『コンテニュー』

目次

まぶたの裏に浮かぶのは、捨てたあの子の顔ばかり。

優しい夫。彼との間に恵まれた二人の子供。幸せな、あまりにもしあわせな生活。……あの子と一緒であったなら、決して得られなかったであろう日常。割り切っていたはずだった。だからあの日、ふいに目の前に現れたあの子に対しても、笑顔で謝ることができた。ごめんなさい。私にはもう、新しい家族がいるからと。

……澱のように心の底に降り積もる感情を自覚したのは、その日を境にしてのこと。夫にも打ち明けられない苦しみはやがて体をも蝕みはじめた。優しい"今の"家族の心配顔に、打ちひしがれたあの子の顔が重なる。眠りに落ちれば夢の中、暗い路地裏で冷たくなっているあの子が。あるいは曇る前に一瞬見せた期待に満ちた晴れやかな表情。私の腹部に刃物を突き立てて。

だから、今こうして私の寝台の横に立つ、少し背の伸びたあの子の姿を前にして、私はただ怯えて謝り続けるしか無かった。ごめんなさい。あなたを捨てて。どうか許して。そんな私を前にして、あの子は困ったように微笑んだ。

「お母さん、大丈夫だよ。」

あの日の期待と怯えにかすれたささやきでも、夢の中での憎しみと怒りに濁った声でもなかった。澄み切った、ただただ優しい声。私の頭に困惑が広がる。これはいつもの悪夢ではないのか。

「えーと……これで、大丈夫になるから。苦しいの、きっと終わるから。」

天使のようだと思った。見ることが叶わなかった――自ら路傍に打ち棄てた、娘の愛らしく成長した姿を見ながら、すべてを終わりにすることができるなら。この夢の中に捉われ続けるのも悪くはない。それは自分にはあまりにも過ぎた末路に思えた。

「お別れを言いに来たの。私はもう、大丈夫だから。……お母さん、私のこと、忘れていいよ。」

疑問ばかりが先行して、言葉の意味がうまく咀嚼できない。どうしてこの子は、こんなにも穏やかで優しげなのだろう。

「今、私ね、たくさんお友達がいるし、お勉強してご本も読めるようになってね、毎日すっごく楽しいの!でも、たまにね。どうしてもお母さんのことが気になって。お姉ちゃ……先生にわがまま言ったんだ。そしたら、こんなふうに大変だってわかって。」

そうだったらいい。そんなはずはないけれど。自分がついに壊れてしまったのだと思った。ありうべからざる夢想に逃げ込むことをはじめてしまう程度に。だってこの子は私を決して許さない。許されないことをしたのだから。こんなに優しいはずがない。優しさを向けられるべきではないのだから。

「……私もね。どうしても、お母さんを思い出して、どうしようもなくなる時があるの。それと同じくらい……ううん、ずっとずっとつらいのが続いてると思ったら、いてもたってもいられなくて。また、先生にわがままを言ったの。お母さんに、私のことを忘れさせてあげたい、って。」

忘れる。この子のことを。この子を捨てたことを。自らの罪を。己を縛り苛み続ける地獄の根元を。そうして、この苦しみから逃れる?降って湧いたような救いを前にして、胸を満たすのはあまりの都合の良さを訝しむ心でも罪悪感でもなく、打ち震えるようなさみしさだった。

「そうすれば、苦しいのきっと終わるよ。そのかわり、私もお母さんのこと、忘れる。」

さみしいと思った。どうしようもなく。今ある地獄と秤にかけるに足る程に。手を伸ばそうと試みても、体が思うように動かない。自分の体が寝台の上ではなく、何か椅子のようなものに座らされていることも、視界を塞ぐものが開けてはいられない程の重いまぶたではなく、何らかの機械装置であることにも気づく余裕はない。

「お母さん、私、怒ってないよ。私は今の私が好き。お母さんと……さよならしなかったら、先生にも、うさぎさんにも、みんなにも会えなかった。私、今しあわせ。とっても。だから、」

