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【土下座か応戦か】著名なアーティストのSNS対処法

有名無名を問わずアーティストたちは、SNSによる批判を恐れている。一方で、如何なる状況にも順応できる達人が存在する。このトピックでは、「表現者の護“心”術」を、知ることができる。作品に想いを注ぎたい余りに社会批判を恐れているアーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 確かに、称賛と批判はペアである 』

批判されない方法は、創らないことだ。むしろ、全員の称賛を想定していたのだとしたならその作者には、“何らかの問題”と壮大な才能があると言える。そのまま、突き進むことをお勧めしたい。称賛と批判は、対で在る。

とはいえ、“感情の機微”を描くために心を全解放しているアーティストにとって、気を抜いた瞬間に飛び込んでくるSNSの痛烈なメッセージは恐怖でしかないだろう。気落ちするのはまだ強い人間であり、多くのアーティストは激高の果てに、枯れ墜ちる。

SNS批判への対処方法や、マインドフルネスを勧めるむきも多いが実のところ、著名な成功者たちの多くは、実践していない。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:SNSに作家が屈するのは、プロフェッショナル全員への危機である

THRのコラムニストは、ファンの反応に応じて作家が執筆内容を変更することは、誤った美徳主義であり、「すべてのプロフェッショナルを危険にさらす」と書いている。「DIY検閲」の津波については誰も検証をしておらず、将来的にクリエイティブな仕事に深刻なダメージを与える可能性があるとして、最近起きた2つの事件について語った。

ベストセラーのロマンス作家、Elin Hilderbrandは、あるオンライン読者に一部内容について攻撃され、出版社にその箇所を削除させ、謝罪した。その数週間後、彼女は小説の執筆から引退することを発表。同じ月、Casey McQuistonは批判を受け、McQuistonはすぐに、今後の版では該当箇所を省略することを約束した。

どちらのケースでも、批判をしたのは経験豊富な批評家ではなく、作品の文学的な必要性ではなく、個人的な偏見に基づいて意見を述べるソーシャルメディアの人々だ。

でした。もし、このような膝を打つような迎合と自己検閲が広まれば、テレビや映画を含むあらゆる形態のフィクションが、キャラクターやストーリーの必要性ではなく、ソーシャルメディアの気まぐれに反応し、再編成し、再生産するようになるのは時間の問題だと思います。
ソーシャルメディアで個人的な懸念を表明した人たちを責めるつもりではない。そうすることは、彼らが提起したテーマについての活発で必要な議論の一部だ。彼らの率直さと弱さに感謝します。この作品の悪者は、ソーシャルメディア上の人々に、すぐに屈服した著者たちである。

一握りの読者が否定的な反応を示したため、著者は見当違いの美徳を示してすぐに折り返した。そうすることで、すべてのストーリーテラーをプロとして危険にさらしてしまったのだ。私たちは、作品というプリズムを通して、自分自身をより明確に見る方法を学ぶ。作品は真実への道を開くものであり、その道は私たち全員が守らねばならない。
- JULY 16, 2021 THE Hollywood REPORTER -

『 ニュースのよみかた: 』

SNS批判に臆して作品を改編する「DIY検閲」は悪であり、他のアーティストにも害悪だ、という記事。

作家とTHR、どちらの気持ちも判るが結論は、記事の通りだ。屈するくらいなら最初から創らないか、“無難なテーマ”を悠々と泳いでいればいい。

『 作品とアーティストの関係を知れば、批判も意見 』

作品とは、ある種の批判と作家の思想を反映した創作活動の成果である。しかし作品を“自分のものだ”と想っている作者は、知っておいた方がいい。熱烈なファンは貴方以上に、作品に詳しい。作品の前に作者は、“にわかファン”に過ぎないのだ。

世界的な巨匠ミステリー作家と話していて、驚嘆したことがある。自身の膨大な出版物についてそれこそ出版社ごとの構成の段落違いまで、記憶されていたのだ。実は多くの作家が自身の過去の作品の仔細を、覚えていない。時には、自身が出演した映画のタイトルを言えず、出演した記憶すらないアカデミー賞俳優もいた。この違いは、“自作の大ファン”かどうか、で決まる。

熱烈なファンの指摘や批判の多くは、正当な意見であることが判るだろう。貴方はSNSでの批判に怒り震える、そもそもにその資格がないのだ。自作の大ファンなら、論破できる。

『 SNSへの人格否定、著名人の対処とは 』

とはいえ、創作を想えば込めた愛情は人一倍であり、ダメージも激高も当然だ。では国際的に著名なアーティストたちはなぜ、その状況を越えて悠々と、創作活動を続けていられるのだろうか。明確な、答えがある。

「数」だ。

人間の身体は同時に、2カ所の痛みしか感じることができない。また、絶えられない痛みには、気絶、という非常装置も設定されている。精神も同じ。

国際的に著名な成功者たちは、日に数十件の“殺害予告”を受けることもある。話は単純、「ひとつの批判の価値が低い」のだ。なかなかに絶望的だがわたしたち一般レベルのアーティストが傷つくのは、「超メジャーではないから」である。SNSやメディア批判にダメージがあるうちは、成功者ではないのだ。

『 謝罪か応戦か。どちらも違う一般対処法 』

傷つけばいいのだ。
作品を創るという行為は傷つくことであり、傷つくことがアーティスト人生なのだから驚く話でもないだろう。やつれ倒れ病む姿もまた、アーティストの箔だと観えなくはない。作品にとっての利にはなっても、損は無い。

国際的な成功者たちの多くは、臆病で繊細だ。彼らの優しさはまた、その地位までに傷ついてきた人生からの学びなのかもしれない。「傷つく」という行為はまたアーティストにとって、重要な気付きなのだ。スルーするなど、惜しい。

『 貴方の方が、酷い 』

ここ「アーティスト情報局」は、社交辞令を排して事実を扱っている。ならばこそに断言するが、アーティストを最も批判しているのは、アーティストだ。SNSの声など霞むほどにさながら呪術まがいの罵詈雑言で日常的に、他の誰かを批判している。“雑音”との違いは、心で殺すか、SNSに投稿するかの違いだろう。

「そんなことはない!わたしは全アーティストを称賛している!」という方がいたら、挙手願いたい。その方は素晴らしき立派な社会人であり、アーティストではないわけだが。

『 編集後記:』

映画企画のテーマを決定するプロセスには、計算外の力が作用する。
「次にあの扉から入ってくるレディと、結婚する。」そう宣言するような図々しさと覚悟がある。違いは、責任を負えるかどうかだ。

図々しくもまた、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記