眠を終え、
始発の京浜東北線で大井町駅へ。


その車内で書いた日記である。

「ふと泣きそうになる。」は、
ここまで身を削ってまでつくりたいものがあり、
同じように身を削る仲間がいる。
ことに対する喜び。

オリンピックに対する
この国を覆う黒い靄を鼻から吸い込みながらも、
自分の肉体に微塵の変化を与える気もなく
ただ、自分たちのつくりたいものをつくる。
「刺激以外はいらんのだ。」
SUNTORYの素晴らしいコピーだ。
惚れ惚れする。


そんな胸の高鳴りをBGMに、
大多喜撮影は幕を開けた。





BGMの音は、かぼそく、
哀しいメロディーも、
もはや哀しいのか分からないほど
小さな音になっていった。



「無力感と、体力の無さを恥じた。」



これが、
ぼくの大多喜撮影を表す最適な言葉。



はっきり言って、自分の無力さに
すごい恥ずかしくなった。


直希ほどの
はなしをつくる、想いを絵にする力は無く、

わっせほどの
判断スピード、絵をつくる技術力も無く、

りょーたほど
ひとの懐に潜り込み、
場の輝度を上げることもできず、

こーたほど
場面管理力、調和力も持ち合わせておらず、

ふねほどの
世界を切り取り抜く眼もなく、

さきちゃんほどの
心を覗き、求めるものを与えようとする
温かみはなく、

しまみどほどの
落ち着き払った心の穏やかさも

けんとさんレベルの
知識量、奉仕力、素直さも



無い。


無い、という事実が明るみに出た。



自分で買ったRonin-SCの操作もできないとか、
恥ずかしすぎた。





「この作品で何をしたの?」



と聞かれると、
ぼくは答えに困り、
仕事時のぼくのように
その場凌ぎで、
綿よりも軽い単語の繋ぎ合わせで
答えることになるだろう。




結構、辛かった。






そして、もう1つぼくを苦しめたこと。





それは、





映画の監督は、1人であること。




ぼくは、この撮影を通じて初めて
映画のエンドロールの最後に
堂々と、厳かに、
監督の名前が上がってくる意味を知った。


ここまで多くの人が身を賭して
1つの作品をつくりあげたとしても
視聴者の目に映るのは「絵」のみ。


つまり、


監督は、作品における
「絵」の質の責任をすべて背負う必要がある。
と僕は感じた。



ぼくは、「絵」をつくる立場で居たい。

画面に収まるものすべての細部を見つめ、
頭の中の絵と相談しながら、
ひとつずつ描いていく。


そういうことがしたい、と感じた。







これからTAIDENにどう関わっていくか、
深い視点で考えたい。




意味を成していく
理に適っている程
静かになっていく
謎のままでいる謎は謎でいい
空いた口塞がらないような憧れ


 by Kroi from 『selva』





文:そーかい

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