かつての自分の無力、過ち、罪。しかしそれは誰かの優しさに繋がり、優しいこの子の今へと繋がった。許されるべきではない。何一つ肯定されるべきではない。地獄が終わることはない。それこそ忘れ去らない限りには。でも、もう少しだけ。その優しげな顔を。澄んだ声を聞かせて欲しい。そんなわがままを言う権利など、ないと言うのに。

「私のことわすれて、しあわせになってね。」


涙とともに目を覚ます。悲しい夢を見たのだとわかった。内容は思い出せないが。

原因不明の心身の病は嘘のように快癒して、優しい家族との幸せな日常が戻ってくる。ふいに、どうしようもなく寂しくなる事があった。朝起きたら泣いていることも。その頻度は次第に減っていき、しあわせで賑やかな日常の中に埋没してゆく。

***

「私、才能あると思うんだよねー」

「目標があるのはいいことだ。」

「街に行ったら、本にのってる調味料とか食材とかたくさんあるんでしょ?すごいね。うでがなるね。」

余計な本を持ってきやがって、食材調達の苦労がどんだけ増したと思ってやがる。ウサギのアイツはそう言うが、お陰で"庭"の食事情はかつてない改善を見ている。この子のように、率先して台所に立ちたがる子供も少なくない。

「さすがにさ、雑誌で見た宝石みたいなお菓子はとても作れそうにないけど。家庭料理っていうの?毎日の献立とか、組み立てるの楽しいし。手際とかそういうの、重宝されると思うんだよねー」

「間違いないね。アンタほどの"家事フリーク"なら」

きっといいお嫁さんに、と言いかけてやめる。しあわせな家庭。母親。それらに対し、この子がどこまで本心から割り切れているか、それはこの子にしかわかるまい。

「新しいおうちでも、めちゃくちゃ働くよ私。腕を磨いてさぁ、ゆくゆくは、プロだね。シェフとか。でもお料理だけじゃ物足りないの。お掃除も好きだし、お洗濯も。ハウスキーパーっていうの?お仕事であるのよね。私社長目指すわ。稼ぐよー。左うちわさせたげるよ先生。マーダーもね。」

「期待しとく。アンタならやりそうだ。」

飄々と語る口元の上、機械に隠されたその表情は窺えない。隙間からは、どこかわたしによく似た癖毛の長毛が覗いている。

「先生、お話ししてよ。わたしの……新しい家族のお話。」

「ああ。」

操作を続けながら、わたしは応える。

「……いいご夫婦よ。ちょっと変わってるけど、賑やかで、何より優しいわ。旦那さんはゆりのお花が好きでね、小さな庭の花壇はお花でいっぱい。奥さんは小説家を目指して頑張る努力家。なかなかお子さんに恵まれなくてね。あなたが行けば、二人とも喜ぶ。」

「忙しそう。たくさんお手伝いしなきゃ。」

「余計なことは考えなくていいのよ。あなた自身を、宝石のようにかわいがる。保証する。」

日常の中で輝く、報われるべき善人。血眼になって、選びに選んだ。……《設定》としては、血縁からの養子。体が弱く、子供のないまま亡くなった女性と、彼女を愛しながらその死とともに蒸発した男性。《その間には実は娘があった。》二人とも優しい善人だった。《娘は当然、愛されて育てられたに違いない。》改変は最小限で済んだ。まがいの《石》の出力でも。

逆に言えば、わたしの《意志》ではその程度の改変しかなし得なかった。この子に何の瑕疵もない、両親との幸せな日常を提供する事がどうしても出来ない。つくづくこの世界の神々は、自分のキャラに暗い過去や業を負わせなくてはいられないらしい。

「うまく馴染んだらさぁ、お土産持って遊びに行くよ。街のお土産、みんな好きでしょ?先生も遊びに来てくれていいからね。みんなも連れて。」

わたしは答えない。この子に依頼されたのは、"親に捨てられた記憶の消去"のみ。だがそれでは足りない。新しい人生を一から《設定》する必要があった。些細な齟齬からのフィードバックを防ぐために。《石》で丁寧に整えた《設定》。あとは、本人の記憶の入出力を済ませるだけ。このレバーを下ろすだけだ。

