恋愛で打ちのめされて、進路がうまくいかず、代表する団体の運営もダメダメで、自慢だった「彼女」も「勉強」も「人間力」も全てが手元に無くなったとき、幸せなことに様々な音楽が俺を救ってくれました。 今までとは全く異なって聞こえたのです。 同じ歌詞なのに…。 幸せに行っている時は、気づけないことが多いです。幸せではない時は、多くのことに気づけます。 それはまるで、幸せの時は胸を張って歩いているからその分背も高くてさ、低いものが見えなくて、他方でそうでない時はめっちゃ卑屈で腰も曲が
飲み会の席で「否定はしないけど…あんまりあの考え好きじゃないのよ…」という発言をしばしば耳にする。 しかし、「批判」と「否定」は明確に使い分けるべきだ。 今日、「否定はしないけど…」における「否定」には「批判」も含まれているように思う。 「否定」しないことは「価値観」の多様性を許容しているのではなく、放置しているだけだ。 許容することは理解が前提にある。 例えば、何か悪いことをした時「子供」であるから、仕方ないと許容したとする。そこには「子供」の可塑性が前提として存在し
世界は愛で満ちてなんかいない。 ただ、そう思う人間が愛に包まれているにすぎない。 一定の区域が限定的に愛で満ちているだけなのである。 人間が有する愛は限定的にしか存在し得ないのか。 全体的な愛の存在を諦めなくはない。
コロナの罹患者が増えて、後期授業もオンラインになろうとしている。 われわれは個人主義の流入と日本人の共同体思考で「孤独」と「連帯」の板挟みにあっている。 そして、それらはSNSによって極端になる。 言わば、SNSによる日常的意思疎通で「ムラ」を作り、そこでの連帯を強め、排他的になる。したがって、うちはうち、外は外と二極化する。 コロナの罹患者が増加し、後期もオンラインになりそうだ。 SNSで強めた連帯、言わば架空の連帯が現実の連帯になる機会がまた喪失してしまう。 この
先日味わった感覚について「答え合わせ」が出来た気がする。 8/8から2泊3日、携帯をもたず、本とペンとノートと服だけを持って、仙台の方に旅に出た。 気がつくままに在来線に乗っていたら「松島」にたどり着き、遊覧船に乗った。 自然たる海の上を人工物たる船が音を立てながら進んでいく。風を感じ、削られた島や穴の空いた島を見た。ただそこにある風景に身体を預けていた。ここ最近、「孤独」を強力に感じていた僕であったが、その時は「孤独」を一切合切感じていたかった。 自然に包まれた時、孤独
未来の俺よ、大変申し訳ない。 本当にごめんなぁ。 「あの時、死ぬほど努力すれば…」、と思っている未来の俺。 「こんなはずじゃなかった」、と思っている未来の俺。 「あの時の自分が本当に許せない」、と思っている未来の俺。 今の俺からのお願いです。 許してやってあげてくれ。 本当に何もやる気が出せなくて、文字通り「死にたくなるほど」辛かったんだ。 だから、許してあげてくれ。 努力したくて、成長したくて、本を漁ったり、毎日自分を鼓舞し続けたよ。それでも、頑張れなかったんだ。 だか
戦争映画や革命映画で各人が国やチームの目的のために動いている時、いいなぁ、と思う。 なんでそう思うのか、考えてみた。 社会的にみんな画一であることの安心を羨ましい、と思うのだ。 僕ははみ出しものだから、そんな出来事を待っている。 自ら選んではみ出したはずなのに、ある出来事でみんなが強制的に一つの目的に向かって進まなければいけない状態が来ないかなぁ、と思ってしまう。 やはり、孤独は寂しい。 そんな時、社会と完全に離別して生きることは僕にはできないのだと、自覚する。
先日、ホームレスいらない発言で炎上した彼が究極の2択をリスナーに投げかけていた。 「家族とホームレス、どちらかしか助けられないなら、家族を助けるでしょ?」 そして、次のように続けた。 「家族を選ぶなら、命は平等だが優劣はある」 確かに、そうかもしれない。 でも、綺麗事、掲げたいじゃん。 綺麗事でも「命に優劣なんかない」って言わないと。 真意はいいんだよ。どーだって。 ただ、さっきの2択に対して「どっちも助けるんだ」って言わないと、人間らしくないじゃないか。 年をとるたびに
中学の頃、あいつが振られた時に言ってた「死ぬほど辛いねん」が急に思い出された。 10歳も歳をとった俺があいつの言ってたことを理解した。 知るのが遅すぎて負けたような、あの時に分かってあげられなくて悔しいようなそんな気持ちです。 あの年で、こんな思いしてたんやなぁ。 というか、俺が知らない気持ちを持ちながら10年も生きてたのかぁ。 あいつが優しい理由が分かった気がした。 俺も少しは優しくなれるかな。強くなれるかな。 なりたいな。
電車内での話。 東北本線という電車にのり、福島から仙台へ向かっていた。 こんなに自然が綺麗な電車は実は初めてで、それら風景に釘付けになっていた。 外ばかり見ていてた。 視点を手前に合わせる。 反射した自分が見え、奥に山々と海が見える。 「自分」を見ようとすると「自分」が見える。 「自然」を見ようとすると「自然」が見える。 僕は見たいものを見ているだけなのかもしれない。 世界には見えてないものがたくさんあるのかもしれない。
14歳の頃から、日記を書き始めもうすぐ10年目に入る。たまにサボっている日もあるが、基本的にほぼ書いていた。 こう見ると、毎週毎週、決意をしている。 今日からは、明日からは…と。 僕は弱い。本当に弱い。 これまでとても頑張ってきたと思う。 小さい脳みそでよく頑張ってきたと思う。 1人でよく頑張ってきたと思う。 無理させて、ごめんね。 今は大変だね。辛いね。苦しいね。 頑張りたいって脳みそが連絡してくるけれど、心はもう疲れ切ってしまったみたい。 少し休ませてあげてもいいの
重々しいタイトルですが、大したことはありません。 少し前に自殺をする条件を決めました。 いつか死にますが、この条件が満たされても死にます。 これはセーフハーバーでもあり、戒めでもあります。 そこから少し時間が経って、以前よりは、「死」が近くなりました。
「時間」ってなんだろ… ①失恋をした。大失恋だった。泣きたくなるほど会いたくるくらい好きだった。ずっといると思っていた。そんな恋愛が終わった時、本当に何もかもの「色」や「意味」がなくなった。少なくともそう感じた。 そのなくなったそれらは、次第に取り戻しつつある。生きる意味も取り戻した。 なるほど、「時間」は「かせぐ」ものなのか。 ②卒論を書き始めた。いいアイデアや文章が浮かび、順調に進んでいた。ある時、進まなくなった。3日かけても、4日かけても、5日かけても、全く進まなか
「虚無感」を誤魔化しながら生きる人生。 朝起きた時、いつも虚無感に襲われる。「はぁ、今日も一日!!!」。ため息とやる気の同居。これがさらに虚無感を増大させる。 ランニングが好きだから、なるべくポジティブになれるように、そしてなるべく脳みそと体を疲労させて物事を考えられないように、朝ランニングをすることにした。 一定程度、効果はあって、いつもよりは希望に満ちた朝を迎えられる。 しかし、それは「誤魔化し」に過ぎない。 朝から晩まで四六時中、SNSやメディア、周囲全てが僕の中に「