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くだらないものが愛おしくて。

カフェオレを飲んだ後のコップでハーブティーを淹れたら濁ってしまった。馬鹿者である。DAMMANNと書いてあるハーブティー。知人にもらった。疲れた日に飲もうと思いつつ先延ばしに取っておいた。今日はまあまあ頑張ったので飲んでもいいだろう。部屋は汚いし少し暑いし小さな虫が飛んでいるのに気づいてしまった。雨も降っていたし微妙な気分だけれど、こうしてハーブティーを淹れて自分で機嫌を直せているので上出来だ。

今年度はもうほとんど授業を取らなくて良いので、今は水曜日しか授業を受けていない。あまり難しい話はしていなかったので、それを聴きながら紙の余白に落書きをしていた。授業中に落書きをするのは久しぶりだった。隣の子が「きれいな絵を描くんだね」と言ってくれて嬉しかった。ちゃんとお礼を言ったかな。どうだったろう。

同じような落書きを、中学生くらいの頃からずっとしている。描いている時はあまり考えていない。ただ話を聞きながら、手を動かしている。その時間は、なぜか幸福感に満ちている。ひなたぼっこをしたり、天気のいい昼間に散歩をしたりする時と似た気持ちだ。

「あぁ、こういう時間が幸せなんだよなぁ」と改めて思う。それは、生産的でもなければ特段の価値をもたらすものでもない。しかし、ただただ幸せを感じる時間なのだ。

はっきりとした理由は覚えていないが、「くだらないものが好きだ」という気持ちを高校生のあたりから持っている。「私の大部分は、くだらないものでできている」と悟ったように思ったのは高校二年生の頃。そう、私はくだらないもの、どうでもいいもの、あまり意味のないものが好きなのだ。それらを愛おしいと思っている。

世の中の大部分は、生産性と効率と成長を求めて日々進化している。(すぐ「世の中は」という語り口を持ち出すのは私の癖であまりよくない部分であるきがするが、素直に思うだけで、特段の他意はない。)大切なものを守るために、よりよい世界にするために、苦しむ誰かに寄り添うために、私も力をつけたいし前に進みたい。しかし、それと同時にどうでもいいものたちを愛し続けるのはなかなか難しい部分もある。でも諦めないぞ、ってこっそり思ってる。

Twitterとかnoteにも、くだらないことばかり書いている。というか、くだらないことしか書きたくない。少なくともこの場では、ほんとうに大事なことはあまり出そうとは思わない。

SNSが発達して、個人の考えや情報をたくさん発信できるようになった。でもそこで行き交うものは全てではないし、それは現実だけれど同時に虚構だと思う。

今日はそんなような話を人としていた。


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