《設定》は整えた。物語はあつらえた。本人の意思によらず。わたしの報われざる善意と介入が歪ませてしまったこの子の人生。取り戻すことは叶わない。せめて少しでもましになるようにと手を尽くした。しかしすべての因果を洗い出すことなど出来はしない。蒸発した"父"の残した妻を救うための借金。貰われ子という事実自体が、この子の人生に影を落とす事もあろう。一度手を差し伸べておいて。わたしは結局、この子の人生の全てに責任を負い続けることは出来ないのだ。

「……先生、いる?」

「いるさ。どうした?」

「おてて、握ってくれる?」

「怖い?安心して、すぐ終わるから。」

「少し、怖くて。……さみしいの。忘れなければ、どこにも行けないってこと、わかってるのに。」

震える手を握りしめる。震えを押さえ込むつもりが、思ったようにいかない。自分の手も震えていることに気付いた。

「忘れることは、悪いことじゃないんだってさ。神父様が言ってた。」

「神父様が……?」

「そう。神様なんかより、ずっと偉くてすごい奴。ことばの正しさは折り紙付きよ。」

「神父様なのに、神様より偉いの?変なの。」

「変でも何でもない。一番強くて偉いのは、結局ただの人間なのさ。」

それは"彼女"……あの日、培養液と血溜まりの地下室から、わたしに自由を与えてくれた、彼女が愛した物語からの引用だった。

「だから、安心してね。眠っていればすぐだから。」

「ねぇ先生、このお声はなに?誰がおしゃべりしているの?」

耳に聞こえるのは機械の駆動音。思い当たったのは、読めもしない絵本を眺めるこの子の姿。文字を覚え、たくさんの子供たちに好きなお話を読み聞かせるこの子の姿。物語に惹かれ繋がる特質。元ネタの声。

「とても、悲しくて、さみしいのに。いやじゃないの。こころがぽかぽかする。泣きたいくらい、かなしいのに。」

「目を閉じて、お声に集中して。そうしてるうちに、すぐ終わるから。」

「おてて、握ったままでいい?」

「もちろんさ。」

起動レバーがいやに重い。そんなに固く設定したつもりは無かった。まるで初めて書き込みボタンを押した時のように手が震える。いやあれはもっと簡単だった。熱と勢いに任せれば済んだこと。今のわたしは知っている。どこにも繋がらなかった虚無感を。繋げることのできなかった物語の末路を。その残酷を。全てが徒労に終わる虚しさを。

否。否、そうではない。無駄では無かった。何一つとて無駄では無かった。わたしにはじめて自由を与えた彼女のかけてくれた言葉も。果たせなかった善意、そして生まれた悪意も。上書きされた運命。それでもわたしの放った一手がなくば、何も始まることが無かった。この物語が生じる事はなかった。なんにも思い通りには行かなかったけれど、何一つだって無駄では無かった。だから、無駄にはしない。

無駄にはしない。だから、どうか。どうか。右手よ動け。決して完璧な正解ではあり得ない、このいびつな一手を放たせて欲しい。この子が何かに気づく前に。わたしに何かを問いかける前に。はやく。どうか、お願い。

「わたしのことなんか忘れて、」

それはこの世界において、何度目かに放たれた祈りのことばだった。或いは無数に。世界の内側から。時に外側から。無力を悟り、悔い、行く先に何もできない事を嘆きながら、それでもとこいねがわずにはいられない。わたしの手を離れた先で、どうか繋がって欲しい。誰かの優しさに。希望に満ちた明日に。新しい、豊かな、わたしの考えも及ばないような物語に。

「しあわせに、なってね。」

装置の起動。過電流で周囲の照明のフィラメントが爆ぜ飛び、どこに届くでもない祈りは全き闇と静寂の中に取り残される。かつての無数のそれらと同じように。ただ報われる時を待つ。待ち続ける。


人生は、つづく。物語もきっと。

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