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【プロの文脈】一億総クリエイター時代、孤独のすすめ

護りたいもの、それはあなたの弱点かもしれない。このトピックでは、「“孤独”という武器の使い方」を、知ることができる。愛と不安を抱えて生きるアーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 アーティストの生活実態 』

失うものの無い人ほど、強い。それは理解できることだろう。だがきっと多くの人は、失うことなど考えられないほどに、大切な“護るべきもの”がある。そのことを想い、不安を抱え、怒りを抱き、悲しみを隠して、癒やしを得ている。どうだろうか、合っているだろうか。

いや、「護れるかどうか」のはなしだ。
本当に貴方は、それを護れるのだろうか。

護りたい“気持ち”など、役には立たない。無念ながら多くのアーティストは結果的に、大切なその対象を、護れない。ならばこそ、割り切るべきだと成功者は言う。どうあがいても、「護れない」と「護らない」の結果は変わらない、と。

こころを沈めて、想い出すときだ。“創るプロフェッショナル”である貴方に、護る力など無い。あなたはアーティストであり、護るべきは“作品”なのだということを。作品を護り抜きさえすれば、未来が振り返ってくれるのかも知れない。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:有罪判決によりロシアの自宅軟禁中の監督が、カンヌ国際映画祭コンペティション選出の自作と、“孤独の活用法”を語る

カンヌ国際映画祭コンペティションに選出されているロシア映画「Petrov's Flu:ペトロフのインフルエンザ」の監督、キリル セレブレニコフが“孤独を最大限に活用する方法”を語る。

「わたしはこの、とても複雑なロシアの現代文学を映画に変える方法をみつけました。これは、“私たちの恐れ”についての映画です。ソビエトとロシアで子供時代を過ごした我々の、ね。このとても私的な作品をカンヌがコンペティションに選んだことは、異なる文化と経験を持つ人々にも、共通の何かがあることを示しているわけです。奇妙ですよ。」

あなたは撮影中、モスクワで裁判にかけられていましたね。どんな生活でしたか?「朝から午後まで法廷にいて、夜は撮影。全く眠れない時期でしたが、映画を創るプロセスがこの馬鹿げた裁判を考えずにいることに役立ちました」

あなたはロシアを離れることを許可されていませんね。「“自宅軟禁中”でしてね。わたしはこの映画で、“孤立”について自分の話を描きましたよ。今ではこうして、世界的なトレンドになった。わたしは孤立の先駆者のようですね」

パンデミック下の孤立した人々に、アドバイスがありますか?「学び、自分自身に質問して下さい。時間はあるでしょう?あなたはこの孤立の中で、“本質”をみつける必要がある。可能ですよ」
 - JULY 11, 2021 VARIETY -

『 ニュースのよみかた: 』

ロシアの反体制活動家の映画監督が裁判中に完成させた映画が、カンヌの最高賞を争っている。そのインタビューは、有罪判決の果ての自宅軟禁中に行われた。「孤独は、勉強のチャンスだ。突き抜ければ、世界で輝ける」という記事。

現政府批判の活動を行う生活に突如、巨額の国庫補助金に関わる詐欺スキーム首謀の疑いで拘束され、執行猶予付きの有罪判決。氏は現在も、自宅軟禁中なわけだ。正直、作品自体の評判はそれほど突き抜けてはいないしかし、この監督のバイタリティとリアリティは、他に類を観ない。

作品とアーティスト本人は、同率の評価対象である。アーティスト性で満点を獲得したこの監督の新作は、どこまで票を伸ばすのか、注目である。

『 アーティストのベクトル 』

ベクトル。“大きさと向きをもつ量”のことだ。
ここ「アーティスト情報局」では、自己啓発を扱わない。再現性のない成功者の談話にも、注目しない。そこで、より現実的な検証をしてみよう。

法を犯していても、世界の頂点には手が届く。護るべきはルールではなく、全力で突き抜ける、ということだとわかる。ベクトルは、大きく前向きだ。

一方で、
他人のお金で嫌われない程度の作品を創りながら趣味に生きる偽物アーティストのベクトルは、小さく後ろ向きだと言える。

大ブーイングに監督が追い出される劇場作品は、歴史に名を刻む。
教科書通りのドラマツルギーで観客の期待通りの作品を放てば、ディナー席の話題にもならない。

アーティストに必要なベクトルはともすれば、“大きさ”だけが重要なのだ。好かれよう、褒められよう、愛されようなどとは、おこがましい。

『 善いアーティスト 』

アーティストの多くは純粋で、可愛らしいものだ。感情の機微に敏感でいるために「正直」を生きた結果たどり着く場所は、天真爛漫な文字通りの“無邪気”界なのだ。ならば、彼らは善いひとたちだろうか。気をつけて欲しいアーティストはほぼ、人間ではない。

だが、“善いアーティスト”は存在する。
護らず攻めに徹し、自身の評価など顧みず痛みも苦しみも引き受けて逃げず、「孤独」という虚無の中から価値を生み出す、天才的な魔法使いたちだ。

護るものをもたず愛されず頼られない不要不急な存在こそが一般のアーティストでありだからこその暴挙が、我々に求められているとは言えないだろうか。

『 求められていないアーティスト 』

あなたのような優秀なアーティストが、まさか夜明けに目覚め、不安に押しつぶされそうになりながら創作活動に向かう日々に身体を痛め、他社評価を夢観て手抜き作品を量産し、手近なプラットフォームから発信しつつ、キャリアを気取る嘘になど捕らわれてはいないだろう。

我々のような“無名なアーティスト”は、なにも求められてはいない。

恥ずかしいじゃないか、“新作”などと言うのは辞めようどうせ前作も知られていない。善人のふりをするのは辞めようどうせエゴイズムの果てに成功者を妬み、裏をかいてでも評価されようという浅ましい毎日なのだから。我々は、求められていない。ならばこそ、“社会の常識人”としてのまっとうな生き方すらも求められていない、とはいえ無いだろうか。

つまり護るものさえもたなければアーティストは、無敵なのだ。無名の我々は“自由”でしかなく、生活そのものが世界を掴むためのチャンスで構成されていると言っても過言ではない。

我々は、アーティストじゃないか。

『 編集後記:』

カメラのレンズをみつめている。まだ電源を入れる勇気はない。ましてや、収録ボタンを押すなどとは恐ろしくて、リアリティを感じない。

アーティストが作品の外を、過程を、語る時代になった。
語るべきその瞬間はもう、過ぎている。

わたしはどうすれば、“レンズ”という銃口に向かって、微笑むことができるのか。大勢の演者たちを想い、贈る。レンズに向かって芝居をしていた彼らの全域に、全存在にリスペクトを。

今はまだカメラの背後に座す、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記