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ヘリオス劇場でのプログラムに参加して①

3月16日(土)と17日(日)の二日間、乳幼児演劇に力を入れているヘリオス劇場を訪れた。BuT(ドイツ演劇教育連盟)は毎年、演劇教育士向けに十数個の研修プログラムを提供している。そして、今回のテーマは乳幼児演劇だった。ドイツの演劇教育制度と乳幼児演劇に関心がある僕にとっては、またとない機会だった。

プログラムではヘリオス劇場の乳幼児演劇作品をいくつか見ることができたし、その創作の仕方についても話を聞くことができた。何より参加してよかったと思ったのは、演劇教育士として働いている人たちと知り合うことができたことだ。乳幼児演劇がどんな演劇なのかは、書籍や映像資料、それから劇場で上演を見ることで知ることができるが、演劇教育士という立場から見てどうなのかという話は、今回のような機会でなければ知ることができなかっただろう。

研修内容についてnoteにまとめようとしたら、結構な文量になりそうだったので、何回か分けていきたいと思う。研修に参加してから時間を経ているのと、この機会に乳幼児演劇に対する自分の考えを文章化したいという思いから、事実と個人的な意見がかなりごちゃまぜになっている点をご了承いただきたい。


▶参加者の様子

演劇教育士向けのプログラムなので、参加者の多くは当然ながら演劇教育士として活動している人々ばかりだった。学生で、しかも外国人であるのは僕だけだったので、会場に入るまでは結構しり込みしていた。けれど、会場はとてもアットホームな雰囲気で、あんまり研修っぱくなかったのでホッととした。部屋には椅子がぐるりと丸く並べられていて、部屋の隅には飲み物やお菓子が置かれたテーブルが用意されていた。研修プログラムといっても、全員が私服で、スーツを着ている人なんて一人もいない。参加者は10数名で、やはり女性が多かった。

ドイツの劇場には演劇教育部門があり、そこには専門の演劇教育士が働いているが、劇場に所属せずフリーで活動している人も多くいる。今回のテーマが乳幼児演劇ということもあり、フリーで活動している人は、ふだん保育所や学校の職員として働いている人ばかりだった。昼休みにはみんなでご飯を食べに行き、お互いの仕事の様子を話していた。演劇教育士同士が地域を越えて集まる機会はなかなかないだろう。同じ演劇教育士といっても、抱えているプロジェクトの内容は千差万別である。また、労働環境についても、劇場ごとに異なるし、地域差もある。「どこどこの地域には演劇教育士がたくさんいるからネットワークは築きやすいが仕事は見つけにくい」という話が耳を引いた。いろいろと問題はあるものの、業界として成立している点はうらやましい。


▶ヘリオス劇場

プログラムは、ヘリオス劇場の演劇教育士の二人で進められた。まずはヘリオス劇場について、それに伴い、乳幼児演劇についての話がされた。

ヘリオス劇場は今から30年前、1989年に、ケルンのフリーシーンのアーティストたちによって設立された。さいしょから乳幼児演劇に力を入れた劇場だったわけではないところが味噌である。それから数年、1997年にハム市に移ることになった。ハム市は人口18万人ほどの地方都市であるにも関わらず、きちんとした劇場がなかったからだ。ハム市に移ってからしばらくは、劇場の建物もなく活動していた。やがて劇場の建物を探すことになり、ハム市の中央駅の隣に使われなくたった駅の建物が見つかった。この建物はとても古く、暖房などの設備も壊れていて、劇場として利用するには改装する必要があった。そして、それには莫大なお金が必要だった。

劇場を建てるために何度も話し合いが行われるなか、児童青少年劇場を立てるという構想が立てられた。ここら辺の事情についてはうまく聞き取れることができなかったが、おそらく助成金を募るなかで児童青少年劇場が考え出されたのだろう。町の観客とともに成長するというコンセプトをもとに、さまざまな年齢層の観客に向けて作品がつくられる児童青少年劇場を設立することになった。それから数年の交渉の末、2003年に改装工事がはじまり、2004年には劇場のオープニングとして3日間のフェスティバルが開催された。


▶ドイツにおける乳幼児演劇

へリオス劇場がとりわけ乳幼児演劇に力を入れるようになったのは、2004年という時期に設立されたことが大きいだろう。ドイツにおいて乳幼児演劇は2005年あたりから認知されるようになったからだ。

ドイツでは長いこと4才以下の演劇は不可能だと思われていたが、それにはドイツの演劇の傾向が影響していると考えられるそうだ。見たことがある人なら分かると思うが、ドイツの演劇はとても言語的で政治的な演劇が多い。ドイツで乳幼児に向けて演劇を見せるという発想が生まれなかったのは、当然といえば当然である。さらに、ドイツの演劇観だけでなく、ドイツの教育観も影響しているという。ドイツでは保育施設に入園するのは4才からで、それ以前は母親のもとで育てられるものとされていた。言い換えればそれは、乳幼児はパブリックな存在ではなく、プライベートな存在(privates Wesen)として認識されていたということだ。乳幼児という存在は、長いこと見えなかった(unsichtbar)のである。

