ぬばたまの君

生まれて初めての暗闇だった。

人が生活圏を発光建材や蛍光塗料で漂白し始めたのは半世紀前の事だから、母の胎内ももう少し明るかった筈だ。

ぬばたまーー塗端魔、濡万玉とも書く。一定照度以下の暗闇が病んだ万色に置き換えられる現象にその名称が定着するのと、文明の光が照らす事のできる領域が如何に狭い範囲に収まるかを人類が思い知るのとはほぼ同時だった。

それは夜の大地を油膜のように覆い尽くし、日の光に照らされても消える事がない。体内の闇を侵された動物は光源を破壊し侵蝕を拡げる事を目的とする敵対的生物と成り果て、人類の生存圏は日々縮小を続けている。

ぬばたまに侵された生物は通常火器により破壊が可能だが、全き死が与えられるかどうかは議論の余地がある。シャッターの向こう側ではたはたと音を立てるのは少し前まで同僚だった二人だが、右脚を機銃に破壊された彼は今頃、ぬばたまに置き換えた脚で二足歩行より斬新な移動法を編み出しているかもしれない。

長時間の暴露によって蛍光繊維も発光飲料も光量を失ってしまった。自決用の弾もない。私は彼らの顔──万色の喜悦に輝く顔を思い浮かべる。すぐに私も仲間に入れる。そうすれば。……恐怖は消えなかった。

「……助けて」

死にたくなかった。今すぐ頭を撃ち抜きたかった。相反する願いは少しでも長く、最期の瞬間まで染まらぬ己で在りたいという意味では同等だった。

「誰か、助けて」

「間に合った……墨獣(ぼくじゅう)」

シャッターが切り裂かれ、視界を覆う万色の光。……を、切り取るようにして、巨大な四足獣の影絵が佇んでいる。その隣。

「檜扇 アヤメと申します。動かないで、お待ちを」

影より尚黒い、濡れたような長髪を持つ女性だった。今にも滴を垂れそうな程艶やかな。

影の獣が病んだ輝きを引き裂いて、暖かな闇に還してゆく。気を失う直前、万色を剥がされた同僚が視界に入る。

苦痛と悲しみに歪んだ顔が、酷く慈悲深いものに思えた。

【続く】

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