見出し画像

2020年の3月11日。

バイトが終わって電車に乗っている。最寄りに着いたあたりで地震が起きた時間になるのだろうか。

友人が復興支援に充てられるショッピングサイト(https://yellmarket.yahoo.co.jp/tag/3514/)を教えてくれた。食べ物やアクセサリーなどがある。浮き玉や漁船の旗モチーフのものがある。可愛いな、ちょっと考えてから買おうかな。こういうことにお金を使える大人でありたいな。せめてこれくらいは。と思いながら商品を眺める。

3月11日14時46分。
この日時に毎年何となく想いを馳せている。想いを馳せて、涙ぐんでしまう。しかしこの日にやっと想いを馳せるようになることや思い返すと普段何もできないでまた一年を過ごしてしまった、ということを思って悔しくなっていよいよ涙が溢れそうになる。何も被災した人の痛みなんて分かっていない自分が涙を流しても何にもならないし、そんな泣きそうになるぐらいなら何かすればいいのに、と毎年思っている。

最寄りにすらたどり着かなかった。乗り換えの駅に着く。ここで地震が起きたらどうなるだろう。歩けない距離ではないから歩いて帰るんだろうな。丁度14時46分だ。
都営線の電車に乗る。「地震が起きたことを想定した訓練のためただ今列車が停止しております。」とのアナウンスがあった。そんなことをするんだ、と思う。少しの間、地震で被災した人のことを思って祈る。こういう時にいつも思い出すのは生まれて半年くらいの赤ん坊が流されてしまったお母さんの話だ。弟が今9歳なのでその子も生きていたら同い年だ。お母さんの悔しさとその赤ちゃんのことを思うと本当に悲しくて、考えるといつも涙が出てくる。

他人の、特に近しいわけでもない人間のことを思って泣く時、いつも後ろめたい気持ちがついてくる。初めて被災地に行った高校生の時、私はこの人たちの苦しみなんて茶碗に盛った米の一粒も理解できないんだろうなと思った。近しい人のことだって完全に分かり合える訳じゃないのに、私はこの人の何を知って泣いているんだろう、私の独りよがりな感情ではないか、と思ってしまう。
泣いちゃダメというわけではないことも知ってるし、そうやって知らないところで想ってくれる人のおかげで私も生きている。それでも後ろめたさはずっと感じてしまうんだろうな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?