フランスやイタリアなどの国々では事情が異なったようで、1990年ころから乳幼児演劇が創作されていた。2005年になると、ベルリンの児童青少年演劇フェスティバルAugenblick mal! にフランスやイタリアのアーティストが招聘されて、上演をもとにシンポジウムが開かれた。このときようやく、ドイツに乳幼児演劇が紹介されたのである。

その翌年2006年から2009年にかけては、今度は自分たちで乳幼児演劇を創作するために大規模なプロジェクトが実施された。このプロジェクトは、Theater von Anfang an! といい、ドイツの4都市で、それぞれ芸術家と教育者と研究者が三者共同で乳幼児向けの演劇について探究を進めることになった。この4都市のうちの一つがハムであり、ヘリオス劇場だったのである。


▶ヘリオス劇場の乳幼児演劇:素材の探究(Materialerkundung)

乳幼児演劇といっても、今では多くの劇場で創作されている。ヘリオス劇場はどのような作品をつくっているのだろうか。ファシリテーターがたびたび口にしたのは「素材の探究(Materialerkundung)」という言葉である。ヘリオス劇場でさいしょに創作された乳幼児演劇は『土、土くれ、石(Erde, Stock und Stein)』であり、その名の通り土という素材を用いた作品だった。その次に作られた『木の音(Holzklopfen)』は木という素材を用いて、パフォーマンスを構成している。同じく『エイチ・ツー・オー(Ha zwei Oohh)』という作品では水という素材をふんだんに利用している。このように、一つの素材を徹底的に探究し、そこからパフォーマンスを構成するドラマトゥルギーを「素材の探究」と読んでいるのだと思う。しばらくしてからは、物質的な素材に限らず、『跡(Spuren)』や『円(Kreise)』などの抽象的な概念を素材にして作品を作っている。

ドイツの児童青少年劇場には、教員や保護者向けの資料(Begleitmaterial)があるが、そこには木や水という素材について、科学的な説明に限らず、詩人や哲学者による文章も掲載されている。何度もドラマトゥルギーという言葉が用いていられていたことから、乳幼児演劇は発達教育的な目的のもとに行われているのではなく、あくまで芸術の創作を目的として行われているということが窺える。

乳幼児演劇がふつうの演劇と異なる点は、やはり観客が乳幼児だということだ。観客が乳幼児であることによって、私たちの前提を問い直すことになる。私たちが演劇というものを想定するとき、そこには自明としている前提がある。例えば、観客席は暗くなるとか、観客はその場に静かに座っていなければならないなど。しかし、乳幼児を対象とした途端にこの前提は通じなくなる。現代演劇にはしばしば演劇性を問い直すものがあるが、その点においても乳幼児演劇は優れていると言えるのではないだろうか。


▶余談:子ども向けの演劇にまつわる3つの表現

乳幼児演劇に限らず、子ども向けの演劇についての議論では、子どもが演じる演劇(Theater von Kinder)、子どもと演じる演劇(Theater mit Kinder)、子どもという観客を対象とした演劇(Theater für Kinder)という表現が出てくる。そして、乳幼児演劇に限らず児童青少年演劇というものは基本的に、子どもという観客を対象とした演劇(Theater für Kinder)であることが再確認される。この3つは明確に区分できるものではないが、子どもと演劇にまつわる実践について議論するときには有効だと思っている。

はじめ2つの捉え方(子どもが演じる演劇、子どもと演じる演劇)では、子どもの演技経験が議論になりやすい。その場合、演劇の芸術性は問題とはならず、子どもが演じるという経験についての教育的意義が問題となってしまう。そして、その教育的意義を明らかにできなければ、子どもが演じている様子を大人の見世物としている活動として捉えられてしまう。

一方、子どもを対象とした演劇という捉え方であれば、議論の仕方が異なるだろう。たいていの場合、大人が演者であるから、子どもを大人の見世物にしているという指摘は当てはまらない。仮に子どもが出演していたとしても、それは演出の問題であって、演技経験の問題ではない。演劇の経験について議論するのなら、それは演技経験ではなく、観劇経験になるだろう。作品によっては参加の要素があるものがあるが、そのときもまた演技経験ではなく、観劇の延長としての行為である。

子どもを対象とした演劇の議論の対象が、演技経験ではなく、観劇経験であるならば、それを評するやり方は、教育学ではなく芸術学だと思う。乳幼児演劇は演劇の延長であって、幼児教育の延長ではない。演劇を教育の視点から論じることも可能であるが、それは二次的な研究であって、演劇そのものを研究しているわけではない。もちろん、乳幼児演劇を幼児教育の視点から評価する研究があってしかるべきだと思うが、その前に、演劇として評価する必要があると思う。乳幼児演劇は前提として教育のためにあるのではなく、芸術行為としてあるということを強調したい。

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